信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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2018年10月23日(火)
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関西学生野球秋季リーグは全日程を終了、近畿大が優勝、立命館は2位にとどまり春秋連覇はならなかった。立命館の辰巳涼介主将が学生時代最後のシーズンに48打数18安打打率.375で初めて首位打者に輝いたのは立派だった。しかも、連盟記録の田口壮選手(関学)が持つ通算最多安打123本(1988年春~1991年秋)を27年ぶりに更新するか期待がかかったが、こちらは惜しくも122本にとどまり達成できなかったようだ。
リーグきってのスラッガーとして4年間活躍、外野手部門で3季連続4度目のベストナインに輝いたのも立派。
さて、25日のドラフト会議でどの球団の指名を得るか、これがまた次の楽しみである。





追記:
2018年10月25日(木)

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by kirakuossan | 2018-10-23 15:41 | スポーツ | Trackback
2018年9月2日(日)

d0170835_16381674.jpg今日から関西学生野球秋季リーグが開幕したが、立命館の緒戦、京大戦で3-1と辛勝。序盤から投手戦で1点を争う緊迫したゲーム、先発エースの山上投手は味方打線の貧打に業を煮やしたのか、最終回自らのタイムリーが結局決勝点となった。連覇を目指す立命館にとっては先が思いやられるスタートとなった。

第1節1回戦
立命000001002= 3
京大000000001= 1

観戦予定の2回戦は明後日皇子山球場で行われるが台風直下で開催が危ぶまれる。

通算安打の新記録を狙う辰巳涼介選手は4打数無安打に終わった。

by kirakuossan | 2018-09-02 16:39 | スポーツ | Trackback
2018年8月1日(水)

関西学生野球

2018年秋季リーグ日程

月日チームスコアチームチームスコアチーム球場
09/01立命大-京 大近 大-同 大わかさ
09/02同 大-近 大京 大-立命大わかさ
09/08関 大-京 大近 大-関学大皇子山
09/09関学大-近 大京 大-関 大皇子山
09/15立命大-関学大同 大-関 大ほっともっと神戸
09/16関 大-同 大関学大-立命大ほっともっと神戸
09/22関学大-京 大関 大-近 大ほっともっと神戸
09/23近 大-関 大京 大-関学大ほっともっと神戸
10/01同 大-京 大立命大-近 大南港中央
10/02近 大-立命大京 大-同 大南港中央
10/08関学大-同 大立命大-関 大ほっともっと神戸
10/09関 大-立命大同 大-関学大ほっともっと神戸
10/13近 大-京 大 南港中央
10/14京 大-近 大 南港中央
10/20関 大-関学大立命大-同 大わかさ
10/21関学大-関 大同 大-立命大わかさ

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d0170835_22430710.jpg高校野球夏の大会はこの5日開幕。一方、大学野球は9月から始まるが、きょう関西学生野球秋季リーグの日程が発表になった。2連覇を狙う立命館は第1節で京都大と対戦する。
今季、立命館の皇子山球場でのゲームは京都大戦、近畿大戦で、いずれも3回戦までもつれた場合のみ、3回戦が皇子山球場で観られる。(京都大との3回戦/9月4日、近畿大との3回戦/10月3日)

一方、今年のドラフト指名間違いなしのリーグきってのスラッガーである立命館の主将辰巳涼介選手。彼が元大リーガーの田口壮選手(関学/1988春~1991秋)の持つリーグ通算最多安打数123の記録を塗り替えるかどうかがもう一つの注目点である。前季の近畿大戦で100本目を記録し、最終節の同立戦でいくらか安打を打ったはずで、残り20安打ぐらいではないか?最低でも今季10試合はあり、1試合に2本ずつ安打を打たないと達成できない。幾分きつい数字だが、辰巳選手なら27年ぶりに更新するかもしれない。






by kirakuossan | 2018-08-01 22:00 | スポーツ | Trackback
2018年7月1日(日)

7月に入って大学野球の大きな大会が3つもある。42回目を迎える日米大学野球選手権が7月3日から9日までアメリカで、7月13日から22日まではオランダで第29回ハーレム国際野球大会が、また7月6日~15日の日程で世界大学野球選手権が台湾で開かれる。どれも重要な大会だが同時進行なので代表選手選考が難しい、と思っていたら、前二つは侍ジャパン大学代表が受持ち、世界選手権の方は慶応大学を中心とした東京六大学リーグの選抜選手ということになっている。
ところで侍ジャパン大学代表はすでに渡米しているが、今年のキャップテンは立命館大学の辰巳涼介選手だ。

