信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan

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2017年9月30日(土)

大学A 第1節

同志社大
14
21


関西学院

立命館大
8
49


天理大学

関西大学
33
17


近畿大学

摂南大学
26
52


京都産業


2017年度の大学ラグビーは下克上で始まった。昨年度関西リーグ準優勝で大学選手権大会でもベスト4に入った同志社が、昨年6位の関学大に思わぬ苦杯をなめた。
また、4位だった近畿大も最下位の関西大に初戦で敗れる波乱が起きた。3位の京産大は摂南大を退けたものの予想外の苦戦だった。唯一、前年優勝の天理大は立命館をまったく寄せつけずに力のほどを示した。立命館の次戦は14日同志社と。
これで、秋のスポーツがすべて開幕となった。


by kirakuossan | 2017-09-30 16:31 | スポーツ | Trackback

立命館宇治快勝!

2017年9月30日(土)

秋季高校野球京都府大会準々決勝
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立命館宇治が京外大西に7回コールドで快勝した。
打力はなかなかのもので、上位打線のコンパクトに振り切るスイングは鋭い。兄貴の立命館大学野球部員も見習ってほしいぐらいだ。またエースの森井投手が変化球を交えながらときおり繰り出すストレートに威力がある。コーナーをつきすぎて死球をニ三個献上していたが、大きく振りかぶった投球ホームは迫力がある。
今日の試合は立命打線が爆発したというより、相手投手の制球難と守備のミスに乗じて得点した印象が強いが、これで準決勝は乙訓高と鳥羽高の勝者と戦うことに。一気に決勝戦まで進んで、すんなりと近畿大会出場権を得て欲しい。今日の試合を観る限り、立命館宇治は投打にまとまっており、全国大会レベルにあるといえるだろう。

ところで注目していた長野大会の準決勝で新星ウェルネス筑北が今夏の甲子園出場校松商学園を倒した。これで地区大会に続いての連勝で、すでに上田西も破り、実力は本物であることを実証した。信濃の国は、真田丸ではないが、まさに戦国時代である。

長野大会準決勝(9/30)
松商学園
ウェルネス


また滋賀大会では、大津商が甲西を8-6で下し、明日膳所高と3回戦で顔を合わせることとなった。なお、立命館守山は栗東に4-6と惜敗した。



追記:
2017年10月1日(日)

秋季高校野球長野大会決勝
ウェルネス
佐久長聖
あれよあれよという間に優勝してしまった。上田西、松商学園、佐久長聖を撃破しての優勝は価値ある。
by kirakuossan | 2017-09-30 14:01 | スポーツ | Trackback
2017年9月29日(金)
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体質改善中の血液検査チェックのため3か月ぶりに力さんのところへ採血に行く。今朝は空気が澄んでいた。大津の街並みも、比良も、比叡も対岸からくっきりと見えた。
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ところで明日は彦根まで行くか、京都へ出るか、近くの大津にするか悩んでいる。結局、京都の西京極球場の立命館宇治vs京外大西の試合を観に行くことに決めた。明日勝てば準決勝進出となり秋の近畿大会出場が見えてくる大事な一戦だ。4年前、同じ秋の大会の準々決勝で両校は顔が合い、その時は立命館宇治が10-5と京外大西に打ち勝った。
皇子山球場では大津商が甲西と戦い、彦根球場は滋賀大会の立命館守山が栗東と緒戦を戦う。どちらもこれに勝てば、翌1日にベスト8入りを懸けた試合が行われる。場合によっては土日連続の野球観戦となるわけだ。立命館守山は比較的楽なゾーンに入っただけにうまくいけば準決勝まで進めるかもしれない。そうなれば創部まもないが近畿大会への出場が見えてくる。



