信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan

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2018年10月21日(日)

ゲザ・アンダのモーツァルトピアノ協奏曲集を聴いていて、また火がついた。ウィーン時代のモーツァルトはオペラも書いたが、当時サリエリのオペラ人気が彼を上回っていた。しかし、ピアノコンチェルトに関しての作曲と演奏にかけてはモーツァルトの独壇場であった。モーツァルトはピアノ協奏曲を27曲書いた。11歳の時に書いた最初の4曲は他人のクラヴィーア曲からの編曲であって、オリジナルの第一作は第5番ニ長調 K. 175(1773年)からである。
面白い読み物で井上太郎著「モーツァルト・ガイドブック~新しい聴き方・楽しみ方」(ちくま新書)がある。時折り手にして読んでみるがきめ細かい内容で、具体的に演奏家も紹介していて参考になる。今日は本著に沿って井上氏の紹介で色んな演奏家で愉しんでみたい。
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ニ長調〔第5番〕 K. 175 はザルツブルクで作られた曲だが、愛着があったと見え、ウィーンに来てからフィナーレを新作のロンド K. 382 に変えたりして演奏している。
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マルコム・ビルソン (フォルテピアノ)
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)




このジャンルで最初の傑作は《ジュノム》と呼ばれる 変ホ長調 〔第9番〕 K. 271 である。1777年、21歳のモーツァルトの並み並みならぬ意欲がこめられたこの曲には多くの録音がある。
36年録音のギーゼキングとロスバウドの演奏はSP時代によく聴いたが、他にモノラルではハスキルとザッヒャーによる54年の録音が名演。現代楽器を使った一般的な演奏ではアンダの69年の録音がすばらしい。d0170835_09521526.jpg

クララ・ハスキル(ピアノ)
ウィーン交響楽団
パウル・ザッハー(指揮)



モーツァルトがウィーンに住むようになってから最初に書いたクラヴィーア・コンチェルトは、イ長調〔第12番〕 K. 414 である。これはチャーミングな第一、第三楽章と、荘重な第二楽章の対比が美しい。私はアントルモンがピアノと指揮をした84年の録音を愛聴している。オリジナル楽器演奏ではレヴィンの即興が入った演奏が楽しめる。d0170835_10143089.jpg

ロバート・D・レヴィン(ピアノ)
エンシェント室内管弦楽団
クリストファー・ホグウッド(指揮)



モーツァルトの自作品目録の第一ページに1784年2月9日として記された 変ホ長調 〔第14番〕K. 449 は、私の愛してやまない曲の一つ。よく聴くのはアントルモンの演奏である。他にブレンデルとマリナーによる78年の録音もよい。d0170835_10260546.jpg

アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
アカデミー室内管弦楽団
ネヴィル・マリナー(指揮)





次の ト長調〔第17番〕K. 453  は人気があり、録音の数も多い。パパゲーノの歌を思わせる第一、三楽章に対し、第二楽章は明暗が激しく交錯する。これの演奏はペライアが弾き振りした全集の一枚(80年の録音)が名演。また最近、人気上昇のグードがオルフェウス室内楽団を指揮しながら弾いた81年の録音に感銘を受けた。
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リチャード・グード(ピアノ・指揮)
オルフェウス室内管弦楽団



さていよいよ人気曲である ニ短調〔第20番〕 K. 466 である。この曲を初めて聴いたウィーンの人たちは、コンチェルトでは耳にしたことのない厳しい曲想に驚いたに違いない。しかし19世紀には最も好まれる曲となる。SP時代にはワルターが弾き振りした37年の録音を繰り返して聴いたものだ。現代楽器ではカーズンとブリトゥンによる70年の録音をベストとしたい。ハスキルの録音は七種もあるが、マルケヴィッチ指揮のステレオによる60年の録音より私はモノラルのパウムガルトナー指揮の54年の録音を取りたい。第一楽章のカデンツァは無類のすばらしさだ。
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ブルーノ・ワルター(ピアノ・指揮)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団




d0170835_10572471.jpgクリフォード・カーゾン(ピアノ)
イギリス室内管弦楽団
ベンジャミン・ブリテン(指揮)





次の ハ長調〔第21番〕 K. 467 も人気が高い。これは偏に第二楽章の旋律の美しさによるが、和声と転調の精妙さを聴き逃さないように。モノラルではリパッティが若きカラヤンと組んだ50年の録音が忘れ難く、現代楽器ではアンダの61年の録音を今でも愛聴している。グルダがアバドと組んだ74年の録音は、この二人の演奏の中でのベストだろう。85年録音の内田とテイトの演奏も味わい深い好演だ。d0170835_11082945.jpg

