ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

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冬の湖東三山を訪ねて

2017年1月7日(土)

琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西山腹に位置する、三つの天台宗寺院、湖東三山。南から古い順に百済寺、金剛輪寺、西明寺と並ぶ。百済寺は聖徳太子が開基とされ、金剛輪寺は奈良時代行基により、そして西明寺は平安時代三修上人が開いた。
5年ほど前に一度来ている。その時はのどかな田園の蕎麦屋で味が評判のそば処「藤村」を訪れたその帰りに金剛輪寺へ立ち寄った。夕方になってしまいあとの二つは次の機会に・・・ということであったので、今回それが実現したわけだ。

龍應山 西明寺
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d0170835_7464974.jpg琵琶湖の西岸にいた三修上人は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。寺の名の由来である。現存する本堂と三重塔は鎌倉時代の本格的な建築で、どちらも国宝である。
西明寺境内は綺麗に整備され、立て看板がポイント、ポイントにうまく配置されて建っていて、見物客には解りやすい。三重塔が美しい。正月だというのにあたりは閑散としていて来訪者は二組ほど、本堂内にいた寺の人に聞くと、正月はいつもこのようで、今日はまだ人が多い方だという。一年で8割がたが秋の紅葉シーズンに訪れるという。
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松峯山 金剛輪寺
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d0170835_8352828.jpgd0170835_912223.jpgd0170835_945530.jpg車で2~3分程南下すると、金剛輪寺がある。天平13年(741)に創建。天正元年(1573)、織田信長の兵火で百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は焼失をまぬがれた。これは総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされたと言われる。たしかに急な石踏みの坂道が続く。その左右の道沿いには地蔵が並ぶ。その数1900体とされ、みな正月らしく前掛けも新調されていた。入母屋造、檜皮葺の和様仏堂の本堂は国宝、左奥に雄々しく聳える三重塔は重文である。この塔は焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃し、初層と二重目がかろうじて残るだけで、三重目はなくなっていたところ、40年ほど前に西明寺の三重塔などを参考に修理復元される。地蔵が立ち並ぶのも40年ほど前かららしい。
相楽総三を隊長とする赤報隊はこの寺で結成された。
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釈迦山 百済寺
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d0170835_99410.jpg推古天皇14年(606)創建。聖徳太子が当時来朝していた高麗の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であったが、太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てたといういわれがある。境内の丘から琵琶湖西岸を望む眺望が絶景である。規模はそれほど大きくはないが、三山では最も古い歴史を誇るだけに独特の落ち着きがある。小林秀雄も賞賛したということだが、途中、ワープロ文字で色んな説明書きが多くてあって一見親切ではあるが、入り口にでーんと据えてある自動販売機といい、やたら目に付くTOILETの看板といい、かえって風情を壊しているようにも感じられる。
鐘は昭和30年の作だが、美しい音色と余韻の長さで”昭和の名鐘”と呼ばれるとあるが、たしかに中ぐらいの力で撞くと、えもいわれぬいい音がする。そして余韻も2分近くした。  
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(2017年1月6日)



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by kirakuossan | 2017-01-07 07:27 | 近江抄 | Trackback

3月3日、もう一つの変

2017年1月6日(金)

桜田門外の変は安政7年(1860)3月3日に起きたが、その日は季節外れの大雪が降った。それから8年後の同じ日、慶応4年(1868)3月3日、氷雨が降り注いでいた下諏訪の温泉宿で一人の尊皇攘夷派志士が謀殺された。志士の名は赤報隊隊長相楽総三である。赤報隊とは、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の草莽隊である。

d0170835_19273371.jpg江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の功績とされているが、事実は早計に判断できかねるものであって、西郷の本心はあくまでも江戸城総攻撃の実現にあったが、結果として中止せざるを得ないことになった。しかし、大政奉還が行われることになっても西郷はあくまでも実力行使で倒幕させる機を狙っており、その手を打った。それは江戸城下を混乱させ、それに乗じて幕府を攻撃する口実をかちとり、念願を果たそうとする。その実行特殊部隊として結成されたのが赤報隊である。赤報隊に強盗、辻斬り、放火などの乱暴狼藉を執拗に繰り返させ、江戸の治安悪化を目論んだ。
「赤心を持って国恩に報いる」という精神のもと赤報隊は西郷隆盛や岩倉具視の支援を得て、慶応4年(1868)1月8日に近江国金剛輪寺において結成されることになる。隊長は相楽総三、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立された。
赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得ることとなる。
ここでの「年貢半減」、今風に言えば税金の軽減化であるが、新井喜美夫著「善玉・悪玉、大逆転の幕末史」にこうある。

