信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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2018年11月17日(土)

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2週間ほど前、イルゼ・フォン・アルペンハイムの素敵なメンデルスゾーンの「無言歌集」を聴き、彼女の夫が指揮者のアンタル・ドラティであると知った。そこで久々にドラティの演奏も聴いてみたいと思っていたところ、今日NMLの新着タイトルでチャイコフスキーの交響曲集など3枚の音源が新たに配信されていた。


オーケストラ・ビルダーで知られるアンタル・ドラティ、チャイコフスキー序曲集のなかでも祝典序曲「1812年」は初めて実際の大砲音を収録したことで知られる名演・珍演盤である。
それと同じくチャイコフスキーの交響曲第4番 ヘ短調 Op. 36、これはドラティのおはことも言うべきシンフォニーで、1963年4月にロンドン交響楽団が初めて日本にやって来た時、ドラティ57歳、二日目の大阪フェスティバルホールでの演奏会でこの曲を披露している。この時88歳のピエール・モントゥー、51歳のゲオルク・ショルティが一緒に来日しており、3人が日替わりで15日間にわたり、日本各地で演奏会を繰り広げた。ドラティは大阪での1公演、広島、福岡、名古屋、そして東京の2公演を受け持った。


チャイコフスキー:
デトロイト交響楽団 - Detroit Symphony Orchestra
アンタル・ドラティ - Antal Doráti (指揮)
録音: April 1978, United Artists Auditorium, Detroit, United Statesd0170835_09120610.jpg

チャイコフスキー:
コンセルトヘボウ管弦楽団 - Concertgebouw Orchestra
アンタル・ドラティ - Antal Doráti (指揮)
録音:1956年9月(モノラル)


チャイコフスキー第4番、”真っ向勝負”のドラティの真骨頂ともいえる名演である。



by kirakuossan | 2018-11-17 08:59 | 注目盤◎ | Trackback
2018年11月13日(火)

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バイエルン放送交響楽団


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ミュンヘンに本拠を置くバイエルン放送専属オーケストラのバイエルン放送交響楽団は、設立が戦後の1949年と比較的新しいが、同地のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と並んでドイツを代表するオーケストラの一つである。また、かのカルロス・クライバーがベートーヴェンの4番を振り名演を残したバイエルン国立管弦楽団とは別団体である。
同じ放送局専属のオーケストラとしてはフェレンツ・フリッチャイ率いるベルリンのRIAS交響楽団(ベルリン放送響)がドイツ北部に位置すれば、こちらミュンヘンは南に位置する新しいオーケストラとして注目された。
でも新しいといってもすでに70年近い歴史を誇るが、首席指揮者の変遷をみると、
オイゲン・ヨッフム(1949 ~ 1960)
ラファエル・クーベリック(1961~ 1978)
コリン・デイヴィス(1982 ~ 1992)
ロリン・マゼール(1993~ 2002)
マリス・ヤンソンス(2003~ )
と、たった5人の名前しか挙がらず、これまた珍しく少ない。しかもドイツ人指揮者は初代のヨッフムだけで、あとはチェコ人、イギリス人、フランス系アメリカ人、そしてラトビア人と続く。ケルン放送交響楽団もそうだったが、ドイツ人以外の指揮者が首席に長く就くということはこれは決して珍しいことでもなく、ドイツのオケでは時折り見られることなのである。