投 手
氏 名所 属学年身長体重投打出身高校
11松本  航日体大417682右右明石商
14小島 和哉早 大417781左左浦和学院
18清水  昇国学院大418082右左帝 京
19甲斐野 央東洋大418683右左東洋大姫路
15森下 暢仁明 大318073右右大分商
16津森 宥紀東北福祉大317780右右和歌山東
21田中 誠也立 大317365左左大阪桐蔭
17伊藤 大海苫小牧駒沢大217580右右駒大苫小牧
20小郷 賢人東海大218080右右関 西
捕 手
氏 名所 属学年身長体重投打出身高校
25頓宮 裕真亜 大418296右右岡山理大付
12海野 隆司東海大317277右右関 西
22佐藤都志也東洋大318080右左聖光学院
27藤野 隼大立 大318183右右川越東
内野手
氏 名所 属学年身長体重投打出身高校
2上川畑大悟日 大416763右左倉敷商
4伊藤裕季也立正大418190右右日大三
6渡辺 佳明明 大418078右左横 浜
9米満  凪奈良学園大417070右左敦賀気比
24岩城 駿也九産大417983右右東海大五
5勝俣 翔貴国際武道大317778右左東海大菅生
3佐藤 輝明近 大218692右左仁川学院
7児玉 亮涼九産大216560右右文 徳
外野手
氏 名所 属学年身長体重投打出身高校
1辰己 涼介立命大417868右左
8逢沢 崚介明 大417578左左関 西
10向山 基生法 大418480右右法政二
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日米大学野球では昨年東克樹投手が日本のエースとして活躍したのは記憶に新しいが、今年は辰巳選手の活躍とチームの牽引力に期待がかかる。さて、放映されるのだろうか?
by kirakuossan | 2018-07-01 16:08 | スポーツ | Trackback

「敗れても 敗れても」

2018年6月11日(月)

ここに小磯良平が描いた一人の人物がいる。島田叡。戦場の知事と呼ばれた第27代沖縄県知事である。
就任の第一声を受けて沖縄県庁の職員たちはみな感激した。


d0170835_08435992.jpg「情勢は、非常に緊迫しております。これは壁に向かって駿馬を駆り、そのまま突っ込んでいるようなものです。果たしてうまく壁のところで止まるか、それとも壁にそのままぶち当って人馬ともに斃れるか。そういう真に緊迫した状態にあります。諸君も、そういう気持ちを忘れずにやっていただきたい」
新しい若き知事は、なんとも不思議な譬えをする人物だった。だが、この人となら一緒にやれる。多くの職員にそんな勇気をもたらしたのは確かだった。
(この知事は、前の知事とは違う・・・)


米軍の攻撃が迫っている沖縄で、陣頭指揮どころか知事公舎の防空壕に籠りきりになり、はては県民を見捨てて本土へ逃げ帰った泉前任知事に代わって、急遽あとを任された島田叡(1901~1945)は、赴任するやいなや、限られた時間内で着々と県民のために尽くした。県民の沖縄北部への疎開を推し進め、あるいは敵の兵糧攻めにあうことを危惧し、海上の治安が危ういなかを台湾まで出向き、米を確保した。
米軍が沖縄本島に上陸するまでわずか2か月、そこでの島田がおこなった県政はいまも語り草となっている。
そして、1945年(昭和50)6月、沖縄最後の官選知事島田叡は、信頼する沖縄県警察部長の荒井退造とともに摩文仁の激戦地で消息を絶った。

島田叡が沖縄県知事の職を引き受けた心情は、彼の座右の銘でもある石川啄木の歌にある。


こころよく 我にはたらく 仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思ふ



島田は学生時代、東京帝大野球部で俊足巧打の外野手として鳴らした名選手だった。野球部のために高等文官試験の受験を一年棒に振るという自己犠牲を示した人物でもある。


門田隆将「敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦」





【新聞に喝!】
「活動家」になり果てた2紙の新聞記者 その使命は「煽情記事」を書くことか 
作家・ジャーナリスト 門田隆将
2018.6.3 06:56 産経

このネット記事を読み、ノンフィクション作家門田隆将(1958~)の存在を初めて知った。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社2003年)でデビュー、その後、戦時下の様子を書いた作品や福島原発を題材に取った『「吉田調書」を読み解く―朝日誤報事件と現場の真実』(PHP研究所2014年)またほかに多くの野球もの小説も書いて来た。