追記:
2017年9月30日(土)
長野大会は小諸商が早々に敗れ去り、期待していた松本深志も松商学園を前に手も足も出なかった。ベスト4に残ったのは松商学園、佐久長聖、長野日大の常連組に、強豪上田西を延長戦で下した新星ウェルネス筑北。突如現れたウェルネスは珍しい広域通信制高校、北海道から甲子園出場を果たしたあのクラーク記念国際高校と同じだ。ウェルネスは本校は愛媛の今治だがキャンパスを東京から沖縄まで10か所を有し、長野には松本と筑北村にある。昨年創部したばかりで、僅か1年で頭角を現してきた。今日、松商学園と対戦する。両校はこの10日に行われた中信地区大会ですでに一度顔を合わせており、この時は予想外にもウェルネスが松商学園を7回コールドで零封している。中原英孝監督は母校の松商学園で2期通算22年間、長野日大高でも10年間監督を務め、春3度(うち松商学園で2度)、夏8度(同7度)の甲子園出場を果たしている名監督でもある。今日の再試合、これも要注目である。

中信地区:準々決勝(9/10)
松商学園  
ウェルネス3x  
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by kirakuossan | 2017-09-29 20:43 | スポーツ | Trackback
2017年9月29日(金)

吉田秀和氏の『名曲のたのしみ』はときおり思い出しては読んでみるが、「吉田秀和」と検索していると6ページ目に、拙いボクのブログ記事が出てきた。5年ほど前に書いた「言葉で奏でる音楽・吉田秀和」。また思い出して読んでみる。吉田氏がイングリット・ヘブラーのことを、「まるで巧緻繊細を極めたレースの飾り物に感じる。」と評していることを思い出した。




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言葉で奏でる音楽・吉田秀和


2012年6月2日(土)
d0170835_1514252.jpg昨夜遅く、Eテレで吉田秀和氏を偲ぶ特別番組『言葉で奏でる音楽・吉田秀和の軌跡』を放映していた。その人柄を十分に偲ばせ心温まる内容のものだった。書物ではよく知っていても、ほんとの人柄はあまり知ることはなかった。今日初めて吉田氏の”生の人となり”に触れるに貴重な映像であった。ドキュメンタリーは5年前、吉田氏が93歳の時に収録されたものである。

人間的に尊敬し、ニーチェに詳しいドイツ文学者の阿部六郎先生の家に下宿したとき、突然、詩人の中原中也も転がり込んできた。中原中也が子供を亡くして「愛する者を失った人は死ななくてはなりません」といった。この時「詩」と「死」は同じと感じた。「音楽」「詩」「愛」「死」は同じ根から生えてきた、と思う。

雑誌「創元」に発表された小林秀雄の『モーツアルト』が評判になった時、彼は感じた。文体の工夫がなされており手の込んだ本として面白い本だと思ったが、しかし考え方としては、音楽的とは言えない、カデンツアがない、つまり句読点がないと感じた。その時、僕の方が音楽をやってきた自負を感じ、音楽に関してなら僕でも書いてやっていけると思った。そして初めての著作『主題と変奏』(1953年)が生まれる。

手書きの楽譜をよく原稿に載せるが、そもそも原稿を書くことは手仕事の楽しみなんだ。芸術は手仕事で成り立っている。文章を書く時、一字一字考えて書く、この場合、漢字にしようか、ひらがなにしようか、それともカタカナにするか、と考える。それが原稿を書くと云うこと。そもそも原稿を生み出している時より、手直ししている時の方がほんとは好きだ。

音楽教室を立ち上げた時、言葉を重視した。音楽は言葉とはくっついている。言葉を分からなくて音楽をやるとは、本当は無理だと僕は思っています。

洋行から帰って来た時、ちょうどグレン・グールドを知った。彼の1955年度版・「ゴールドベルグ協奏曲」はリリシズムに満ちた、新鮮なバッハで、誰にでも弾けるものではない、と思い、グレン・グールドをいち早く発見した。

たとえば、チェリビダッケのチャイコフスキーのシンフォニーなんかを聴いて、遅いのが特徴の人の何処が一番遅いか注目して聴く。それはがっかりするほど遅いのか、それとも遅くても何か新しい面白みが出てくるのかを、見極める。そして彼がその遅い演奏から我々に何を示してくれるのか、ということ。