東征に先立ち、隆盛は相楽を呼び寄せ、「西軍の行く先々にて、幕府より年貢が安くなることを民衆に訴えよ」と、謀略の知恵を授けた。
それにしても、革命を成就させるためには民衆を味方につけねばならない。民衆がもっとも関心を示すのは税金である。
アメリカの独立戦争は、自由な天地を求めて新大陸に移植したアメリカ人たちに、イギリス本国の税収が不足したといって課税しようとしたために起った。こうして、現在のアメリカ合衆国が誕生したのである。
フランス革命もまた同様である。ルーブル宮殿よりも豪華なヴェルサイユ宮殿を建築したため財政が逼迫し、高率の間接税=消費税を民衆に課した。そのために革命が起こり、ブルボン王朝は倒されてしまったのである。


ところが、この動きに新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとし、この事実が判明すれば民衆は収まらないだろうと判断、密かにこれを取消すにあたり、「年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことである」ということにして、赤報隊に偽官軍の烙印を押してしまった。
年貢半減令を掲げ、自らの行動を信じて京都から江戸を目指して進軍する相楽総三は中山道と甲州街道の分岐点である信州下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸と江戸の連絡を遮断することを計画したが、突然の偽官軍扱いとなり、下諏訪宿で捕縛され、処刑される。
赤報隊は旧幕府軍を挑発するために「御用盗」という名のもとに江戸を混乱に陥れるが、明らかな犯罪行為であった。そのこと自体は許されるものではないが、それを目論んだり、指示した歴史上の大人物らはのちに過大評価され、美化され、後世にその名が伝えられる。
前述の新井喜美夫が著書のまえがきでも触れているが、「幕末の志士、維新の元勲たちがいかにレベルの低い人間たちであったかを知り、つねに勝者によって作られる歴史を正しく検証し直していく必要がある」と。

d0170835_2192681.jpg相楽総三(1839~68)、下総相馬郡(現取手市)の大富豪の四男として江戸・赤坂に生まれる。国学と兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱えるが、23歳の時に尊王攘夷活動に身を投じ、西郷隆盛を知る。享年30。
明治3年(1870)、下諏訪に相楽塚が建立され、長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫たちの努力により名誉が回復された。

赤報隊が湖東三山のひとつ金剛輪寺において結成されたこと、また下諏訪の温泉宿など、この知らなかった出来事が急に身近に感じるのである。


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by kirakuossan | 2017-01-06 12:23 | ヒストリー | Trackback

勅封秘仏、33年に一度の御開扉

2016年11月21日(月)
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d0170835_1220923.jpg石山寺では今、本尊『如意輪観世音菩薩』の御開扉を行なっている。平安時代後期に造立されたと見られる観音さまで、天皇の命令によって封印されているのは日本で唯一ここだけの仏像・勅封秘仏である。
33年に1度、もしくは天皇の御即位などでしかお目にかかれない存在。檜の寄木作り、高さは5mとなり、国宝の本堂内陣の奥まで足を踏み入れて拝観できる。
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d0170835_12355120.jpg石山寺は今、紅葉の盛りである。33年に一度の御開扉ということもあって、毎日全国各地から多くの人出で賑わっている。松本からの例の華やかなアルピコの観光バスも見かけた。
by kirakuossan | 2016-11-21 12:11 | 近江抄 | Trackback

散文精神

2016年6月27日(月)

若い坊さんは黙々と私達を案内して行った。夢殿の外廊下には一般の拝観者が何人か動いていた。
若い坊さんは堂の裏側の格子戸を鍵で開けて、われわれを堂内に導いた。併し格子戸は唯閉めただけで、後に鍵をかけては置かなかった。
救世観音の厨子を開く前に、坊さんは香を焚き読経した。簡略ではあるがその儀式がわれわれの心を鎮め、やがてそのお姿を現して呉れる秘仏に対する心の準備を与えて呉れた。