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最初に読んだ『神宮の奇跡』がたいへん面白かったこともあって、続く2冊目は先月発刊されたばかりの新刊『敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦』を手にしている。どちらも僕の好きな「大学野球」が題材になっていて、スラスラと読み進められる。




by kirakuossan | 2018-06-11 19:00 | 文芸 | Trackback
2018年6月11日(月)

第67回全日本大学野球選手権大会が今日から始まった。開幕試合に登場の立命館は、初戦の近畿勢同士対決、辛うじて奈良学園大を振り切った。明日の2回戦は昨年準優勝の国際武道大(千葉県大学連盟)、これを勝ち抜けばベスト4の戦いで、東都リーグ覇者の東洋大との対戦の可能性が浮上してくる。明日の一戦は重要だ。
ほかに注目校としては、唯一の国立大である広島大(広島六大学)が17年ぶりにリーグ戦を制し、本大会は35年ぶり3回目の出場、37回の最多出場東海大(首都大学)は3年ぶりの出場。

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<1回戦>
立命館大100021000=4
奈良学大100000101=3

5回の辰巳涼介外野手の2点タイムリーが効いた。やはり頼りになるキャプテンだ。





追記:
2018年6月12日(火)
<2回戦>
立命館大000000000 = 0
国際武道 00000020x =2

投手力の差が出た。相手の平川投手の前に2安打では、そら勝てんわな...




追記:
2018年6月13日(水)

今日は優勝候補の東洋大(東都大学連盟)が伏兵九州産業大(福岡六大学)に敗れる波乱があった。しかもよもやの7回コールド負け、誰が予想しただろう。それだけ全国のレベルが平均化して来ているということ。

<2回戦>7回コールド
東洋大0001020 =3
九産大0340102x =10


by kirakuossan | 2018-06-11 11:45 | スポーツ | Trackback

「神宮の奇跡」 ⑤

2018年6月9日(土)

東都大学野球1958年(昭和33)秋のリーグ戦。第5週までの戦績は、①日本大学4勝(勝点2)⓶専修大学4勝2敗(勝点2)③駒沢大学4勝4敗(勝点1)④中央大学3勝3敗(勝点1)⑤学習院大学3勝4敗(勝点1)⑥東京農業大学1勝6敗(勝点0)であった。開幕前は、同年の春を制した中央大、それに専修大、日本大の3校が優勝候補に挙げられ、5週のこの時点では日本大と専修大が有望視されていた。ところが学習院大が全勝の日本大にまさかの連勝をし、俄かに様相は変わって来た。①専修大6勝3敗(勝点3)⓶駒沢大7勝5敗(勝点3)③中央大・日本大・学習院大がそれぞれ5勝4敗(勝点2)
この時点で駒沢大が学習院大に勝ち点を挙げれば初優勝に近づくということで、いよいよリーグ戦は混とんとしてきた。ところが学習院大はその駒沢大に根立、井元の二本柱が立ちはだかり、3回戦で井元投手が6-0と完封勝利を収め、駒沢大の初優勝の夢を打ち砕いた。それは同時に、ひょっとしてひょっとする学習院大の優勝の可能性も残す勝点3の奪取であった。そしてトップを行く専修大に日本大が勝ち点を奪い、いよいよ怪しくなって来た。


波乱に富んだ昭和三十三年東都大学秋季リーグ戦は、最終週で中央・専修がともに優勝の可能性を残して激突した。
専修が勝ち点を上げれば、もちろん優勝。中央が優勝するには、専修に連勝しなければならない。
問題は、中央が二勝一敗で専修を倒した場合だった。
この時、実に勝ち点三で五チームが並ぶという前代未聞の事態となる。そして勝率の関係で、中央、日大、学習院の三チームが「七勝五敗・勝ち点三」で完全に並ぶという予想もしなかった結果が生まれることになる。
この場合、勝ち点は同じ「三」だが、駒沢と専修は「八勝七敗・勝率五割三分三厘」となり、中央、日大、学習院の「五割八分三厘」に及ばず、優勝圏外に転落するのである。
ネット裏では、「専修の優勝が一週のびただけだろう」という予測が大半だった。