ゲザ・アンダ(ピアノ・指揮)
カメラータ・ザルツブルク





変ホ長調〔第22番〕 K. 482
 は重厚な大曲。ハ短調の第二楽章が特に感動的、第三楽章にはオペラの一場面を思わすような変イ長調のアンダンテが出てくる。リヒテルはこの曲を三回も録音しているが、ムーティと入れた79年の録音が好演。バレンボイムも三回入れており、89年の録音がベスト。第二楽章の深い表現は他に求め難い。

d0170835_11204852.jpgスヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
フィルハーモニア管弦楽団
リッカルド・ムーティ(指揮)





イ長調〔第23番〕K. 488
 は特別愛着のある曲。モノラルではハスキルがザッヒャーと入れた54年が定評ある名演。現代楽器演奏ではグードが指揮を兼ねた81年の録音がすばらしい。これが録音後10数年もオクラになっていたのはなぜだろう。遠山慶子とゼッキの息が合った83年の録音は、第二楽章の哀感が胸に迫る。
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リチャード・グード(ピアノ)
オルフェウス室内管弦楽団





ハ短調〔第24番〕 K. 491
 はこの分野の頂点に立つ壮大な名作である。編成も最大で、これに賭けた意欲のほどは異常でさえある。現代楽器演奏ではバレンボイムの88年の録音を推す。ベルリン・フィルと独奏のうまさに舌を巻くばかりだ。内田光子とテイトの88年の録音も特筆すべきもの。カデンツァは内田の作曲。
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内田光子(ピアノ)
イギリス室内管弦楽団
ジェフリー・テイト(指揮)




ハ長調〔第25番〕 K. 503 は《ジュピター》シンフォニーになぞらえられる、実に精緻に組み立てられた大作なのに人気があまりない。それは聴き手にロマン的な感情を呼び起こす要素が乏しいからだろう。現代楽器演奏ではやはりバレンボイムの88年の録音がよい。こういう曲ではオーケストラのうまさが決め手となる。グルダとアバドがウィーン・フィルと淹れた75年の録音も優れている。オリジナル楽器演奏ではビルソンとガーディナーの87年の録音を推す。曲の構造が手に取るように聴き取れる面白さは格別である。d0170835_11563069.jpg

マルコム・ビルソン(フォルテピアノ)
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)



次の《戴冠式》と呼ばれる ニ長調 〔第26番〕 K. 537 は昔ほど人気がない。愛称の故にポピュラーだった時代は終わったようである。この曲は、行きつくところまで行ってしまった作曲者が、聴衆を置き去りにしたという反省の下に書いたという考えも成り立つが、ひょっとするとウィーン以外の地での演奏を考えて書いたのではないだろうか。この曲のソロの左手のパートには書かれていない部分が多く、現行の楽譜は後世の補筆である。したがってレヴィンのような人が自由に即興を加えたCDの出現が待たれる。現代楽器演奏ではグルダとハーノンクールによる83年の録音が断然面白い。アシュケナージの全集の中の一枚(83年録音)はこの曲の輝かしさを生かした好演。d0170835_12104881.jpg

ロバート・D・レヴィン(フォルテピアノ)
エンシェント室内管弦楽団
クリストファー・ホグウッド(指揮)




さて最後の 変ロ長調〔第27番〕 K. 595 である。これが完成されたのは作曲者が死を迎える1791年初頭だが、すでに1788年頃に書き始められていたらしいことが、自筆譜の紙の透かしの研究から判明している。つまり三大シンフォニーが書かれた頃に書き始められたと考えられるのである。私はこの曲が三大シンフォニーとともにロンドンで演奏する企図の下に書かれたのではないか、という仮説を持っている。この曲のスコアを見ると他の曲とは違って、オーケストラの弦楽器のパートにトゥッティ(全員で演奏)とソロ(単独で演奏)の区別がいちいち書き込んである。それは書き込む理由があったからである。つまりウィーン以外のところで演奏を想定していたのではないだろうか。この曲は、結果的にはモーツァルトの最後のクラヴィーア・コンチェルトになったが、彼はこの曲を新たな出発の最初の曲と考えていたのではなかったか。しかもこの曲は例外的に、彼の生前にアルタリアから出版されているのだ。
アンダの69年の録音、カサドシュとセルによる62年の録音、グルダとアバドによる75年の録音など優れた演奏が多い。


d0170835_12290730.jpgロベール・カサドシュ(ピアノ)
ケルン放送交響楽団
ジョージ・セル(指揮)
録音: 1958




d0170835_12354340.jpgフリードリヒ・グルダ (ピアノ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
クラウディオ・アバド (指揮)