批評家は、何百万の魚の中から見分ける。その芸術が社会の中で生き生きとして、次に伝えていくのはどれか探し出すことは重要な仕事なんだ。それがないと芸術は死んでしまうものなんだ。だから我々そのことを十分心して扱うことが大切なんだ。

ジョージ・セルの指揮をとらまえて、肌触りこそ確かにひんやりとしているが、滑らかで底光する光沢がある。かたちはあくまで厳しい均整美に徹している点、宋代の陶磁器の名品に共通する。緩みも、前のめりの急ぎすぎもなく端然と進む。あんな気品に満ちた演奏は聴いたことがない。

イングリット・ヘブラーのピアノを聴いて、まるで巧緻繊細を極めたレースの飾り物に感じる。彼女の織りだす音楽の布地は、なおざりの跡のない正確な仕上げの正確さがあり、私はこういう仕事ぶりを裏で支えている職人的良心の厳しさに対する敬意を覚えずに得られないものだ。

時には音楽は衝撃的な突発時の連続のように聴こえる。絵に例えれば、ゴッホが黄と青、緑と赤といった反対色を隣り合わせにおいて画面からなまなましい衝撃の火花を生み出したようなものだ。

1983年に初来日したホロビッツのリサイタルのS席は5万円という高値が着き、当時話題となった。その演奏会を彼は聴いて、その印象をこう評した。「今私たちの目の前にいるのは、骨董としてのホロヴィッツのほかならない。かつては無類の名品だっただろうが、今は―最も控えめにいっても―ひびが入っている。それも一つや二つのひびではない。これは当時の音楽界で少なからず波紋を呼んだ。

50年近く連れ添ったドイツ人の妻、バーバラさんを亡くしたあと、辛くて仕事をする気がなくなって何も手が着かない時期が続いた。しかし考え直して、これからはほんの少しでも人の役に立つことをしようということに考えが及んだ。バッハの「平均律クラヴィール曲集」を聴いて、私はこの不条理の世界にも何かの秩序があり得るのではないかという気がしてきた。この音楽が続く限り、心は静まり、世界には何もないかもしれないがその空虚の中で、一つの宇宙的秩序が存在するのかもしれないという気がしてきた。

d0170835_2345791.jpgそういうとき、どういう音楽が一番に上げられるかと言うと、やはりバッハであり、モーツアルト、ベートーヴェンだね。この3人だなあ。 (嬉しそうに笑みを浮かべて話す)
女房が死んだあと、しばらくして寂しくなって音が欲しくなった時、いろんなものをかけては邪魔になったが、バッハは邪魔しなかったなあ(しみじみ語る風)

書き始めて66年、生涯現役。NHKFM番組の「名曲のたのしみ」は41年、2000回以上つづいた。

・・・・・・・・・・・・・

それでも、いつまでか知らないが、私は書き続けるだろう。
人間は生きている限り、自分の信じ、愛するものを力を尽して大切にするほかないのだから。
吉田秀和
(2012年5月22日永眠 亨年98歳)d0170835_15215727.jpg

吉田秀和さん ありがとうございました。


追記:
(18:15)
gooとライブドアで検索したらどちらも5ページ目に出てきた。ヤフーは6ページ目のままだが、グーグルは6ページ目から消えてしまったが、代わりに8ページ目にまた別の記事を紹介してくれていた。





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吉田秀和氏の語るマーラー


2011年3月24日(木)
d0170835_19232865.jpg3月20日に河出文庫から吉田秀和氏の『マーラー』が刊行された。この文章の初出は今年で98歳になる吉田氏の還暦時のものだ。
著者はこう書き出す。

マーラーはむずかしい、私には。
私には、まだ、彼がよくわかったとは言えない。では、なぜ、彼のことを書くのか?私はマーラーの一部しか知らない。だが、その一部でさえ、私の心を強くとらえ、彼の全体について、知れるだけのすべてを知り、味わえるだけのすべてを味わいたいという欲望をかき立てずにおかない。