優勝のかかる専修大vs中央大戦で、絶対のエース坂井で初戦をものにした専修大だが、何を焦ったか、続く2回戦でも1回戦で延長10回まで投げた坂井を連投させた。そしてまたもや延長となり、13回に専修大がサヨナラ負けを喫する。
専修大はここで力尽きた感じで、3回戦で1-2で敗れ、まさかまさかの三つ巴優勝決定戦が現実のものとなった。
ところが優勝決定戦の三つ巴の戦いは2度繰り返されるが決着つかず。連盟の判断は「優勝預かり」を決定しようとしていた。

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連盟側から案の定、「優勝預かり」が提案された。
すでに野球をやれる環境ではない。とにかく寒すぎる。優勝預かりやむなし、だった。中央、日大はともに了承した。
だが、その時、学習院のマネージャー松木が口を開いた。
「もう一度だけ、もう一度だけやりましょう」
学習院は前年、柳谷部長が東都大学野連盟の理事長、そして松木が連盟の総括マネージャーを務めていた。二人とも連盟の運営については、すべて知り尽くしていた。
「・・・・・・・」
一瞬の沈黙が流れた。
「そうは言っても球場が・・・」
すでに十一月も下旬だ。神宮球場をこれ以上使うことは許されていなかった。球場がなければ、さすがに優勝決定戦もない。
その時、松木は、こう言った。
「駒沢球場があります」
東映フライヤーズの本拠地である駒沢球場は、プロ球団がフランチャイズにしているだけのことはあって、この十一月下旬が来てもまだ「使用可能」だった。
当時の駒沢球場の場長だった田沢八十彦は東都大学リーグに理解の深い人物だった。あらかじめ松木は、駒沢球場を使わせてもらえるか、田沢に電話を入れていたのだ。
「せっかくこれだけの注目を集めているのですから、もう一度だけやりましょう」
球場まで用意されていては、中央、日大としても、拒否できる理由は見つからない。各大学とも授業を休講にしていた。そのため、学生は心おきなく応援に駆けつけることができた。優勝決定戦は、学生たちにも評判が上々だった。
「仕方ない、やるか・・・」
中央と日大のマネージャーが目と目を合わせて頷いている。
連盟の総括マネージャーを前年に努めた松木の貫禄勝ちだった。この席に来るとき、松木は、
「松木、絶対に続けさせろよ!」とナインから言われていた。学習院の面々は、闘志満々だったのだ。


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決定戦続行の知らせを聞かされた中央と日大ナインたちは「えッ?」「本当か?」といったのが偽らざる本音であった。すでにこの時点で勝敗は決した。
学習院大学野球部が悲願で唯一の優勝を手にした。それは1958年(昭和33)11月も押し迫った25日のことであった。



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学習院大学が奇跡の優勝を果たしたその翌日、1958年(昭和33)11月26日午前9時、宮内庁から発表があった。「明日11月27日午前10時から、皇居東の間において皇室会議が開かれる。議題は、皇太子殿下の婚姻に関する件である」


皇太子のご婚約は学習院の優勝と同じく大逆転劇であり、不思議なほど、学習院の優勝への戦いと同時進行している。
当初、連続して勝ち点を落とした学習院が覇権に向かって歩み始めるのは、十月に入ってからである。あきらめず、こつこつと立ち向かっていった学習院ナインが、同率首位に這い上がり、優勝決定の三つ巴戦への参加が決まるのは、十一月八日のことだ。それは皇太子が電話攻勢でやっと美智子の心を動かした時期と重なる。
また、皇太子が正田家から婚約承諾の知らせを受取った日の翌十一月十四日、学習院は優勝を九分九厘決めていた中央を逆転し、穴沢のサヨナラヒットで二度目の優勝決定シリーズに持ち込んでいる。
そして、前述の通り、宇佐美宮内庁長官が、天皇家の正式な使いとして正田家を訪問する十一月二十一日、学習院は再度の優勝決定戦で初優勝をかけて中央に挑み、皇太子はこの闘いを神宮球場のスタンドから見つめた。
それは、それまで逆転に賭けて突き進んだ皇太子と学習院大学野球部が見事に”クロス”した瞬間だった。
皇太子はこの時、愚直に、誠実に、戦いを挑む後輩たちに対して、心からの拍手と声援を送っている。ひょっとしたら皇太子はその時、母校のために戦う後輩たちと自らを重ね合わせていたのかもしれない。
あの時に見せた皇太子の心からの笑顔には、おそらく逆転を成し遂げた自身の輝かしい未来への夢と希望も含まれていたのだろう。
皇太子殿下と学習院大学野球部―両者が大願を成就させたのは、あの小金井の学習院仮校舎の光華殿前広場で、皇太子と草刈が、戸田侍従に野球の手ほどきを受けてから十二年後のことだった。