広津和郎はどことなく味わいを感じさせる小説家である。広津和郎は25歳で鎌倉坂の下に住まいを構え、芥川龍之介、佐藤春夫、久米正雄を知り、とくに宇野浩二とは親しく交わった。後年、「松川事件」に関心を抱き、被告の無罪を主張したことはよく知られるところである。「どんなことがあってもめげずに、忍耐強く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神、それが散文精神だと思います」そういった氏は、小説を書くときの精神のありかたとして、浪漫的・詩的感覚を排除して、実際に起ったことを冷静に捉えて、客観的に見つめようとした。

d0170835_954616.jpg静かに厨子が開かれた時、森君の「大したものでありませんよ」と云った心持が解らない事はなかった。実際最初の一瞥では期待程でもない平凡な感じが来た。併しじっと仰ぎ見ていると、それは何という素晴しい美しさで働きかけ始めるのであろう。姿態の美しさ、手の美しさもさる事ながら、その頬のあたりの魅力-少し微笑を浮かべているようにも見えるし、浮かべていないようにも見えるその頬の複雑な表情-簡単に素通りしてしまえばそれまでだが、じっと見ていると、だんだんその複雑な表情から観音の心に静かににじみ拡がって来るものがある。それは唯単に崇高という言葉で表せるだけのものではない。もっと肉感的であり、地上的であり、われわれの直ぐ側をそのまま平然と歩いているものであり、何か往来ででもすれ違いそうなそういう人間的な卑近感の要素をもそれは含んでいる。だが、その人間的卑近感の要素を見つけて、われわれが気易い親しさに溺れかけようとすると、それはにやりとわれわれに微笑を投げかけて、そのままの姿で今度は高く高く何処までも高く昇って行ってしまいそうな気高さを見せ始めるのである。

法隆寺は、西院伽藍に有名な金堂、五重塔を配し、東院伽藍に夢殿がある。国宝の銅造薬師如来坐像、釈迦三尊像は金堂に安置され、この観音菩薩立像(救世観音)は夢殿に安置されている。平安時代の後期(1180年頃)には、すでに絶対秘仏として扱われていた。年に春と秋の2回御開帳される。ここでの広津和郎らは出版社(文芸春秋)の紹介で特別に拝観したようである。
3年前の7月奈良を訪れ、薬師寺から唐招提寺にかけて回ったが、法隆寺はまた別の機会にという気持ちで訪れなかった。今秋、救世観音の御開帳に合せ訪れたい。

その夢殿の救世観音を拝観している時、私はもう一つまことに気持ちの好い光景に出逢った。その事を書き添えることは、決して無駄な事ではないと思う。
われわれが若い坊さんに堂内に導き入れられた時、若い坊さんは後の格子戸を閉ざしただけで鍵をかけなかったという事は前に述べたが、前から外廊下を歩いていた数人の一般拝観者は、われわれが堂内に這入ったのを見ると、その鍵のかえていない格子戸を開けて、どやどやとわれわれの後ろから続いて這入って来た。それをその若い坊さんは少しもとがめようとしなかった。~
われわれに拝観をゆるすために一度厨子を開けた以上、そこに居合わせたものはみな無縁でないと思ったのか、若い坊さんはそうして這入って来た人達を、見て見ぬ振りに黙許していた。唯あまりに騒がしくどやどやと這入って来て、われわれの拝観の邪魔になりそうになったのを見ると、若い坊さんは始めて物静かに云った。
「この方達が御覧になってから、あなた方は見て下さい」
東京あたりで人心が荒み、不親切になり、無暗に人が人をとがめたり、喧嘩腰になったりする近頃の世態を見過ぎているわれわれには、何かそれは胸がすっとするような清涼な光景であった。無口で無表情でにこりともしない坊さんであったが、その心はそんなにも優しかったのである。人間の礼儀の何ものであるかを知っている人に、久しぶりで出会ったような気がした。


最近とみに世の中の風潮がこのようで困るといつも思っているが、でもここでハッと気付いた。不親切になり、無暗に人が人をとがめたり、喧嘩腰になったりする・・・
自分自身にやましいところはないか、と。大いにありである。

遅れ走せに三人駆け込んで来た。婆さんの手を引くようにしてやって来た田舎びた中年者の夫婦であった。その足音を聞くと、若い坊さんは厨子を閉ざしかけていた手を一寸休め、その人達の近づいて来るのを待った。そしてその三人の拝み終えるのを見済ましてから、静かに厨子の扉を閉ざしたのである。

(広津和郎「夢殿の救世観音」より)




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by kirakuossan | 2016-06-27 07:44 | 文芸 | Trackback

あ~あ、もう興奮のるつぼだ。

2016年5月4日(水)
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d0170835_22334878.jpg御柱祭上社「里曳き」

木遣の合図とラッパが高らかに鳴り響き、緊張は高まる。大勢の氏子が曳く御柱は見物客の中を本宮に向かってゆっくりと進む。氏子と見物客、両者の呼吸がピタリと合わさって、祭りは最高潮に・・・あ~あ、もう興奮のるつぼだ。
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by kirakuossan | 2016-05-04 22:06 | 新日本紀行 | Trackback