d0170835_08304359.jpgヨッフムはそもそもバイエルンの出身者であったが、記念すべき第一回演奏会はバイエルン放送局内のスタジオでこれも同地出身であったリヒャルト・シュトラウスが指揮している。それも自作の歌劇「ひそやかないざない」の間奏曲と歌曲のみであったが、彼の死の2か月前で最後の指揮となった。
創立当初はやはりベートーヴェンやモーツァルト、あるいはブルックナーといったドイツ・ウィーンものが中心であったが、ヨッフムがコンセルト・ヘボウへ移った後を引き継いだクーベリックとの間では、ドヴォルザークやマーラーを採りあげ、デイヴィス時代にはストラヴィンスキー音楽が加わるなど、レパートリーを増やし続ける。そうした様々な要素が加わるなかでより表現力を高め、世界にも名が通るオーケストラへと発展してきた。バイエルン放送響の奏でる響きが、他のドイツの名門オーケストラと比べて、重厚な中にもどこか明るさと、脱ドイツ的色彩?を帯びるように感じ取れるのは、単にドイツ南部の比較的温暖な地に生まれたというだけではなく、これら外国人指揮者による影響も大いにあると言えるだろう。
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今朝は、ヨッフム指揮の定評あるモーツァルトのセレナード、さらにクーベリックのマーラー、デイヴィスのメンデルスゾーンなどを順に聴いているがそんなことが実感されるのも気のせいだろうか。
今週末、楽しみにしているバイエルン放送響の演奏会が迫って来た。指揮者が当初のマリス・ヤンソンスが体調不良でどういうわけかズービン・メータが代役に、曲目もマーラーの6番から1番へと変更になった。ヤンソンスはこのオケとの15年のキャリアからどんな演奏をするのかそれが聴けないのは少し残念ではあるが、でもクーベリック時代から定評のあるマーラーが直にこの耳で確かめられるのは愉しみである。ここで聴くマーラー1番、第一楽章の序奏から極端にスローテンポでピアニシモで抑えながら進めるクーベリックの演奏、はたしてメータはどのように聴かせるのか。



モーツァルト:
オイゲン・ヨッフム - Eugen Jochum (指揮)

マーラー:
ラファエル・クーベリック - Rafael Kubelík (指揮)
録音: 2 November 1979, Herkules-Saal in der Residenz, Munchen

メンデルスゾーン:
コリン・デイヴィス - Colin Davis (指揮)
録音: 12-13 December 2983, Herkulessaal der Residenz, Munich, Germany



by kirakuossan | 2018-11-13 08:12 | 世界のオーケストラ | Trackback
2018年10月1日(月)

マーラーの交響曲を得意とする指揮者にいの一番に思い浮かべるのはレナード・バーンスタインであるが、それは彼が早くからマーラー交響曲全集を世に出したことに起因しているかも知れない。またクラウス・テンシュテットもEMIから全集を出し注目された。ほかにマーラーといえば、リッカルド・シャイーや少し個性的ではあるがピエール・ブーレーズ、そして最近の指揮者での第一人者はマイケル・ティルソン・トーマスといえるだろう。それからそうそう、若手で好きな指揮者のアンドレア・バッティストーニも好んでマーラーを振る。

d0170835_08273990.jpgところでここでひとり、マーラーといえば最も重要な人物を忘れていることに気づく。ディミトリ・ミトロプーロス(Dimitris Mitropoulos、1896~1960)である。
実はそもそもバーンスタインにマーラー音楽の魅力を伝授したのはほかならぬミトロプーロスであった。彼は戦後間もない1949年からニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就き、首席指揮者を経て、1957年にレナード・バーンスタインに後を譲った。人気ではたしかにバーンスタインにはかなわなかったが、ミトロプーロスの方が師匠格だったのだ。事実、現役時代は相当の人気を博し、アテネ出身から”ギリシャの哲人”と慕われた。


☆演奏スタイルは・・・
”耳の化物”と評されるほど耳の良さと記憶力が際立った指揮者で、加えてバトンテクニックの華麗さに秀でていた。また当時としては珍しく、独裁的でなく楽員たちとの協調性を重んじ、皆から信頼された。あのうるさ型の多いウィーン・フィルからも評判がよかったのもそういった人柄のためとされている。もともとピアニストでもあり、自らピアノ・パートを演奏しながらオーケストラを指揮する現代の弾き振りの先駆者でもある。