門田隆将著「神宮の奇跡」



学習院大学野球部が3度にわたる三つ巴の優勝決定戦を制した1958年(昭和33)は長嶋茂雄選手が4打席4三振でデビュー、 富士重工業が「スバル・360」を世に出し、「チキンラーメン」なるものが登場し、 東京タワーが竣工、東京 - 大阪間に特急「こだま」が姿を見せ、聖徳太子の1万円札が流通もした、まさに新しい時代の幕開けを予感させる年であった。
今、学習院大学野球部は東都大学の3部リーグにあるが、1982年秋の3部降格後、2部リーグへの復帰は一度もない。2015年秋、久し振りの3部リーグ優勝、そして続く2017年の秋季リーグにも優勝、2部最下位の東京農大相手の入れ替え戦では緒戦に先勝、2戦目は逆転負け、3戦目は延長戦にもつれ込む大接戦となったが惜しくも敗れ、2部昇格はならなかった。そして今春のリーグ戦も勝ち点4で順天堂大と優勝決定戦まで進んだが敗れ2位になった。最近徐々に力をつけてきており、近いうちに2部昇格が実現、往年の雄姿を取り戻すかもしれない。



by kirakuossan | 2018-06-09 15:31 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ④

2018年6月8日(金)

1952年(昭和27)の春、学習院大学野球部は入れ替え戦で國學院大學を破り、悲願の東都野球リーグ1部入りを果たす。それから6年、苦戦しながらも一部に留まり、ようやく優勝候補チームにも勝利するほどの実力を蓄えるようになる。ところが1958年(昭和33)の春季リーグ、優勝候補の日本大学、中央大学から3勝を挙げる好スタートを切ったにもかかわらず、結局このシーズンはこの3勝だけにとどまり9敗して勝点1で最下位という思いがけない結果となってしまった。
入替え戦の相手は調子の波に乗る芝浦工業大学。学習院大学は初戦をエース井元俊秀の先発で臨むも2-4と落とす。続く2回戦は1年生投手の角原佑一、3年生の井元俊秀、最上級生の根立光夫の継投で3-1でどうにか勝利し、いよいよ雌雄を決する3回戦、場所を駒沢球場に移して行われた。この試合も井元が先発、3回から根立にスイッチ、緊迫した投手戦で0-0のまま延長戦へ。ところが10回で突如試合は終了となる。それはこの後、同球場でプロ野球の試合があるため、時間切れ引分けになったのだ。
1勝1敗1引分けのあと、4回戦が6月17日同じく駒沢球場でプレーボールとなった。学習院大学の先発は2年生の秋山正、しかしその作戦は裏目に出て、1回裏からピンチを迎え、早くも4年生の根立をマウンドに送った。しかし初回から3点を奪われ苦しい展開に。すかさず2回に学習院も2点を返し、食い下がる。ただこの時、二塁ランナーで一気にホームへ突っ込んだ根立投手がベースタッチした際に右指の爪が剥がれてしまう・・・
根立は「自分の代でチームを2部に降格させるわけにはいかない、一部に引き上げてくれた草刈先輩に申し訳ない」といった思いつめた心境で、ボールは血に染まりながらも、痛みをこらえて投球する。しかしさすがに球威は落ち、3回に2点を追加され、2-5と劣勢に。しかし次の4回に学習院は2点を取り返し4-5と追いすがる。そして7回に、相手投手の乱調に加え、学習院の打線にさらに火がつき、7-5と逆転に成功した。しかしその裏、芝浦工大の粘りに1点差に詰め寄られ、ここで根立から井元へスイッチした。いよいよ試合は死闘の様相を呈してきた。