湖北のしだれ桜

2016年4月10日(日)
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湖北、米原市にある京極氏の菩提寺、天台宗清瀧寺徳源院へ庵原氏に連れられて行ってきた。実はここのしだれ桜が有名で、今ちょうど満開ということで、朝早くからバスに乗った団体も訪れるなどして賑わっていた。このしだれ桜は道誉桜(どうよざくら)と呼び、幹周2.3m、樹高約20m、樹齢約300年、エゾヒガンザクラの一種で糸ざくらとも呼ばれている。
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鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて湖北の豪族として権力をふるった京極高氏が愛した桜、現在のしだれ桜は二代目で、三重塔の前には三代目も植えられ、これも二代目に負けず劣らず立派なものである。
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d0170835_17375914.jpg境内のしだれ桜に負けないぐらいに門前の道路脇にもソメイヨシノが咲き誇っていたが、その中で一本だけ背丈は低いがひと際白さが映える可憐な桜が咲いていた。何という品種だろうか。






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by kirakuossan | 2016-04-10 17:05 | 近江抄 | Trackback

鎌倉十番碁

2016年4月5日(火)

中国・福建省出身の呉清源(1914~2014)は、1928年(昭和3)に来日、瀬越憲作名誉九段に入門。十番碁の覇者とされ、戦前戦後の昭和トップ棋士をすべて先相先ないし定先に打ち込み、第一人者として君臨した。
その最初の十番碁が、永遠のライバル木谷實(1909~1975)七段と組まれた。
これは1939年(昭和14)9月から1941年(昭和16)6月にかけて行われ、鎌倉五山を中心に対局されたために「鎌倉十番碁」とよんだ。
また木谷は棋士の育成に熱心に力を注いだことで知られ、平塚市の彼の実家に「木谷道場」を開き、多くの有能な棋士が育っていった。大竹英雄、石田芳夫、加藤正夫、趙治勲、小林光一、武宮正樹、小林覚ら錚々たる弟子たち、そこでの番頭格が毒舌でならした梶原武雄であった。
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d0170835_13524747.jpg建長寺
第一局
(昭和14年9月28~30日)

呉〇(2目)●木谷先
対局中に木谷が鼻血を出して昏倒するというほどの激闘で幕はあいた。

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円覚寺
第三局
(15年3月15日、4月8~9日)
呉●(5目)〇木谷先
第四局
(15年6月12~14日)
呉先〇(1目)●木谷
第六局
(15年10月16~18日)
呉先〇(中押し)●木谷
第九局
(16年5月8~10日)
呉先●(中押し)〇木谷
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鶴岡八幡宮
第七局
(15年12月29、翌1月7~8日)
呉●(中押し)〇木谷先
第八局
(16年3月5~7日)
呉〇(中押し)●木谷先
最終局
(16年6月4~6日)
呉●(中押し)〇木谷先


(2015年11月17日撮影)


第二局

東京・芝(14年12月26~28日)
呉先〇(中押し)●木谷
第五局
伊香保・天宗寺(15年8月4~6日)
呉〇(中押し)●木谷先

呉は第六局で5勝1敗と木谷を先相先に打ち込んだ。後半、木谷も盛り返したが通算6勝4敗で呉に軍配が挙がった。第一局は見落としで敗れ、第四局も白番で必勝の碁を逆転され、木谷は不運でもあった。第九局は、白を持って勝利した木谷の名局とされている。

d0170835_14354793.gifd0170835_658544.jpgこの両雄は友人でもあり、先の1933年(昭和8)、木谷が信州の地獄谷温泉に呉を誘い、木谷の考える中央重視の布石を一緒に研究し、二人の打ち出した布石が、中央とスピードを重視する新しい囲碁として「新布石」とはやされた。
白30手で打ち掛けになって、その後両者の意見交換があり、再開後に呉は黒31へと模様を消した。地獄谷での新布石構想がなければ、31でなく白32の一路下に打ち込むつもりであったという。黒31に対して白32に受けたところで、黒33と中央を意識した高いカカリを放った。この碁を境に新布石が具体化することとなる。



by kirakuossan | 2016-04-05 10:42 | 囲碁 | Trackback

今年も一気に登れてよかったよかった

2016年3月10日(木)

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d0170835_1543572.jpg立木観音へお詣り。
今年は例年になく3月までずれ込んでしまった。さすがに平日ともあって参拝客はまばら。毎年のことながら800余段の急な石段が二人の体力を試すのに絶好の機会。今年も互いに一回の休憩も取らずに一気に境内まで登り切れたので何よりよかったよかった。
by kirakuossan | 2016-03-10 15:35 | 近江抄 | Trackback