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井上太郎(1925~)氏は、作曲家、クラシック音楽評論家、作家で、湘南モーツァルト愛好会名誉会長も務める。早稲田大学理工学部を卒業後、出版界に入り、文芸書、音楽書の企画編集に長く従事。モーツァルトの魅力を、最新の学問的研究と達意の文章で生き生きと語り、幅広いファンを持つ。神奈川県平塚市在住。

by kirakuossan | 2018-10-21 09:39 | クラシック | Trackback(4)
2018年10月13日(土)


海潮音
上田敏訳

遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず



落葉      ポオル・ヴェルレエヌ

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。


仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具そなへ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉とらへむとす。  訳者



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1905年(明治38)の今日、上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行された。
おもにヨーロッパの詩人の訳詩集で、29人の57篇の訳詞がまとめられ、日本に初めて象徴派の詩を紹介した。
ときに東大講師上田敏32歳であった。
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by kirakuossan | 2018-10-13 06:45 | 文芸 | Trackback
2018年10月5日(金)

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平泉澄著の「物語日本史」(上中下三巻)を読み出したが、第十四序天智天皇、いよいよ面白くなってきた。
時代は天智天皇2年、西暦663年10月4日から5日にかけて朝鮮半島白村江(現在の錦江近郊)にて戦いが繰り広げられた。「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)と呼ばれ、今から1355年前の今日の出来事である。
天智天皇は蘇我氏を滅ぼして大化の改新を断行したが、ほかにもうひとつ重要な出来事がある。当時の朝鮮半島は、南に百済、東に新羅が建国していたが、百済は、北方の高句麗、それに西方のシナ大陸の勢力と東方の新羅と、双方の挟み撃ちにおかれていた。その同盟国でもある百済を救おうとして唐と戦ったことである。
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当時海外の交通はずいぶん盛んであって、唐がシナ大陸を統一した勢いの隆々たること、それにくらべて百済の武力の貧弱であって、とうてい太刀打ちできそうもないこと、それを天智天皇が御承知ならぬはずはありません。それを御承知のうえで、あえて百済を救おうとせられましたのは、一つは気の毒な小国の討ち亡ぼされるのを、黙って見ているわけにはゆかぬという義侠心からであり、今一つは大国の侵略を、あの一線で阻止しておくことが、我が国の自衛上、よいと判断されたからでしょう。
不幸にして白村江の戦いに敗れたために、ことによると唐の大軍はこちらまで攻め寄せるかもしれないとお考えになって、国内の防備の態勢を整えさせられました。すなわち対馬・壱岐・筑紫には、国境防備の防人を置き、対馬の金田、讃岐の屋島、大和の高安に城を築き、北九州では水城を造らせるとともに、大野城と基肄城とを築き、長門にも城を設け、山の頂には烽火(とぶひ)をあげて、急を告げさせることとし、用意怠りのないように手配せられ、そして都も、近江の大津へ遷されました。これらはすべて、唐の侵入に備えるためであったのです。
結果だけを見れば、唐との戦いは無謀であり、失敗であり、そして消極的な退守に終ったように思われるが、当時朝廷の御計画は、実に雄大でありました。~
そして百済の救援は、百済が亡びた後に、日本の実力をもってこれを再興しようとされたものであることを注意しなければなりません。


これを機に、律令国家の建設が急いで進み、倭国を「日本」へと国号を変える。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。
都を近江大津へ移した背景には、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いとされるが、ただ、「日本書紀」によるとこの遷都には民衆から大きな不満があがり、社会情勢は不安定で昼夜を問わず出火があったという。
混沌としたなか、そして歴史はやがて「壬申の乱」へと続いていく。



by kirakuossan | 2018-10-05 19:31 | ヒストリー | Trackback
2018年8月19日(日)

トルコリラの大幅下落を受け、トルコ・ショックは世界金融危機の火種となるか? 今にわかにトルコを巡る懸念が米中貿易戦争懸念と並行して、グローバル経済のリスク要因として浮上してきている。
日常、われわれ日本から見て遠い国のように思えるトルコだが、ただひとつトルコと日本を結びつける印象的な事件がある。エルトゥールル号遭難事件だ。1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現トルコ)の軍艦エルトゥールルが、和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した。同艦がもともと老朽艦であったため折からの台風による強風にあおられ岩礁に激突して起こった事件だったが、イスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示するがため天災による殉難と位置付けられた。このとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたとされている。

