信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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カテゴリ:美術( 114 )

尾瀬の風景画

2018年10月19日(金)

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荒井氏から頂いた自作の尾瀬の風景画。山荘に置いてきました。
今度tuttiを訪れるのは来春になるでしょう。
今日2週間ぶりに帰津。

by kirakuossan | 2018-10-19 20:09 | 美術 | Trackback

本当の「あお」に出会う

2018年9月18日(火)

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東山魁夷は、清澄で深い情感をたたえた風景画により、戦後の日本画の世界に大きな足跡を残しました。自然と真摯に向き合い、思索を重ねながらつくりあげたその芸術世界は、日本人の自然観や心情までも反映した普遍性を有するものとして評価されています。 明治41年(1908)、横浜に生まれた東山魁夷は、東京美術学校を卒業し、ドイツ留学の後、太平洋戦争への応召、肉親の相次ぐ死といった試練に見舞われますが、そうした苦難のなか風景の美しさに開眼し、戦後はおもに日展を舞台に「残照」や「道」といった風景画の名作を数多く発表しました。 本展は生誕110年を記念し、戦後の日本を代表する国民的画家と謳われた東山魁夷の画業を代表作でたどるとともに、東山芸術の記念碑的大作「唐招提寺御影堂障壁画」が特別出品されます。東京では10年ぶり、京都では30年ぶりに開催される本格的な回顧展となります。
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終戦前後に、父、母、そして弟が亡くなって妻以外の身寄りを失い、また、空襲によって自宅も失った東山は、《残照》を発表する直前、人生のどん底にいました。写生のために千葉県鹿野山の山頂に座り、沈みゆく太陽が、遙かに連なる峰々を刻一刻とさまざまな色に染めていくさまを見つめていた画家は、この自然が作り出す光景と自分の心の動きが重なり合う充実感を味わいます。


東山魁夷生誕110年を記念して、京都と東京で特別展が催される。出典作品には第3回日展で特選を得た初期の出世作「残照」や有名な「道」をはじめ、京都を題材にした多くの作品が観られる。なかに東山魁夷にしては比較的珍しい題材の「窓」などが出展されており楽しみにしている。
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京都国立近代美術館
2018年8月29日(水)~ 10月8日(月・祝)


by kirakuossan | 2018-09-18 06:48 | 美術 | Trackback
2018年9月8日(土)

今朝のネットニュースでふと惹かれる絵画を見つけた。


丸岡比呂史の絵画「菱の池」発見 14日から笠岡で90年ぶり披露
2018年09月08日 09時03分 山陽新聞

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笠岡市出身の日本画家小野竹喬らが1918年に立ち上げた国画創作協会の公募展(国展)の入選作で、長く所在が不明だった丸岡比呂史(1892~1966年)の「菱の池」が7日までに見つかった。確認した同市立竹喬美術館(同市六番町)は「個性豊かな国展の画家の中でも、将来を嘱望された若手の代表作。国展の系譜を研究する上で意義深い」とし、14日開幕する特別展で約90年ぶりに披露する。
丸岡は京都市出身で、竹喬とともに国展を創立した土田麦僊(ばくせん)に師事。応募449点から3点しか入選しなかった第3回国展で、入選に次ぐ選外10点に選ばれ、次の世代の有望株と注目された。 第5回国展に入選した「菱の池」は、縦154・3センチ、横183・6センチの大作。ヒシの花が咲く池に入り、水草に手を伸ばす少女3人を淡い色彩で生き生きと描いている。「ダビンチや岸田劉生ら洋画の影響を受けた丸岡が、自分のスタイルを打ち出した作品。緻密な衣装の表現や柔らかな表情など、高い技量を感じさせる」と上薗四郎館長は評する。 丸岡は36年に麦僊が没した後、画壇を離れたため、現存する作品は20点ほど。「菱の池」も当時の図録に載るモノクロ写真が伝わるだけだったが、上薗館長らが国展関連の展覧会でたびたび紹介したところ、2年ほど前に京都の商家から「似た絵がある」と連絡が入り、実物と確認した。作品は、特別展「創立100周年記念 国画創作協会の全貌(ぜんぼう)展」(10月21日まで)で、ほかの国展出品作とともに展示される。


1918年、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)の同期生であった日本画家の小野竹喬土田麦僊村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰の5名の新進気鋭の画家達は、伝統的な文展の審査のありかたに不満と疑問を持ち、「創作の自由を尊重するヲ持って第一義となす」の理念のもとに「国画創作協会」が創設され、展覧会を「国展」と称した。当初、日本画部と洋画部の2部を擁したが1928年に解散、第2部が国画会として独立。以後、絵画部に版画部・彫刻部・工芸部・写真部を加え、5部による美術団体として、毎年春期に東京都立美術館にて公募展を開催。2007年より、国立新美術館に国展の会場を移している。その「国展」が今年で100周年を迎えるわけだ。

d0170835_15553754.jpg丸岡比呂史は国展を創立したひとり土田麦僊に師事した。専門学校時代は図案科に所属し、帯や着物の意匠を学んだ画家らしく、着物の柄や鼻緒などの細部を繊細に描いた。なかに代表作《路次の細道》がある。