そしてマーラーの創造的生涯を3期に分けて論じ、最後の10年間の第3期についてこう語る。

この休むことを知らなかった求道的芸術家は、《大地の歌》と《第九交響曲》を書きあげ、《第一〇》の一部を書くのに成功した。そうして、今日では、この三つの作品に、マーラーの最高のものがみられるというのが、広く行われている意見といってよいだろう。

さらに著者は・・・

《第九交響曲》の第一楽章がマーラーの手によって書かれた交響音楽の最高のものだというのは、すでにアルバン・ベルクがいい当てている。

また著者は《第六交響曲》を評価しているが、

《第六交響曲》のフィナーレで三度下される鉄槌の楽想は、彼が人生で実際にぶつかる前に着想されたものだった。「男はついに倒れる」と、これを書きあげている最中、彼は語った。
芸術家の場合、運命が実際に事件の姿をとって現われるより先に、作品の中に形をとっていることは、よくみられることである。予感というよりも、むしろ、そういう運命を自分のまわりに呼び集めるような人物が、その種の悲劇的な作品を書くというのが順序なのではなかろうか?  人は恋人ができてから、恋を知るのではない。
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吉田秀和氏は最も尊敬する音楽評論家だ。クラシック音楽の持つ魅力を深い洞察力と感覚的な言葉で表現、自己主張を前面に出した文章は、何を読んでも面白い。音楽理論に入りだすと止まることを知らない。
理論がわからないものでも何となくわかるような気がするから不思議だ。
吉田氏の長きにわたる人生での数多くの人脈を見ると奥深い評論が生まれだす源泉が見えてくる。
小林多喜二、中原中也、小林秀雄、大岡昇平、斎藤秀雄、柴田南雄、バルバラ・クラフト(妻)・・・

文庫あとがきで、吉田氏らしいはっきりした文章が・・・

この本にはバーンスタイン、ショルティ、私の好きになったバルビローリ、それからもちろんヴァルターなどは出てくるし、レヴァインからシノーポリ、ブーレーズあたりまでは出てくるが、ハイティンクはおろかアバドなど全然無視。当時日本でさえ評判の悪かったカラヤンのマーラーにはふれている。彼にとっていかにマーラーが異質の居心地悪いものだったかに少し立ち入ってはいる。彼に限らず、十九世紀以来のドイツの伝統に立つ指揮者たちーフルトヴェングラー、クナッパーッブッシュ、クライバー、ヴァントらの演目にはマーラーの名は見当たらず、マーラーを早くからとり上げたヴァルターやクレンペラーらこそ特殊、異端だったのである。

読後、第6番を、著者の嫌いなハイティンク(シカゴso)の演奏で聴いてみた。この曲は今まで馴染んできた5番までの延長線上で聴けるが、第7番からちょっと怪しくなり、さすがに第9番は何度聴いても、その良さが全くわからない。アマチュアである僕には難しすぎる。