☆録音は・・・
マーラー以外にも、現代音楽を積極的に取り入れ時代の先端を切り開いた。一方でロシア物もレパートリーに数えられ、チャイコフスキーの5番の名演が遺されている。

d0170835_16145486.jpgチャイコフスキー:
交響曲第5番 ホ短調 Op. 64
ニューヨーク・フィルハーモニック
ディミトリ・ミトロプーロス(指揮)
録音: 27 March 1954, Columbia 30th Street Studio, New York



☆私見・・・
戦前、戦後からステレオ時代幕開けの直前が活動期ということもあって、日本ではあまり知られない存在である。あと10年長く活躍していたら、おそらく多くの日本のファンを獲得していたことだろう。


d0170835_16032493.jpgMyライブラリーより・・・
「20世紀の偉大な指揮者たち」
シリーズより
マーラー:
交響曲第6番 イ短調 「悲劇的」
ケルン放送交響楽団
ディミトリ・ミトロプーロス (指揮)
録音:1959年8月31日


by kirakuossan | 2018-10-01 15:59 | 続・指揮者100選 | Trackback
2018年9月30日(土)

d0170835_16052350.jpgアンドレ・プレヴィン(André Previn, 1929~)はジャズピアニストのかたわらクラシック音楽や映画音楽も手掛ける作曲家、そして指揮者と多彩な音楽家である。ユダヤ系ドイツ人だがナチスを逃れ9歳で家族とともにアメリカにわたる。ジャズピアニストとしては10代のころから天才少年として活躍、のちに1959年よりクラシック指揮界入り、ピエール・モントゥーの下で指揮を学び、30代後半から主要な楽壇に立つ。ユニークな経歴から指揮において余技の一つかと思われたが、若くして名門オケの音楽監督に就くといった幸運にも恵まれ、活動の主体が指揮に傾注していく。
d0170835_16062827.jpg1967年、ジョン・バルビローリのあとを引き継ぎ、ヒューストン交響楽団音楽監督に就いた後、68年から79年までロンドン交響楽団首席指揮者に就くと、併行してアメリカでは76年から84年までピッツバーグ交響楽団首席指揮者、86年からロサンジェルス・フィルハーモニック音楽監督に。さらに同時にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者を92年まで務め上げる。そして2002年、73歳でオスロ・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督を引き受け、ユッカ=ペッカ・サラステに引き継ぐ2006年までその地位にあった。そして09年から3年間、N響の首席客演指揮者もこなす超多忙な活動を展開してきた。

☆演奏スタイル・・・彼のレパートリーは、後期ロマン派からモダンミュージックまでこなし、いずれの解釈も明解で美しい音楽を創り上げる。

☆録音・・・
ジャズのセンスもいかした点で、ガーシュウィンの音楽は彼にピッタリと合う。

Myライブラリーより・・・

d0170835_16192487.jpgガーシュウィン:
ラプソディ・イン・ブルー/パリのアメリカ人
/ピアノ協奏曲 ヘ調
アンドレ・プレヴィン - André Previn (ピアノ)
ピッツバーグ交響楽団 - Pittsburgh Symphony Orchestra
アンドレ・プレヴィン - André Previn (指揮)

by kirakuossan | 2018-09-30 15:14 | 続・指揮者100選 | Trackback
2018年9月9日(日)

寂しいが肩の荷が下りて
永遠に楽団の一部になった気がするでしょう。

どんな人間になるかは生き方次第です。
我々は音楽のために生きるわけではない。
よりよく生きるために音楽があるのです。
 
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d0170835_23101974.jpg31年前、初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立ち、緊張の中演奏したのはマーラーの交響曲第6番「悲劇的」であった。そしてまた今、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を去る最後の演奏会で同じ6番を指揮する。



サイモン・ラトルは語る。この演奏会は別れの演奏会であると同時に、新しい関係の始まりの演奏会でもあると。
ラトルは2002年9月から2018年6月までの約16年にわたり首席指揮者兼芸術監督をつとめた。フェアウェル・コンサートは6月19日 フィルハーモニーで催された。ラトルの在任中、ベルリンフィルの演奏に直に触れることが一度もできなかったこと今となっては心残りである。