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今回の危機の渦中にあるレジェップ・エルドアントルコ大統領だが、その思惑の背景にはオスマン帝国復古の強い願いがあるとさえ噂される。その意味では、強いアメリカを標榜するトランプ大統領とは対立はするものの根底は近いものかも知れない。
中東に位置しながら石油が出ない国トルコ、我々には遠い国トルコはどのような国なのか。
トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクが著した、出世作『白い城』や、トルコ北東のアルメニアとの国境付近の町カルスを舞台にした政治小説『雪』、はたまた代表作『わたしの名は紅』が教えてくれるかもしれない。

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by kirakuossan | 2018-08-19 09:54 | 文芸 | Trackback
2018年8月9日(木)

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最近、仕事が繁多を極め、車の移動でレコードを掛ける時が、一番纏めて音樂を聴けるといふ日々である。先日は、さうした深夜の車中移動で、カラヤン&ベルリンフィルの一九六二年盤《第九》を久しぶりに聴いた。カラヤンのベートーヴェンは、元々好きではない。評價出来ない理由もはつきりしてゐる。だが、さういふこと以前に、この度聴き直してみて、この《第九》が餘りに退屈なことに、私は驚いた。~

《英雄の生涯》や《春の祭典》ならば輝かしい勝利に聴こえたカラヤンのサウンドが、何故、ベートーヴェンでは、あへなく「敗北」してゐるかのやうな印象になるのだらう。豪奢な響きと滑らかなレガートが、新たな魅力となるよりも、退屈さに聴き手を閉じ込めてしまふことになるのだらう。
カラヤンの《第九》の退屈さは、後からじわじわ来る。快速調で冒頭の三十二分音符を克明に刻ませ、第一主題の登場をレガートで歌ひ切る一樂章の出出しは鮮烈なのである。フルツヴェングラーへの意図的なレジスタンスでもありさうだ。云ふまでもなく、フルトヴェングラーはアレグロとは言へぬゆつたりとしたテンポで、宇宙創生のやうにこの曲を始め、三十二分音符は神秘的な音の霧にしてしまふ。第一主題はレガートの對極、踏み締めるやうな偉容を打出す。かうした《第九》像の讀み換へだとすれば、カラヤンの着想は悪くないと、私は思ふ。
が、残念ながらそれは、この後、音樂的意味への問ひ掛けには育たない。鮮やかな着想は、あつと云ふ間に、美麗なだけの音空間に退行する。カラヤンは、まるでR・シュトラウスのやうに、聴き手を美の催眠に掛けようとする。だが、ベートーヴェンの聴き手は、最高度に目覚めてゐなければならないのである。美麗な音の夢に微睡むことを、音樂は寧ろ厳しく禁じてゐる。それは、一歩ごとに聴き手の覚醒を求め、彼自身も又、作者と共に、崇高へとにじり昇らねばならぬ。カラヤンは《第九》から、さうした精神的な領域での葛藤を全て捨象してしまふ。


小川榮太郎著の『小林秀雄の後の二十一章』から、カラヤンとフルトヴェングラーの《第九》の一節である。このようなことは私にも同じ経験があるところであって、「第九」に限らず、カラヤンのベートーヴェンはどれも退屈である。
小川榮太郎氏(1967年~)は文芸評論家で専門は近代日本文学、19世紀ドイツ音楽とあるが、最近、別著に『徹底検証「森友・加計事件」 ―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪―』を発刊し、朝日新聞と係争している。今日図書館にこれを借りに行くもこちらの方は「貸し出し中」とあった。




國民會館主催の9月度の武藤記念講座でこの小川氏が講師で登場する。ぜひ行ってみようと思っている。

   ◇第1049回の記念講座
    演題:「江戸思想が可能にした『明治国家』」
    講師:文芸評論家  小川榮太郎氏
    日時:9月15日(土)午後1時30分~3時30分
    場所:大阪:國民會館 武藤記念ホール
  
要旨:今年は明治150年記念年であり、幕末維新が様々に回顧されている。しかし明治維新の際立った特質は幕末の政変そのものでなく、その後、古代以来政治的権威だったことのない天皇を擁立した地方出身の下級武士政権が、稀にみる高度で安定した近代国家を維持できた点にある。これは権力の力ではなく、民度と思想の力であり、その地力が育まれた江戸思想と近代国家の成立の関係を話します。




by kirakuossan | 2018-08-09 17:25 | 文芸 | Trackback
2018年7月31日(火)