by kirakuossan | 2017-09-29 07:52 | クラシック | Trackback

カラヤン最後の収録演奏

2017年9月28日(木)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おはようございます、名曲のたのしみ。今日は八月最後の日曜日なので、「試聴室」の番です。カラヤンをしのんだプログラムをお送りしたいと思います。
カラヤンが死んだのは七月十六日だったから、もうひと月あまり。死んだ当座は、日本でさえ、テレビとか、ラジオだとか、新聞だとか、その他、数えきれないほどのいくつものマス・メディアがその死について伝えたり、それをしのぶ番組がありました。僕もこの時間でささやかな、彼をしのぶ記念演奏会を提供しょうと思うんです。彼の人柄だとか、履歴だとか、業績だとか、そういうことはもう十分に語りつくされているといっていいんじゃないでしょうか。僕はそういうことと別に、彼の音楽の作りかたについて自分の考えていることを、実例に即して、いくつかの要点にまとめて、お話してみたいと思うんです。
人柄はやっぱり、みんなのいうとおり、いろんなね、欠点というのもおかしいけど、弱点があるような人だったかもしれないし、ナチの党員だったっていうことがあって、決してきれいな経歴ではないですよね。権力欲も強かったし、でもそういうことをいってカラヤンをだめだっていうのは・・・、話は本当はちょっとちがいますけども、たとえばリヒャルト・ワーグナーをね、借金を踏み倒す天才で、どこへ行っても借金ばっかりしては逃げて歩いていたとか、人の奥さんを横取りするのを、数えきれないこともないかもしれないけど何人もやったとか、「もう本当にひどい不品行な男だ、だからあいつの音楽はだめだ」っていうのに、ちょっと似たようなところがあるような気がするんですよ。たしかにそういうことはあったでしょう。でもね、だからあいつは音楽家としてだめだ、そういう人間にはいい音楽ができないっていうのは、そんなこと、ちょっといえないですよ。そこがやっぱり、芸術の面倒くさいところだ。立派な人間が立派な芸術を残すというのは、鉄則でしょうけども、人間が立派であれば、いい芸術を残すともいい切れないし。ワーグナーのような人もいるんですからね。ベートーヴェンだって、弱点だらけだったらしいですよ。
『名曲のたのしみ吉田秀和』第2巻より「カラヤンをしのんで」
1989年8月27日放送分

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ヘルベルト・フォン・カラヤンが1989年7月に亡くなるその3か月前にウィーンで収録された彼の最後の曲がブルックナーの第7番であった。当時は長年共にしたベルリン・フィルとも仲たがいし、この演奏はウィーン・フィルハーモニーとのものであった。今朝のNML新着タイトルのヘルベルト・フォン・カラヤン - 1980年代録音集 4から聴いてみる。

ブルックナーは交響曲第6番を書き終えた後すぐに次の作曲にとりかかった。交響曲第7番は、吉田氏の話にも出てくるリヒャルト・ワーグナーの死への追悼の意を表現したことでも知られているが、1881年9月末から第1楽章の作曲が開始された。 スコアは先に第3楽章スケルツォが1882年10月に出来上がり、第1楽章のスコアはその年の暮れに完成する。そして第2楽章の執筆中に、敬愛するワーグナーが危篤に陥り、ブルックナーは「ワーグナーの死を予感しながら」この稿を書き進め、1883年2月13日にワーグナーが死去すると、その悲しみの中でコーダを付加し、第184小節以下をワーグナーのための「葬送音楽」と呼ぶこととした。そして第2楽章のスコアは2か月後の4月21日に完成、その年の9月5日に全4楽章が完成した。


d0170835_17380799.jpgブルックナー:
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン (指揮)
(録音: April 1989, Grosser Saal, Musikverein, Wien, Austria)


カラヤンは同曲を1975年にベルリン・フィルとの演奏でも遺している。エネルギッシュでいかにも脂が乗った頃の指揮ぶりがうかがえる。一方、こちらの最後の収録は、さすがに枯れた趣が味わえる。




ところで前出の「名曲のたのしみ」で吉田氏がカラヤンをしのんで放送された曲目は、モーツァルトのディヴェルティメント第15番K287、リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」より第4曲《夕映えの中で》、それにヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」であった。


これからきくシュトラウスの「四つの最後の歌」の最後、「夕映えの中で」、これは題名のとおり、リヒャルト・シュトラウスの最後の歌、長い人生の果てに、生きてきた道を振り返って、静かに終わりのくるのを見つめている、諦観っていうかな、そういう音楽です。そういうカラヤンの気持ちと、ヤノヴィッツの歌いかたと、この曲と。やっぱりカラヤンが残した演奏のなかで、ひじょうに光るもののひとつだと思います。グンドゥラ・ヤノヴィッツの独唱で「夕映えの中で」、これききましょう。


d0170835_17484114.jpgリヒャルト・シュトラウス:
「4つの最後の歌」 Op. posth. TrV 296より
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
(録音: February 1973, Jesus-Christus-Kirche, Berlin, Germany)




by kirakuossan | 2017-09-28 16:43 | クラシック | Trackback
2017年9月28日(木)