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d0170835_23142213.jpg(2018年9月9日夜 Eテレで放映)

by kirakuossan | 2018-09-09 21:51 | クラシック | Trackback(9)
2018年9月1日(土)

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いよいよ巨匠の領域に達しつつあるパーヴォ・ヤルヴィ。彼が創った故郷におけるオーケストラ、エストニア祝祭管弦楽団とのショスタコーヴィチを聴く。

d0170835_08024576.jpgショスタコーヴィチ:
交響曲第6番 ロ短調 Op. 54
Symphony No. 6 in B Minor, Op. 54
エストニア祝祭管弦楽団 - Estonian Festival Orchestra
パーヴォ・ヤルヴィ - Paavo Järvi (指揮)
録音: 17-19 July 2016, Pärnu Concert Hall, Pärnu, Estonia





ショスタコーヴィチ最大の交響曲第5番ニ短調に次いで1939年に書かれたこの3楽章からなるシンフォニーは叙情的な作品である。レナード・バーンスタインは、ショスタコーヴィチの第6番は「悲愴」を受け継いでいるとしてこの曲を評した。

チャイコフスキーの「悲愴」とこの曲は共に交響曲第6番でロ短調である。「悲愴」は音楽史上初めて、長くゆったりとした終楽章を持ってきており、ショスタコーヴィチの第6番は、音楽史上初めて、長くゆったりとした第1楽章になっている。

第二楽章の出だしなど、まるでチャイコフスキーの「くるみ割り人形」なる旋律を彷彿させる。たしかに全曲を通してチャイコフスキーを意識している。



by kirakuossan | 2018-09-01 08:03 | 注目盤◎ | Trackback
2018年6月7日(木)

1897年の今日6月7日、ジョージ・セル(George Szell、1897~1970)が、ハンガリーのブダペストに生れた。残念ながら一度も彼の指揮に接したことはなかったが、なぜかしら昔からその存在は気になるものであった。それは早くから手にしていた彼のドヴォルザーク第8番のレコードのせいかもしれない。また。あののちのちに語り継がれる名演を残すことになった1970年5月大阪万博の最初で最後になった初来日、そしてそのわずか2か月後の急逝、その印象があまりにも鮮烈であったからかもしれない。
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この愛聴盤(ドヴォルザーク交響曲第8番)はセルが初来日する半月前に演奏した最晩年のもので、彼の最後の録音となった。ライナーノーツでは藤田由之氏がこう記している。


本年(1970年)5月のセルとクリーヴランド管弦楽団とのはじめての来日は、こうしたセルとそのオーケストラとがもつ演奏の特質を、あますところなく伝えていたが、その来日にさきだって、4月末にその根拠セヴァランス・ホールにおいて録音されたシューベルトの第9交響曲と、さらにひきつづき録音されたこのドヴォルザークの作品は、セル自身快心のできばえであったといわれ、事実、それらは、彼の最晩年の円熟をみごとに立証するとともに、彼の最後のレコーディングともなったのである。その偉大な存在の死は、たしかに、世界の楽壇の損失といえ、驚異的なテクニックと完璧な耳とが生みだす音の魔術には、永遠にふたたび接する機会を失ってしまったが、これらのレコーディングは、そのなまの演奏に接した感動とともに、いつまでも音楽を愛する人びとの心の中にのこってゆくにちがいない。



ところでセルはよほどこのドヴォルザークの8番を愛したのだろう。古くは1951年、最初にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との演奏で録音した。さらにいずれもコンセルトヘボウと1958年、1970年と3度もレコーディングを行なっている。その他に、1969年にはスイス、ルツェルンでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団との名演奏を残している。これはNMLでも聴けるが、高音質のライブ録音である。
そして手兵のクリーヴランド管弦楽団を振ったのが生涯最後の録音となった。
その演奏は、円熟味もさることながら、どちらかといえば、そこには感情をむき出しにした、あの冷徹な印象を抱かせたセルとは別人のようなほとばしるような若々しいセルの姿があるように思う。



by kirakuossan | 2018-06-07 16:43 | myライブラリー | Trackback

15枚目のレコード

2018年5月9日(水)
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今もこのジャケットを見るたびに1970年万博のことを思い起こす。LPを買い出してこれが15枚目である。ジャケットを見開くと、
鉄夫よりプレゼント。 No15
S47.6.28 
(27日にはマッチャンの大学の演奏会でこの40番を聞いて感動する)
とある。