安政四年(1857)正月二日
前日は、朝から雲一つない晴天で、水戸の城下町には、元日らしいおだやかなにぎわいがひろがっていた。武家の玄関には根切にした男松女松が左右に立てられ、豪商の家々にも門松がつらなり、正装した男女が連れだって神社に詣でる姿がみられた。年賀の者たちは、家並の間の道を往き交って、知り合いの者に会うと挨拶をかわし、また、城中恒例の礼式に参列する藩士たちは、ぞくぞくと登城した。しかし、一夜あけたその日の城下町は、異様な空気につつまれていた。神社に詣でる者はいたが、多くの者たちが、江戸に通じる道にむらがっていた。天候も前日とはちがって、空は雲におおわれ寒気がきびしかった。五ツ(午前八時)頃から、雪がちらつきはじめた。


吉村昭の小説「桜田門外ノ変」の冒頭の書き出し部である。この人のノンフィクション小説は良く出来ていて、最初から読者の注意を惹かせることに長けていると思う。
また、この人の作品でもっとも感動した記録文学「戦艦武蔵」の書き出しも、棕櫚(しゅろ)という日常あまり聞き慣れないものを突如として登場させ、これから読み進めていこうと思う読者にとって、一層の好奇心を擽る。


昭和十二年七月七日、盧溝橋に端を発した中国大陸の戦火は、一か月後には北平を包みこみ、次第に果てしないひろがりをみせはじめていた。
その頃、九州の漁業界に異変が起こっていた。
初め、人々は、その異変に気がつかなかった。が、それは、すでに半年近くも前からはじまっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の業業界にひろがっていた。
初めに棕櫚の繊維が姿を消していることに気づいたのは、有明海沿岸の海苔養殖業者たちであった。


吉村昭は、この「戦艦武蔵」を書くにあたって、最初出版社から依頼を受けたが、どうも気乗りしなかった。しかしどうしてもということなので渋々引き受けたが、それがこの人の出世作になった。

冒頭の書き出し部、字数にしてわずか400字あまり、ここでその長編小説の背景や主人公の立ち位置をざっと紹介してしまう。その文章には無駄がない。読んでいても理解しやすいく、しかも簡潔に書かれてはいるが決して無味乾燥な文章ではない。吉村氏持ち前の技といえる。


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慶応四年(一八六八)一月三日、薩摩、長州、土佐、芸州各藩の倒幕軍の砲撃によって戦端が開かれた鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦役として全面戦争に拡大した。
鳥羽・伏見の戦いは、淀藩についで津藩が倒幕軍側についたことから、幕府軍は総くずれとなって敗走した。大坂城にあった将軍慶喜は城を脱出し、海路、江戸に落ちのびた。朝廷は、慶喜追討令を発して新政府樹立を宣言し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、新政府軍は江戸にむかって進撃を開始した。総数約五万で、主力は薩摩、長州それに土佐藩の兵であった。
東海、東山、北陸三道を進んだ新政府軍は、途中、ほとんど抵抗をうけることもなく、四月十一日に江戸城は明け渡され、慶喜は水戸に去って謹慎した。その開城に憤激した幕臣や諸藩の脱藩士たちが、上野寛永寺に屯所をおく彰義隊にぞくぞくと参加し、新政府軍はこれを鎮撫しようとしたが効果はみられなかった。~

新政府軍に残された最大の課題は奥羽全域を支配下におくことだったが、会津を中心とした各藩兵と壮絶な攻防がくり返され、ようやく白河を落とし入れた新政府軍は攻撃目標を会津に定め、平潟に薩摩、大村の藩兵千人余りを上陸させる。その船倉内に、主人公であるのちの海軍軍医総監高木兼寛も乗りこんでいた。
今から読み始めようとしている「白い航跡」。さてどのような感動を与えてくれるだろうか、楽しみである。


今日7月31日は吉村昭の命日である。



by kirakuossan | 2018-07-31 13:45 | 文芸 | Trackback
2018年7月30日(月)