笠岡市立竹喬美術館
岡山県笠岡市六番町1-17
《特別展》 創立100周年記念 国画創作協会の全貌
平成30年9月14日(金曜日)~10月21日(日曜日)


この90年ぶりに発見された絵画を観に行きたくなった。



by kirakuossan | 2018-09-08 15:08 | 美術 | Trackback

雅邦と芳崖

2018年8月21日(火)

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日本画家橋本雅邦は12歳で狩野派に入門、同門の7歳年長の狩野芳崖が剛であれば彼は柔であり、互いに正反対の性格なるも生涯の親友となった。二人はフェノロサや岡倉天心の指揮下で共に東京美術学校の発足に向けて準備を進める。

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しかし開校目前に芳崖は世を去り、絶筆となった「悲母観音」を雅邦の手によって完成されることになる。
美術学校開校後、雅邦は絵画科の主任に就き、下村観山、横山大観、菱田春草、川合玉堂らを指導することとなる。

そもそも狩野派の絵師には個性の表出よりも先祖伝来の筆法を忠実に学ぶことが最優先に求められた。こうしたことから探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったとされる。芸術家の個性表現や内面の表出を尊重する現代においては狩野派の絵画への評価は、光悦・宗達・光琳・乾山らの興した琳派とは異なり必ずしも高いとは言えないが、長きにわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったこともあって狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。事実、近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け狩野派の影響から出発した。そんななか雅邦と芳崖は、まさに日本画の江戸時代と明治時代を橋渡しする位置にあった画家で、共に狩野派の描法を基礎としながら洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。

橋本雅邦(左)は1835年、天保6年の今日、江戸木挽町(今の銀座)に生まれた。

by kirakuossan | 2018-08-21 08:57 | 美術 | Trackback

少年と少女の目

2018年6月24日(日)

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ヒューゴ・シンベリの「傷ついた天使」(1903年)
どこか魅かれる画である。題材がユニークだし、二人の少年の表情が気にかかる。後ろで担ぐ少年の目つきにしばし緊張が走る。ヒューゴ・シンベリ(1873年6月24日~1917)はフィンランドの象徴主義画家である。
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同世代のフィンランドの写実主義の画家にエーロ・ヤルネフェルト(1863~1937)がいるが、彼の「賃金奴隷」(1893年)も以前から気にかかる画である。
象徴派と写実派の違いはあれ、この少女の目とシンベリの少年の目は、僕には同質に見える。



by kirakuossan | 2018-06-24 11:11 | 美術 | Trackback
2017年12月10日(日)

「17組の光田啓子さんが今年の日展の洋画部門に入選されました。すごい!」
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昨日京都へ出向くとき、螢谷界隈を歩いていて、もう一つこんな掲示板を目にした。このような案内をみると、岡崎まで足を運んで是非観てみようという思いに駆られます。なにせこんな身近に住んでいる人が描いたものだから、興味は大いに沸きます。

日展(平成29年12月17日~平成30年1月20日:於京都市美術館別館)
光田啓子「時の流れに」

第2科(洋画部門)は500作を越える応募があって、特選10点、入選41点ほどあったもようで、その入選作に選ばれた。滋賀県ではもうひとり近江八幡市の細田公子さんの「ウィンドウに映る京の街」が入選した。

(2017年12月9日)


by kirakuossan | 2017-12-10 08:20 | 美術 | Trackback
2017年10月1日(日)

上半身裸の「モナリザ」か

ダビンチ本人作の可能性

2017/9/30 22:39【共同通信】

パリ近郊のコンデ美術館が所蔵している上半身裸の女性の肖像画。レオナルド・ダビンチが描いた可能性があることが分かった(ゲッティ=共同)

 【パリ共同】パリ近郊の美術館が所蔵する上半身裸の女性の肖像画が、巨匠レオナルド・ダビンチの世界的な名作として知られる油彩画「モナリザ」の習作としてダビンチ本人が描いた可能性があることが分かった。フランス国立ルーブル美術館の専門家らが鑑定を進めている。ロイター通信などが29日伝えた。

 木炭で描かれた肖像画はこれまで、ダビンチの弟子だった画学生の作品とされ、1862年からパリ近郊のコンデ美術館が所蔵している。ルーブルの専門家が詳細に鑑定したところ、制作時期が「モナリザ」とほぼ一致し、絵を描いた紙の生産地がイタリア北部の地域に特定された。


本当だとすれば、これは偉大な発見!