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ブルペンにいた井元は、根立の負傷を知らなかった。一年先輩で、温厚な根立を井元は尊敬していた。偉ぶるところが微塵もなく、ただ黙々と練習に打ち込む根立の姿は、一年下の井元の目標となっていた。
その根立が降板した。一点差。ランナーを二人残して自分に命運が託された。
やるしかない。井元は覚悟を決めた。
負ければ地獄。二部落ちである。
井元は、ストライクゾーンのぎりぎりを突くコーナーワークが身上だ、だが、相手も井元の配球は、先刻承知している。
バッターは当っている五番の伊藤だった。今日、すでに三安打している。
芝工大で最も危ない打者である。だが、勝負を避けて四球を与えてしまえば、満塁になる。六番の景山もこの試合すでに二安打四打点を上げて絶好調だ。
満塁で景山と勝負となったら、どうなるかわからない。
行くしかない。伊藤と勝負だ。井元はそう思った。
だが、伊藤は選球眼がいい。なかなか、くさい球に手を出してくれない。
外角を見極められ、ついにフルカウントになってしまった。ここでフォアボールは致命傷である。
内野から声が飛ぶ。
「打たせろ!俺たちに任せろ!」
田辺の声だった。
ファーストの江野沢からも声が聞こえる。
「大丈夫だ。思いっきり投げろ!」
サードの穴沢からは「PL!]という叱咤が聞こえた。
「PL!大丈夫だ。思い切って行け!」
そうだ。思いきり行くしかない。信じられるのは、自分の力だけだ。ここは投げるしかない。
外角のストレート。
これしかない。フルカウントから甘い球は投げられない。
渾身の力を込めてこれを投げよう。この球が打たれたら悔いはない。真っ向から勝負だ。
井元はそう思った。果たして、小幡が出したサインは、「外角ストレート」だった。
その球を半世紀経った今でも井元は忘れることができない。
井元のサイドハンドから放たれたスピードボールは、外角ぎりぎりに構えた小幡のキャッチャーミットに、糸を引くように吸い込まれた。
バッターは手が出なかった。ボールと思って見送ったのか。それとも・・・。
それは、どちらにジャッジされてもおかしくないボールだった。
「ストライク!」
一瞬の沈黙の後、高見球審の手が上がった。
どっというどよめきが起こった。
「あれは、大学時代に僕が投げた球で最高の球でした。いや人生で一番の球でした。あれ以上のボールを僕は野球人生で投げていません」
井元は、七十歳を越えた今も、その球のようすを生き生きと再現する。年月を経ても、その時のボールの軌道が頭から離れないのである。
それはまさに「人生最高の球」だった。
土壇場で発揮された勝負強さ。それは修羅場をくぐって来た男の強さ以外の何ものでもなかった。

門田隆将著「神宮の奇跡」




結局、学習院大学は8-6で勝利し、一部に残留した。井元俊秀投手の投げたその球が学習院を救った。もしここで負けていたら、学習院のあの秋の奇跡は起こらなかった。


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 21:53 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ③

2018年6月8日(金)

引き揚げで日本へやっとの思いで辿り着いた井元俊秀は義母が「ひとのみち教団」(PL教団の前身)の信者だった影響で佐賀の鳥栖に行き、鳥栖の小学校へ通い、やがて全国のPL教団の寮を転々としながら野球好きの少年に育っていく。
1952年(昭和27)、東京の都立戸山高校に入学、勉学に野球に励んでいると突然、大阪に戻ることになる。富田林にPL学園を開校することになり、代々木のPL寮は閉鎖することになるからだ。
造成中のPL学園にやって来ると一期生は男子が13名、女子が8名のわずか21名しかいなかった。1955年(昭和30)4月、PL学園高校が開校、井元は改めて高校3年生となった。