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最上等の料理といえば何処の国でも家庭料理にあるので、自分の家で好き自由に料理したものほど美味しい事はありません。我邦の有様もその通りですが我邦では西洋諸国と少し事情が違って料理屋料理はモー一層下等の地位にあります。それは全く客の方からそう悪くしてしまうので、肉の盛方が少いと小言を言う、上等のバターを出せば半斤位一度に舐めてしまう、ビフテキを出すと生焼だといって焼き直させる有様ですから如何に料理屋の主人が上等の料理を出したくも料理人が味で腕を見せたくも客が承知しません。肉沢山の安料理でなければ客が満足しません。全体今の処では日本料理よりも西洋料理が格安になっています。京橋辺にいる人がちょいと日本料理屋へ入って食事をすると向うの見繕いに任せて一人前二円位取られます。給仕の女に三十銭か五十銭も祝儀を遣ると一度の食事に二円五十銭も取られます。それが西洋料理屋へ往くと一円も出せば大威張り、一円以上の西洋料理は一度に食べ切れないほどあります。給仕の男に十銭の祝儀を遣ったところが一円十銭で済みます。しかるに今の人は日本の料理屋へ行くと楼婢(おんな)に三十銭も五十銭もはずむ癖に西洋料理屋へ往って給仕人に十銭銀貨の一つも遣らないような人さえ折々まだあるようです。五、六人で日本料理屋へ登るとオイこれを帳場へ遣ってくれろと二円も三円も祝儀を奮発する癖に西洋料理屋へ往って今日のスープは格別の味に出来ているからと五十銭銀貨を料理人に遣る人もない。つまり日本風の料理屋へ行くと外見のために贅沢をしなければならず、西洋料理屋へ往くとなるたけ吝嗇(けち)にしなければならんものと心得ています。こんな有様だから西洋料理屋が進歩しないので料理人に好い腕があっても客に制せられて駄料理ばかり作ります。味も何もあったものでありません。一、二特別の料理屋を除くの外西洋料理屋の料理といったら先ず西洋料理中の下等のものです」広海子爵「アハハ今まではその下等の物を悦んで食べていたのですね」
村井弦斎著「食道楽」秋の巻より第百八十九 下等料理(抜粋)



d0170835_16545772.jpg豊橋市出身の明治~大正時代のジャーナリストに村井弦斎(1864~1927)がいる。彼の著作である”道楽”シリーズは岩波文庫でも置いていていまでも手にすることができる。たとえば「食道楽」なる書物は、春・夏・秋・冬の4部に分けられており、登場する料理・食材は和・洋・中華など、実に600種類以上に及び、とてもすべてを読むことはなどはよほどの時間的余裕がないとこなせない。しかも単に食べものの話だけではなく、道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、旧来の悪弊を糾弾するような教訓的啓蒙小説でもある。

d0170835_17100902.jpg 弦斎は、1904年から亡くなるまで平塚市の平塚駅の南側に居住した。「食道楽」の印税で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、カキ、ビワ、イチジクなどの果樹園、温室、鶏、ヤギ、ウサギなどの飼育施設、果ては厩舎を築造し、新鮮な食材を自給した。当時は珍しかったイチゴやアスパラガスの栽培まで行った。また各界の著名人を招待したり、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという美食の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。ただし、彼は一連の「食道楽」ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、脚気治療のために玄米食の研究に没頭し、また断食、自然食を実践した。また、自ら竪穴住居に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。本人の死後、自宅一部、東側を河野一郎に、西側を小平浪平に売却している。(ウキペディア参照)



その村井弦斎は今日7月30日が命日である。偶然だが今日命日の文人が多い。伊藤左千夫 (1864~1913)幸田露伴( 1867~1947)谷崎潤一郎(1886~1965)今日出海(1903~1984)小田実(1932~2007)
これを見ると露伴より左千夫の方が年長だったのだ、これは意外でてっきり逆のように思う。

d0170835_2018385.jpg蛇足ながら、村井弦斎の死後、1万6千坪以上あった敷地のうち、自宅の東側を河野一郎に売却したとあるが、平塚駅南口の正面の目抜き通りの角地にある一等地である。確かに数年前までは人目をひくような壮大な河野邸だったが、その後、売却された。また、西側を小平浪平に売却したとあるが、小平氏は日立製作所の創業者である。また自宅あとは現在、村井玄斎公園となっている。
(写真は平塚南口前の目抜き通り 奥が平塚駅)





by kirakuossan | 2018-07-30 16:36 | 食・酒 | Trackback(166)
2018年6月23日(土)