Leonardo da Vinci

1452~1519


by kirakuossan | 2017-10-01 09:01 | 美術 | Trackback

劉生晩景

2017年6月24日(土)

九月十七日に横須賀を発ち、特務艦で清水に着き、名古屋に向った。名古屋では、鈴木鎌造が早速落着き先の片野方にやってきた。鈴木は劉生のファンで、草土社の展覧会を名古屋で開いてくれた人間である。このときは蓁(妻)と照子(妹)麗子(娘)がいっしょだった。だが、名古屋では落着く気になれず、京都に家を求めるため、彼は単独で京都に行った。京都は久しぶりで、以前、奈良や、この土地の古い仏像を見て回って感心したことがあった。早速、京都にいる志賀直哉に電話して、その晩、話し合っている。
新しい家は、村田永之助という西陣の織物問屋の息子で、武者小路の新しき村の会員でもある青年の世話だったが、場所は、南禅寺草川町であった。この家には十月三日に入った。「神よ、この新しい生活の門出をお祝い下さいまし」と、彼は日記に書くが、京都の生活祝福されるものになるかどうか、このときはまだ彼には分らなかった。家の近くでは、目が醒めると近くの動物園からライオンの声が聞こえた。~
松本清張著『岸田劉生晩景』より

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僕はこの岸田劉生(1891~1929)の風景画「道路と土手と塀」(切通之写生)が大好きである。明治から現在に至るまで数多い日本人洋画家の描いた作品の中でも3本の指に入るぐらい好きである。娘の岸田麗子の肖像を多く描き、彼の代表作ともなっているが、そのどれもよりこの画の方を取る。
劉生は1917年(大正6年)から10年近く克明な日記をつけた。それが「鵠沼日記」や「劉生絵日記」としてまとめられ知られるようになる。26歳で日記をつけ始めたとき、結核と診断(実際は誤診だったが)され、武者小路実篤の貸別荘のあった神奈川県藤沢町鵠沼に移り住み療養生活を送る。その彼を慕い中川一政らも住むようになるが、その後、1923年(大正12年)の関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居することになる。後に鎌倉に居住するが、この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であったとされる。
日記が途絶えたこともあって晩年の京都、鎌倉での生活ぶりを知ることは難しい。d0170835_20394969.jpgそれを松本清張が解明していこうとする。
劉生の生誕日であった昨日、書棚から一冊の本を見つけた。以前古本屋で50円で買った。読まずにそのままだったが今日読んでみた。

by kirakuossan | 2017-06-24 15:45 | 美術 | Trackback
2017年3月17日(金)

大津膳所の中ノ庄にある日本画家の大家山元春挙の別荘「蘆花浅水荘」を訪れた。
主屋二階の20畳ほどの広い画室に掲げられているひときわ目立つ下絵。これが春挙の出世作「法塵一掃」の下絵。禅僧の顔が印象的である。
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d0170835_14211827.jpgd0170835_14213460.jpg法塵一掃 山元春挙

1901年(明治34)に京都で開催された第7回新古美術品展に出品された大作で、竹内栖鳳《獅子》に次いで1等2席を獲得し、画壇に確乎たる地位を獲得した春挙の出世作である。禅の悟りに経論などは塵や埃と同じで不要なものとして、経典を焼き捨てた唐の禅僧周金剛の逸話を画題としている。画面の左から右へと、師の紀行に呆気にとられる二人の弟子から右を向いて経典を焼く周金剛、その煙が左から右上へたなびく動きのある画面構成が、一見速筆で荒々しい描法と相まって禅機画の軽妙さに至っている。水を含ませた刷毛を用いるなど、煙とそれが漂う禅堂の表現が秀逸であり、春挙の多様なテーマへの挑戦と優れた技量が融合した春挙30歳の記念すべき名作である。縦 (cm)160.5、横 (cm)231.9 (滋賀県立近代美術館解説より)

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山元春挙(1872~1933)
明治から昭和初期にかけ活動した円山四条派の日本画家。本名は金右衛門。別号に円融斎、一徹居士。竹内栖鳳と共に、近代京都画壇を代表する画家である。


「春夏秋冬」
大正2 絹本着色・軸(4幅対) (各)171.5×86.4
第7回文展(1913)
京都国立近代美術館蔵

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by kirakuossan | 2017-03-17 14:14 | 美術 | Trackback

70回を迎えた県展

2016年12月9日(金)
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永井龍男の短編小説『白い柵』を借りるために図書館へ行ったついでに隣の近代美術館で「県展」を鑑賞する。
今年で第70回を数える。節目の開催年であるためか、例年になく、良い作品が揃っていたように思う。いつの年か、斬新性を追求したあまり、突飛すぎてあまり感動しない時もあったが、今年は違った。地に足がついたというか、(よく足に地が付いた、と言い違えるが)どの作品も堂々としていて、たいへん意欲的な感じがする力強い絵画が目に付いた。入り口に並んでいた彫刻も生き生きとして、興味を惹いた。入場無料、これは値打ちがあった。


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by kirakuossan | 2016-12-09 16:12 | 美術 | Trackback