井元はさっそく野球部をつくった。しかし、造成中の学校では、練習のできるグラウンドさえままならない。だが、それでよかった。
とにかく井元は、硬球を握りたかったのである。無理やりつくった野球部で、井元はピッチャーとなった。井元は、PL学園野球部の”創設者”であり、同時に初代の”エース”となった。
しかし、ろくに経験者もいないこの野球部は、おそろしく弱かった。ブルドーザーが一年中、土地を造成している横のでこぼこのグラウンドで野球の練習をしているのである。野球用具が貴重だったこの時代、バットは三本、グローブは全部で七個しかなかった。強くなれと言う方が無理だった。
PL学園野球部は、府立堺工業高校(現・府立堺工科高校)に練習試合を申し込み、栄えある最初の対外試合がおこなわれた。井元が必死で投げて四対四で引き分けた。
次に富田林高校と練習試合を組んだ。今度はボロ負けだった。大量十一点を奪われ、味方が取ったのは一点だけだった。

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やがて井元は大学進学を迎えるが、実の両親がいなく、身寄りをPL教団に委ねている身では教主の意見に従うしかなかった。一期生で進学を望む者は一人一校だけ認めようという許可であった。しかもその条件は誰もが”さすが”と認めるような大学に限られた。中央大学、早稲田大学・・・と一人一人希望を告げ、井元は御木徳近教主の養女が在籍している学習院大学を選んだ。それは以前、都立戸山高校で野球の練習をしている時に、グラウンドで当時の学習院大学野球部の渡辺大陸監督に「君、学習院で野球をやらないか」と声をかけられたことからもきている。
ただ、井元が学習院の野球部に入る直前、渡辺監督は急逝しており、井元との再会は実現しなかった。


門田隆将著「神宮の奇跡」


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 07:01 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ⓶

2018年6月5日(火)

東都大学野球連盟の前身は1931年(昭和6)に中央大学、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学の新五大学野球連盟として創立された。
その5年後に 東京商科大学(現一橋大学)が加わり、東都大学野球連盟が誕生する。さらに1940年には上智大学、東京工業大学、東洋大学ら5大学が加わり2部制と入れ替え戦を施行することになる。東都の入れ替え戦は戦前から存在したのであるが、それは東京六大学や今の関西学生野球の6校固定制とは一線を画するところである。そして戦後になってから、 駒澤大学、大正大学、紅陵大学(現拓殖大学)につづき、1950年(昭和25)秋から学習院大学が二部に加盟することになる。学習院大は翌年春には早くも2部リーグ優勝、秋にも連覇して一部との入れ替え戦に臨む。春秋どちらも相手は國學院大であったがエース永田芳彦投手が奮闘するもいずれも敗退して上部リーグには昇格できなかった。



翌昭和二十七年春季リーグ戦で、またも優勝を遂げた学習院は、三たび國學院大學との入れ替え戦に臨んだ。
第一戦の先発マウンドに立ったのは、四年生の永田ではなく、一年生の草刈である。前年の入れ替え戦にすべて先発して完投した永田に代わって、学習院は若い力、草刈をこの闘いのマウンドに送ったのである。



明仁(今上天皇)の家庭教師であったヴァイニング夫人が、「殿下が一人ではないほうがよい」という判断から、家庭教師を一緒に受ける学友が選ばれた。一人は元台湾総督の明石元二郎の孫にあたる明石元紹、そしてもう一人は一般人の子息である草刈廣、彼がこの一年生投手草刈である。
第一戦は草刈のケレン味ない投球が相手打線を抑え込み、8-1で快勝した。そして一部昇格まであと1勝とし、学習院ナインは6月20日に神宮球場に乗りこんだ。ここで親友の声援に明仁(今上天皇)も駆けつける。
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先発は、四年生の永田、四回からリリーフした草刈とのリレーで、これまた七対二の快勝、ついに学習院は、悲願の「一部入り」を果たすのである。
皇太子の応援で硬くなったのは、むしろ國學院の方だった。皇太子が応援席にやってくるや、それまで飛んでいた野次が影をひそめ、急におとなしくなってしまったのだ。
草刈のシュートとカーブがコーナーにびしびし決まり、反撃の狼煙を上げることなく、國學院は敗れ去った。
こうして、明仁は学習院野球部の「栄光の時代」が始まる目撃者となるのである。永田の卒業後、学習院大学野球部を引っ張っていくのは、草刈である。
草刈は、四年間で東都一部リーグ二十三勝(三十四敗)という戦績を残している。

門田隆将著「神宮の奇跡」


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-05 20:46 | 文芸 | Trackback