門田
今、日本のメディアが抱える最も深刻な問題は、新聞ジャーナリズムが徹底的に堕落してしまったことだと思います。もう堕ちるところまで堕ちてしまったように思います。
新聞には、「報道面」と「論評面」の二つがあります。報道面というのは、いわゆるストレートニュースで、これは自分がどんな主義主張を持っていようと、きちんとファクト(事実)を読者に伝えなければいけません。一方、論評面はそれをもとに、自分たちの主義主張に基づいて、さまざまな論評を展開すればいい。しかし、朝日を筆頭に、今の新聞は自分の主義主張にしたがってストレートニュース自体をねじ曲げている。
つまり、新聞は主義主張、イデオロギーに基づいて”情報操作をするため”の媒体に成り下がってしまいました。私はなにも、新聞は不偏不党であれと言っているわけではありません。ただストレートニュースだけは、ファクトをきちんと報じろ、ということなんです。これが歪められれば、読者は物事をきちんと判断することができないからです。
たとえば、「安倍の葬式はうちが出す」という朝日新聞幹部の有名な言葉がありますが、ファクトを二の次にして、あるいは歪めて、安倍晋三首相を貶めることを目的にしたような「印象操作」を新聞は延々とやっているわけです。こういうことは一九七〇年代にもありましたが、今ほどひどくはありませんでした。



『週刊文春』と『週刊新潮』~闘うメディアの全内幕(PHP新書2018年1月刊)のなかで、《第二章》「ファクトを歪める新聞vs圧力と闘う週刊誌」の冒頭部で門田隆将氏が花田紀凱氏との対談で「新聞ジャーナリズムは徹底的に堕落した」と題して、核心に触れている。
このことは日頃から感じていることであって、新聞を取らなくなった大きな理由であった。ここでの門田氏の一連の発言は、嘆かわしい現実のありのままの状況を簡潔な言葉で言い得ていて、まったくそのとおりだと感動を覚える。
そんな露骨なやり方が横行してどうしようもなくなったときに、インターネットというものが現れた。これによって国民が自らが個人発信できるツールを持つことが可能な時代になり、それによって、その出来事の真実を知る関係者が、「それは違う!」と情報を発信できるようになった。マスコミが逆に「監視される時代」が来た、すなわち今までの新聞の嘘がバレるようになってきた、と門田氏は説明する。そこで対談相手の花田氏が付け加える。

花田
そこで新聞がどうなったか。「自分たちの主義主張に基づいて情報を加工するのは危ないからもうやめて、ファクトはファクトとして伝えよう」という正常な方向には行かなかった。むしろ、主義主張のほうがより強まって、余計変になっていった。典型的なのが森友学園、加計学園の報道です。


d0170835_08293667.jpgさらには少し以前、福島原発問題で、2014年5月20日付けの朝日新聞が報じた「所長の命令に違反して福島第一原発所員の九割が撤退した」という誤報。実際に吉田所長や大勢の現場の人たちの取材を行い、真実を見てきた門田氏が、それは違うと最初自らのブログで反論していたが、やがて週刊ポストで記事に書くことになった。これにより、真っ向から朝日新聞とやりあうことになるが、結局同年の9月11日に朝日が記者会見を開き、「吉田調書」記事を全面撤回し、社長以下責任者が更迭、辞任となる。
この一年、国会は森友学園、加計学園問題だけで終始したといっても過言ではない。野党は何かと言えば「国民のため」にわれわれは追求し、安倍政権を倒すというが、われわれの税金を使って、延々と茶番劇を見せられ続ける国民にとってはたまったものではない。「もう、ええ加減にせい!」と言いたくなる。
野党と新聞のこうした偏重した動きには共通したものがある。
この「吉田調書」問題や森友学園や加計学園問題などが、いかにでっちあげられた事柄であるかといったことは本著を読めばよくわかる。





by kirakuossan | 2018-06-23 07:10 | 文芸 | Trackback
2018年6月21日(木)

d0170835_18124618.jpgPHP研究所新書の編集長からノンフィクション作家の門田隆将氏に電話が入った。「花田紀凱さんと対談をしてもらえませんか。新聞がこんな情けない状態になっている今、これからの日本のジャーナリズムの行く末にも言及するような対談をやってほしい」といった趣旨の依頼であった。


門田隆将氏は大学卒業後、新潮社に入社、すぐに「週刊新潮」の編集部に配属された。以来独立する2008年までの25年間勤務した。そこでの特集班デスクで800本近く執筆し、培ってきた体験が生かされ、独立後も40冊以上の著作を世に出してきた。方や、花田紀凱氏は門田氏より16歳年上で、業界では先輩にあたる。「週刊文春」の編集長として多くの実績を残し、タカ派の論調を展開してきた重鎮である。
「週刊新潮」は1956年2月刊行、先発の昭和20年代に刊行された「週刊朝日」などの新聞社系週刊誌に対し、初めて新潮社から出版社系の週刊誌として誕生した。それから遅れること3年後の1959年4月に文藝春秋社から「週刊文春」が刊行される。