三十三という数字

2016年2月16日(火)

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石山寺の山門前に大きな立て看板が立っている。「勅封 本尊観世音御開扉」御恒例三十三年目とある。本尊の秘仏如意輪観世音菩薩は胎内に聖徳太子の念持佛が納められていて、子孫繁栄や安産を祈願とする信仰を集めてきた。その秘仏の33年に一度の御開帳が今春3月18日~12月4日まで行われる。
調べてみると、石山寺に限らずあちらこちらで秘仏の御開帳(扉)があるようで、どれも33年に一度とされている。秘仏とは、見ることができない秘密という意味ではなく、先に見送った親や子供、兄弟、恩師、友のように、会えないけれど強く導いて下さる仏のことをいい、信仰上の理由によって非公開とされ、扉が閉じられたまま祀られている。
三十三という数は観音ゆかりの数とされる。本尊である観音は三十三身して衆生を救うという「観音経」の教え、すなわち33通りの姿になって我々を救って下さる教えに因んで、33年毎に行われるようだ。人生50年と言われた昔では、33年の間隔は絶好で、一生に一度しか迎えることがなく、今まで何をして来たか、これから何をしたいか、どうあるべきかといった自らの人生を見つめ直す好機会とした。
京都の清水寺の十一面千手観音菩薩が2000年に、浄瑠璃などの演目として名高い「安珍・清姫伝説」で知られる和歌山日高の道成寺の秘仏が2005年に、また2013年には尾道にある千光寺本堂に祀られている千手観音菩薩が御開帳となった。
ふっと思ったが、三十三間堂、西国33か所巡り、これもこの33からきているのかもしれない。大体において、日本では昔から「3」という数字は好まれ、縁起も良いとされる。三位一体、三拝一礼、三三九度などなど、その「3」が二つも並ぶのだから悪いはずはないのである。

Wikipedia にはやはりこうあった。「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」(#構造)に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
by kirakuossan | 2016-02-16 16:36 | 偶感 | Trackback

式年造営御柱大祭

2016年1月13日(水)

1200年の歴史を持つ7年に一度の天下の大祭「式年造営御柱大祭」
長さ約17m、直径1m余り、重さ約10トンの樹齢150年を優に超えるモミの大木が、山中から16本選ばれて御柱となり、里に曳き出され、7年毎の寅と申の年に新築される諏訪大社の社殿の四隅に建てられる。この宝殿の造り替え、そして御柱を選び、山から曳き、境内に建てる一連の行事を「御柱祭」と呼ぶ。
諏訪大社は、全国各地の諏訪神社の総本社で国内にある最 も古い神社の一つ。諏訪湖の周辺に4か所の境内地を持っていて、上社と下社に分かれ、諏訪市に上社本宮、茅野市に上社前宮があり、下諏訪町に下社春宮と下社秋宮がある。諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神であり、また武勇の神としても広く信仰された。東国第一の軍神として坂上田村麻呂や源頼朝、武田信玄、徳川家康らの崇敬を集めた。

次にtutti を訪れるのは春、御柱祭の時だ。4月8日~10日の諏訪大社下社の山出しは見逃せない。もう3か月後に迫った、ちょっと今から情報を整理しておこう。
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d0170835_12442410.jpg4月8日(金)
13:00春宮四
14:30春宮三
16:00秋宮二
4月9日(土)
13:00秋宮四
15:00春宮一
4月10日(日)
11:00春宮二
13:00秋宮三
15:00秋宮一

d0170835_13444323.jpg山出し曳行の道順
棚木場から東俣川の渓谷右岸の山腹を3km萩倉の集落を抜け、その目の前に最大の見せ場木落し坂が待ち受けている。最大斜度35度で距離100m。御柱が姿を見れるのは砥川の河原ということになり大観衆から一斉にどよめきがわき起こる。この地図によれば真ん中の下3の位置が木落し坂。曳行のルートは最長でも8kmで、木落し坂はちょうどその中間点だから、下諏訪駅から徒歩でも4~5kmぐらいか。


問題は当日のアクセスだが、車ではとても混雑して無理と思うので、先日庵原氏とも話していたが、JR小淵沢駅周辺の駐車場に車を置いて、あとはJRで下諏訪駅まで行き、そこから徒歩でいくのが一番確実ではないか。

ということで4月になって事前に下見をする余裕もないので、明日、とりあえず木落し坂への道程や現場の様子、それに車を駐車する小淵沢界隈を調査することにしよう。
by kirakuossan | 2016-01-13 12:24 | 信州の風景 | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


by kirakuossan

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