ジョージ・セルが手兵のクリーヴランド管を引きつれて来日したのは48年前のちょうど初夏の香りがそろそろしはじめるかな、といった5月の今頃だった。
最近なぜか、次の記事が頻繁に上位ランキングに顔を出すのでまたアーカイブで挙げてみた。




archive



ジョージ・セルという指揮者


2016年1月9日(土)

1970年に大阪で万国博覧会が開催され、ちょうどこの時、今でも語り草になっているが世界各国から一流のオーケストラが多数やって来て、素晴らしい演奏を繰り広げた。
「セル来りて、永遠に去る・・・。伝説として語り継がれるただ一度の来日公演」と今も評されるひとりの大指揮者がこの時初めて日本にやって来た。ジョージ・セル(1897~1970)である。クリーヴランド管弦楽団もそのときが初来日であった。
セルは1970年5月15日大阪・フェスティバルホールの公演を皮切りに、翌16日大阪、そして京都で20日に、翌日名古屋へ出向き、22、23日と東京で、そして25日には札幌へ、翌日には東京へとんぼ帰りして最終公演を行った。同じく5月にやって来たカラヤン/ベルリン・フィルが前日の14日まで大阪で6公演行ったが、それよりも人気が高く、極めて高い評価を受けて多くの聴衆に感銘を与えた。そして帰国後、2か月わずかで突然信じられない悲報が入って来る、「セル、急逝する」の知らせであった。
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d0170835_21134581.jpg生前、あるいは没後においてもセルに対する評価は二分する。完璧主義者で禁欲的であまりにも厳密な解釈が冷徹な指揮者として受け取られた。また片方では、端正で透明度の高い、均整の取れた音楽を完成度の極めて高いものとして評価された。果たしてどちらが正しいのか。いやはたまたそのどちらも正しいのか。
猿田悳による『音楽との対話』での、セル初来日の2年前1968年に書かれた「ジョージ・セル」の一稿は、その答えともなることがらを示唆してくれる。

指揮台にのぼり、ものの二、三分もすると、楽員はこの指揮者の下で全力を尽くした方がいいか、その必要がないかを見わけるそうで、日本のある練達の楽員の言葉だが、うそではあるまい。~
ことの善悪を問わず指揮者という職業に権威は必要なのだが、セルはこの点で不足はなかった。家族的な安易感などというのはこの世界では第二の条件で、第一にはむしろ憤慨と悪意を呼びおこす叱咤である。こんな逸話がある。トスカニーニが死んだとき、ある楽員は葬儀に招かれなかった。
しかし彼はこう言った。「いいだろう。だが、セルのときにはぜひぼくに案内状を二枚とっといてくれ」
こんな話もある。クリーヴランドでは週二回の演奏会のために七回の練習を行うそうであるが、楽員はこう言うそうだ。「演奏会は九回あるが、たまたまそのうちの二回は客がいるにすぎない」
セルはよくヨーロッパの巨匠たちにあるような、稽古はほどほどに切り上げてという方法はとらない。納得ゆくまで各声部をみがきあげ、完璧なものにしようとする。フレーズをくっきりと造形し、鮮明な音色を求め、しかも音楽の内容を生気あふれるものにしようとする。そのうちどの一つでも充たされないかぎり、彼は稽古を止めない。この結果生まれた透明で純粋な音楽が、ときとして伝統的な音に馴れた聴衆に異様にひびくことはありうるだろう。つまり、この造型の仕方に完全に異質な音楽もあるはずである。それは発売されたレコードの一覧を見てみればわかる。セル自身が自信をもっているのは、一見予想外にみえるがウイーン古典派である。そして名実ともにレコード表に見当たらないのはフランス近代音楽、とりわけ印象派である。印象派の音色とセルの美意識が造型するもの、これはたしかに異質だろう。しかし、まだ自分の耳でたしかめてもいないわたしには何も言えない。あるいはすばらしいかもしれない。セル自身がこんなことを言っているのだから。