『週刊文春』と『週刊新潮』~闘うメディアの全内幕(PHP新書2018年1月)と題した二人の対談、気楽に読める新書である。
そこでまず花田氏が語るこの箇所に興味を抱いた。

花田:やっぱり『週刊文春』は総合週刊誌ですから、もちろん硬派の部分がメインであるわけですけどね。その面で自分の中で大きかったのは『週刊文春』(1988年8月25日号)に司馬遼太郎さんが小学校の国語の教科書のために書き下ろした「二十一世紀に生きる君たちへ」全文を載せたときでした。あのとき、編集長になって最初に、手ごたえを感じることができたんです。
関西の新聞に、司馬さんが子供向けに書いた随筆が、小学校の国語教科書に収録されるという小さな記事が出ていたんです。それで読んでみた。本当にいい文章ですね。ぜひ、再録したいと思った。
小学校の国語教科書のために書かれた文章を週刊誌に載せるなんて、普通ないですよね。『文藝春秋』本誌なら載るかもしれませんが、週刊誌では異例のことです。でも、司馬さんの許しを得てそれを載せたら、すごい評判になった。
そのとき、編集長になって初めて、方向性が少し見えたような気がしましたね。



21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)
私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは --- もし君たちさえそう望むなら --- おすそ分けしてあげたいほどである。ただ、さびしく思うことがある。
私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。「やさしさ」「おもいやり」「いたわり」「他人の痛みを感じること」みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。
もういちど繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分には厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていく。そして、”たのもしい君たち”になっていく。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
(平成元年「小学校国語六年下」大阪書籍)


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-21 17:34 | 文芸 | Trackback

「敗れても 敗れても」

2018年6月11日(月)

ここに小磯良平が描いた一人の人物がいる。島田叡。戦場の知事と呼ばれた第27代沖縄県知事である。
就任の第一声を受けて沖縄県庁の職員たちはみな感激した。


d0170835_08435992.jpg「情勢は、非常に緊迫しております。これは壁に向かって駿馬を駆り、そのまま突っ込んでいるようなものです。果たしてうまく壁のところで止まるか、それとも壁にそのままぶち当って人馬ともに斃れるか。そういう真に緊迫した状態にあります。諸君も、そういう気持ちを忘れずにやっていただきたい」
新しい若き知事は、なんとも不思議な譬えをする人物だった。だが、この人となら一緒にやれる。多くの職員にそんな勇気をもたらしたのは確かだった。
(この知事は、前の知事とは違う・・・)


米軍の攻撃が迫っている沖縄で、陣頭指揮どころか知事公舎の防空壕に籠りきりになり、はては県民を見捨てて本土へ逃げ帰った泉前任知事に代わって、急遽あとを任された島田叡(1901~1945)は、赴任するやいなや、限られた時間内で着々と県民のために尽くした。県民の沖縄北部への疎開を推し進め、あるいは敵の兵糧攻めにあうことを危惧し、海上の治安が危ういなかを台湾まで出向き、米を確保した。
米軍が沖縄本島に上陸するまでわずか2か月、そこでの島田がおこなった県政はいまも語り草となっている。
そして、1945年(昭和50)6月、沖縄最後の官選知事島田叡は、信頼する沖縄県警察部長の荒井退造とともに摩文仁の激戦地で消息を絶った。

島田叡が沖縄県知事の職を引き受けた心情は、彼の座右の銘でもある石川啄木の歌にある。


こころよく 我にはたらく 仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思ふ



島田は学生時代、東京帝大野球部で俊足巧打の外野手として鳴らした名選手だった。野球部のために高等文官試験の受験を一年棒に振るという自己犠牲を示した人物でもある。


門田隆将「敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦」





【新聞に喝!】
「活動家」になり果てた2紙の新聞記者 その使命は「煽情記事」を書くことか 
作家・ジャーナリスト 門田隆将
2018.6.3 06:56 産経

このネット記事を読み、ノンフィクション作家門田隆将(1958~)の存在を初めて知った。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社2003年)でデビュー、その後、戦時下の様子を書いた作品や福島原発を題材に取った『「吉田調書」を読み解く―朝日誤報事件と現場の真実』(PHP研究所2014年)またほかに多くの野球もの小説も書いて来た。

d0170835_20062609.jpg
最初に読んだ『神宮の奇跡』がたいへん面白かったこともあって、続く2冊目は先月発刊されたばかりの新刊『敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦』を手にしている。どちらも僕の好きな「大学野球」が題材になっていて、スラスラと読み進められる。




by kirakuossan | 2018-06-11 19:00 | 文芸 | Trackback