最近すこし低調だったNMLの新着タイトルだが、今朝は久々に魅力あるディスクが豊富に揃った。
クリスチャン・ツィメルマンのシューベルト、ラファウ・ブレハッチのバッハ、あるいはダヴィッド・オイストラフのモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集、エミール・ギレリスのベートーヴェンのソナタ、レフ・オボーリンのチャイコフスキーの「四季」、セミヨン・ビシュコフやアンドリス・ネルソンスのショスタコーヴィチ交響曲集・・・
なかでも目を見張るのがヘルベルト・フォン・カラヤンの録音集、1960年代から80年代に分けて11集におよぶ総集編はグラモフォンでのカラヤンの録音をほぼ埋め尽くしているだろう。それらがすべて気軽に聴くことが出来るとは、貴重で価値がある。(70年代録音集の2番だけが欠けているのがきになるが)

例えば、1960年代録音集1番の収録は・・・
リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」に始まり、ドヴォルザークの「新世界より」と「スラヴ舞曲集」、リストの交響詩「マゼッパ」、モーツァルトの「レクイエム」、ベートーヴェンの交響曲全集、ストラヴィンスキーの「春の祭典」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの1番と2番、さらにはドビュッシーの管弦楽曲集などなど、てんこ盛りだ。


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by kirakuossan | 2017-09-28 06:56 | クラシック | Trackback
2017年9月27日(水)

ヴィヴァルディの「四季」は季節に応じて4人のヴァイオリニストがそれぞれ独奏を演じることがあるが、これが4人ともそれこそ名手が揃って腕を競うと、幾分馴染み過ぎたこの曲も新鮮な楽曲としてものの見事に蘇る。
アイザック・スターン、ピンカス・ズーカーマン、シャロモ・ミンツ、イツァーク・パールマンのいずれもイスラエルに関係が深い4人がそれぞれ春から冬までを受け持つ。バックは弦にかけては申し分ないイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、そして指揮者は伴奏曲でも定評のあるズービン・メータとくるから、これ以上の組み合わせは考えられないのである。1982年12月テルアビブでのライヴ、演奏後の拍手とともに緊迫した臨場感がひしひしと伝わって来る名盤である。

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ヴィヴァルディ:
四季 - ヴァイオリン協奏曲 ホ長調
アイザック・スターン - Isaac Stern (ヴァイオリン)
ピンカス・ズーカーマン - Pinchas Zukerman (ヴァイオリン)
シャロモ・ミンツ - Shlomo Mintz (ヴァイオリン)
イツァーク・パールマン - Itzhak Perlman (ヴァイオリン)

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 - Israel Philharmonic Orchestra
ズービン・メータ - Zubin Mehta (指揮)
録音: December 1982, Live: Frederic R. Mann Auditorium, Tel Aviv, Israel



演奏時、スターンは62歳、パールマン37歳、ズーカーマン34歳、ミンツ25歳、スターンを囲んで息子ほどの若手3人が競う、微笑ましい顔合わせ。このような演奏会に出逢えたら、人生最上の喜びと言っても決して大袈裟でないだろう。
ここでよくわかるのは、「春」の演奏で、アイザック・スターンが他の若手とちがった、円熟味を帯びた、さすが貫禄といった演奏を聴かせる。スターンはもともとあまり好きなヴァイオリニストではないが、これを聴くと、とにかく”さすが”と称賛するほかないのである。

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by kirakuossan | 2017-09-27 22:10 | 注目盤◎ | Trackback

名手が奏でる協奏交響曲

2017年9月27日(水)