「不統一のまま熱狂するのもたしかに結構だろう。だがわたしには、偉大な芸術とは決して無秩序ではないということだ」



d0170835_2244212.jpgドヴォルザーク:
交響曲第8番 ト長調 Op. 88, B. 163
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ジョージ・セル(指揮)
(録音: 1969, Liver recording)



セルは、明らかにその天性においても信条においても、新しい時代の担い手といっていいだろう。現在彼に抗しうるのはバックハウスのほかに存在しない。それは<裸形の精神>ということだ。手垢だらけのロマンティシズムへの郷愁にも、超絶技巧への盲信にも、誇張したスキャンダラスな解釈にも無縁な、ひどく透明で、緊張した精神構造を持った人間という意味である。だから彼はひとりの偉大な芸術家の典型なのであって、ただクリーヴランドの指揮者でもなく、アメリカの寵児でもなく、没落した西欧教養世界を含めた再現芸術の世界での新しい典型ということができるのである。
その特徴を透明、純粋、緊張の極限、巨大な構造物などと名付けることができるが、その証拠をひろい出すのは困難ではない。数十枚の発売されたレコードの中から、二、三枚のモーツァルトやベートーヴェンを任意にとりだしてみれば、いつでも気付くことができる。



モーツァルト:
交響曲第41番 ハ長調 「ジュピター」 K. 551
クリーヴランド管弦楽団
ジョージ・セル(指揮)
(録音: 18 November 1955)


『運命』においても『ジュピター』においても、彼はこれらが人間の運命とか神の創造などと少しも関係があるとは思っていないのであって、当然のことながら彼が拠るのは譜面だけである。忌憚なくいえば彼には想像力がおそろしく欠如している。フルトヴェングラーにあまっていたような想像力である。しかし今日この欠如は彼にとって最大の財産で、彼には譜面を彼流に理解した結果、楽員に命令して直線的に現実の音とする仕方しかない。余分なものは彼自身持っていないのである。だから、音楽につけ加えようがないのだ。


ワルターやフルトヴェングラー、あるいはベームなどは各地の歌劇場指揮者へと進んで行った。また当時は指揮者として名声を得るにはオペラとは無縁ではいられなかった。しかし、ハンガリー生まれのセルはドイツ、オーストリアから外へ飛び出し、オペラの世界からも絶縁の姿勢をとった珍しい指揮者であった。そしてその結果、孤高と言われる巨匠となった。
そして万人が素直に認めるところは、ジョージ・セルは厳しい訓練によって、クリーヴランド管弦楽団を世界最高のアンサンブルと称えられる合奏力に高めたという動かしようのない事実である。








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by kirakuossan | 2018-05-09 05:09 | クラシック | Trackback

unCLASSIFIED

2018年5月3日(木)


選考を任されたザンデルリンクがもうひとりの選考委員ノリントンに言った。
「アーベントロート翁の推薦もあったから1番と2番をミュラー=ブリュールという男に任すことにしたよ」
「はい、わたしもよく知りませんが手堅いらしいですね」
そして言った。
「ノリントン君、君には4番をたのむよ、僕は6番に回るから」
「えッ!? 先生が6番だって、意外だなあ、てっきり3番か5番かと思いました」
「いやそれでいいんだ、意外性が面白いんだよ、きみ」
「なるほど」
ノリントンが続けた。
「じゃあ3番と5番をドホナーニ先輩にお願いしますよ」
「それでいいんだ」
「ところで、少し気難しいギーレンだが、彼には7番を頼んだよ」
「あの人、受けました?」
「そら、受けるよ。渋い7番って、彼にもってこいだよ」
さらにザンデルリンクが、
「今回若手をひとり選んだが、イラン人のラハバリ君だ、彼には8番がいいだろう、ちょっと若々しくて青そうで」
「はい、ごもっともです」
「それじゃ、やはり〆はブロムシュテットさんですね」
「まあ、そうじゃろ、このメンバーでは」

ということで、無事、ベートーヴェンの9曲の指揮担当が決まりました。
(打順じゃなかった)


9曲が指揮者、オーケストラがばらばらに組み合わされた交響曲全集というのは珍しい。レーベルがunCLASSIFIED、まさに”分類されていない”全集だ。今朝、NMLで他の曲と合わせてたくさん新着タイトルで登場していた。


指揮者▼
ヘルムート・ミュラー=ブリュール(1939~2012)1番&2番
クリストフ・フォン・ドホナーニ(1929~)3番&5番
クルト・ザンデルリンク(1912~2011) 6番
ミヒャエル・ギーレン(1927~)7番
ロジャー・ノリントン(1934~)4番
アレクサンダー・ラハバリ(1948~)8番
ヘルベルト・ブロムシュテット(1927~)9番

オーケストラ▼
ケルン室内管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団、西ドイツ放送交響楽団、バーデン・バーデン&フライブルク南西ドイツ放送交響楽団、ベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団、シュターツカペレ・ドレスデン

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by kirakuossan | 2018-05-03 09:15 | クラシック | Trackback
2018年5月2日(火)
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今日は彼の誕生日であったことから思い出し、まだ指揮者シリーズで意外にも彼のことを書いていなかったことに気付いた。ドイツの名指揮者ホルスト・シュタイン(Horst Stein, 1928~ 2008)である。バンベルク交響楽団終身名誉指揮者であるが、1973年に初来日してN響の定期を振った。以降1998年までに16回のN響定期の指揮台に立つ。放映された画面から知った、あのおでこが極端に出っ張った愛嬌ある風貌、それにそれまであまり接することのなかったワーグナーのあの荘重な管弦曲、たしか、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を初めて聴いたのはこの時ではなかったか。
カラヤンやカイルベルトらの助手を務める傍ら、歌劇指揮者としての実力を蓄えて行った。34歳でバイロイト音楽祭でワーグナーの「パルジファル」を指揮、のちに「ニーベルングの指環」全曲を指揮し、ワーグナー指揮者としての名声を確立した。
生誕地は旧西ドイツのヴッパータル、同郷の先輩にハンス・クナッパーツブッシュ、ギュンター・ヴァントがいる。
1980年から5年間、スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者にいたことは意外であり知られていない。そのポストをアルミン・ジョルダン に譲った後、1985年から11年間、バンベルク交響楽団の首席指揮者に就いたのが彼の最大のキャリアであった。


☆演奏スタイルは・・・
オーケストラの扱いにそつがなく、その音色は重厚でけれん味がない。

☆録音は・・・
ワーグナーを中心に歌劇、楽劇の録音が多い。ソリストとの息が合うところも歌劇で経験したためか、片方で、協奏曲の伴奏にも秀でた演奏が多い。
フリードリヒ・グルダ とのベートーヴェンのピアノ協奏曲集は、ウィーン・フィルの伴奏も相まってシュタインの代表的名盤に挙げられる。

☆私見・・・
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父が機械工であったことでもないがどこかドイツの職人肌の指揮者を思わせる。温かみがあって人間臭くて好感の持てる指揮者であった。当時、同じようにN響の客演でよく登場したヴォルフガング・サヴァリッシュが冷たいイメージを持ったのとは対照的であった。


Myライブラリーより・・・
d0170835_11005922.jpgベートーヴェン:
フリードリヒ・グルダ - Friedrich Gulda (ピアノ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 - Vienna Philharmonic Orchestra
ホルスト・シュタイン - Horst Stein (指揮)
録音: 1970、1971

by kirakuossan | 2018-05-02 07:18 | 続・指揮者100選 | Trackback