独奏楽器がオーケストラと渡り合う協奏曲とは違い、複数の独奏楽器がオーケストラと協調的に響き合う音楽形式に協奏交響曲というのがある。通常はヴァイオリンとヴィオラによる二重協奏曲として演奏されることが多い。全3楽章からなり、第1楽章には協奏風ソナタ形式を持つ。


d0170835_21020376.jpg一七七九~八〇年に作曲された、《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》のアンダンテ楽章では、全体を中庸の美が支配している。魅力的な四小節のメロディが二回現れるのだが、曲の真ん中あたりでは変ホ長調、そして終盤ではハ短調になっている。一回目は長調なのだが、平行短調に転調して、一時的に陰りが生まれる。二回目の短調には、長調がぽつぽつと点在しており、夜陰に灯る明かりのような効果をつくり出している。二つのパッセージはほぼ同じだが、両者の間には長い物語を語ることができるほどの距離があるかもしれない。
音楽学者のスコット・バーナムは、モーツァルトが「純真さを喪失した響き、失った純真さをいつでも回復できるような響き」をつくったという見解を述べている。芸術家にとってこれほど強力なテーマはないのであって、それはなぜモーツァルトがこれほど新鮮な存在であり続けているのかを物語っている。今もなお、ピアノ協奏曲第二三番の緩徐楽章は、物思わしい恍惚とした境地に私たちを導き入れ、《ジュピター》交響曲の終楽章は、モーツァルト特有の知的な喜びを呼び覚ましてくれる。そして《ドン・ジョバンニ》の破滅的なクライマックスは、秤にかけられ、不足と見られてしまう(旧約聖書ダニエル書)ことへの、私たちの原初的な恐怖をかき立てる。失われた無邪気さは、モーツァルト自身のものでもあった。他の人たちと同じように、モーツァルトは自身が音でつくり上げた複雑な楽園の外側で生きなくてはならなかったのである。
『これを聴け』(アレックス・ロス著/柿沼敏江訳:みすず書房刊)


d0170835_21132512.jpgモーツァルト:
イツァーク・パールマン(ヴァイオリン)
ピンカス・ズーカーマン(ヴィオラ)
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
ズービン・メータ(指揮)


ほかにモーツァルトのフルートとハープのための協奏曲、ベートーヴェンの三重協奏曲、ブラームスの二重協奏曲などの作品は「協奏交響曲」とは銘打たれていないものの、協奏交響曲の一種と考えてられる。
こうしてみて見るとどの曲も、各独奏楽器に名手を据えた演奏に接すると、ことのほか珠玉の名曲と化するものである。




by kirakuossan | 2017-09-27 21:03 | クラシック | Trackback
2017年9月27日(水)

芥川の恋文、初公開へ

「小鳥ノヤウニ幸福デス」

2017/09/27 06:00 【共同通信】

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初公開される芥川龍之介のラブレター(芥川耿子さん提供)

 作家の芥川龍之介(1892~1927年)が結婚前の妻に送った恋文が、東京都北区の田端文士村記念館で10月7日から初公開される。「愛シテ居リマス」「小鳥ノヤウニ幸福デス」という甘く熱っぽい言葉は妻の文の回想録などで紹介されていたが、直筆が公になるのは初めての機会だ。

 1918年2月に結婚した芥川と文。ラブレターは400字詰め原稿用紙の切れ端に書かれていた。文はその紙を便箋に貼り付け、しまっていたという。

 「ワタクシハアナタヲ愛シテ居リマス コノ上愛セナイ位 愛シテ居リマス ダカラ幸福デス 小鳥ノヤウニ幸福デス」



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今の時代に十分通用するイケメンですなあ。

.


by kirakuossan | 2017-09-27 07:32 | 文芸 | Trackback

コウサネツに注目

2017年9月26日(火)

高砂熱学工業(1969)
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先日、SUBARUをゴールデンクロス前夜と思いながらも買いそびれ、その後急伸し、やっぱしと思ったが、ここは気を取り直し、地味だが空調の最大手高砂熱学に注目している。今期若干の減益とはいえ、ここ数年安定理に推移しており、右肩上がりで上昇中。PER17倍は割安で、東京オリンピックなどを控え、今後堅調な動きを示すのではないか。昨日1856円で拾うが、早晩1900円は抜いて来るだろう。

昔かみさんが「コウサネツ」と言って大笑いしたことがあるのを思い出した。はたして本当に大笑いできるか?



by kirakuossan | 2017-09-26 08:37 | | Trackback