信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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カテゴリ:ヒストリー( 76 )

2018年10月29日(月)

いろは歌

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色はにほへど  散りぬるを
我が世たれぞ  常ならむ
有為の奥山   今日越えて
浅き夢見じ   酔ひもせず














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改めて思うに「いろは歌」は本当によく出来ていると感心する。すべての仮名を重複させずに使って作られた誦文で、七五調の形式となっている。平泉澄氏は「詩の内容から見れば明瞭に仏教の思想ですから、僧侶が作ったものとしてよいでしょう。僧侶の中でも、よほどの英才で、才気かがやき、詩情溢るる人でなければなりますまい」としたうえで、「大江匡房は、源信僧都が、〈いろは歌〉を作られたのは弘法大師である、といわれた」と付け加える。
そしてそれを証拠づける事例を紹介する。

凌雲集という古い漢詩集にあります。それは弘仁五年(西暦814年)に作られたもので、従って空海の生きているうちのものです。仲雄王が、空海を閑静な寺に訪ねて、その人柄と功績とに感激して作った詩の中に、「字母、三乗を弘め、真言、四句を演ぶ」とあります。その四句は、〈いろは歌〉をさすものと判断せられますから、〈いろは歌〉は、空海の作で、しかも弘仁五年より前(そして大同元年帰朝以後)にできたものと考えられます。
空海には、いろいろと、功績がたくさんありますが、しかし万人がその恩恵にあずかり、千年を経て尽きないものは、この〈いろは歌〉を作ったということでしょう。


平仮名が発達し、片仮名が開発され、五十音図の工夫がこされる。延暦から延喜にかけての100年間、表面は漢文漢詩全盛にみえても、その内面では着実に日本独自の文化が育っていく。小野小町や在原業平などのすぐれた歌人が現れ、やがて延喜五年(905年)、平安時代前期、最初で最高の勅撰和歌集である古今和歌集が誕生する。


ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ

紀友則



面白い歌をひとつ。

おいらくの 来むと知りせば 門さして
無しと答へて 逢はざらましを

よみ人しらす


「いろは歌」から100年たって、古今和歌集が生まれ、そしてさらに100年後に源氏物語が登場する。






by kirakuossan | 2018-10-29 08:27 | ヒストリー | Trackback
2018年10月28日(日)

平泉澄著の「物語日本史」は面白い書物だが、なかでも「上巻」には読みどころが多い。今まで日本史はどちらかといえば近年になるほど興味があったが、本著を手にして、古代に夢をはせる思いがしてきた。ここにこんな一節がある。


藤原京遷都
大海人皇子、即位して天武天皇とおなりになり、御在位十五年でおかくれになりますと、次には皇后が御位をお継ぎになり(持統天皇)、十一年後に御孫文武天皇にお譲りになります。この三代三十数年の間に、国の体制が、だんだんにととのえられて、それが次の奈良時代に花と咲き匂うようになるのです。例をあげるならば、歴史の編集が、その一つです。天武天皇の十年(西暦681年)、川島皇子や忍壁皇子、そのほか十人ばかりに命じて、帝紀及び上古の記録を整理させられるとともに、別に稗田阿礼という、記憶力抜群の青年(時に二十八歳)に命じて、太古からの口伝を一筋にまとめて朗唱せしめられました。その前者は、やがて日本書紀になって完成し、後者はまた、書きおろされて古事記となるのです。


d0170835_12340480.jpg実はこの時代に生きた人物で、多くの人々の信望を集めていた人に大津皇子(663~686)がいる。「懐風藻」には、体格や容姿が逞しく、寛大で、幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。さらに武芸を好み、巧みに剣を扱い、また皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した、と紹介されている。それと同じことが「日本書紀」でも述べられている。
ところが686年9月天武天皇が崩御すると、すぐさま密告により、謀反の意有りとされて大津皇子は捕えられ、翌日に自害させられる。その密告者が上の一節にも出てくる同じ皇族で親友でもあった川島皇子と言われる。これにはさまざまな憶測が飛び交うが真実は定かではない。また大津皇子の辞世の句が遺されているが、これも確かなことはわからない。

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

ただ、この句にショスタコヴィッチが曲をつけ、歌曲「6つの歌」 Op. 21の中に出てくる。
そんな大津皇子だが、彼を題材にして小説「天翔ける白日」を書いたのが黒岩重吾(1924~2003)。社会派推理・風俗小説作家としてのイメージが強いが、黒岩重吾は、1970年代後半から古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始めている。もともと古代史の舞台となった場所で生まれ育ち、幼いころから百舌鳥古墳群の近くで遊んでいたというだけあって関心は尽きなかった。歴史小説としての代表作「天の川の太陽」は壬申の乱をテーマに採りあげており、興味が湧く。
ということで、今度は思いもよらなかった黒岩重吾の作品を求めていまから図書館へ出向く。



by kirakuossan | 2018-10-28 10:02 | ヒストリー | Trackback
2018年10月27日(土)

d0170835_22090376.jpg思い出しては読んでいるが、ホント、「物語日本史」はわかりやすくて面白い。平泉澄(1895~1984)氏の歴史研究は「平泉史学」とも評され、皇国史観に立ち、国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けた。
文庫本で全3巻だが、各巻の目次と標題(小見出し)を眺めているだけで、日本の主だった歴史が、まるで巻物をたどるように、系統だってわかる。



物語日本史(上巻)

1.国家建設
 元服 志を立てる 
2.神武天皇
 柴野栗山 神武天皇 
3.皇紀
 六国史 年立ての混乱 讖緯の学 
4.神代
 神話 天地創造 天石窟 八岐大蛇 稲羽の白兎 天孫降臨 海の幸山の幸 
 日本の神話の特色 
5.日本武尊
 御歴代天皇 日本武尊 
6.神功皇后
 広開土王の碑 百済救済 
7.応神天皇
 文字伝来 御陵 
8.継体天皇
 皇統 王朝交替 
9.聖徳太子
 仏教伝来 17条の憲法 遣隋使 法隆寺建立 蘇我氏の横暴 
10.大化改新
 蘇我氏滅亡 大化改新 
11.天智天皇
 白村江の戦 壬申の乱
12.藤原京
 藤原京遷都 大宝律令 遣唐使 
13.平城京
 平城京遷都 青丹よし寧楽 
14.記紀、風土記
 古事記 日本書紀 風土記
15.万葉集
 万葉がな 柿本人麻呂 山上憶良 大伴家持 防人の歌
16.大仏
 和同開珎 奈良の大仏 
17.和気清麻呂 
 行基 鑑真 道鏡
18.坂上田村麻呂 
 和気清麻呂の精神 坂上田村麻呂
19.最澄と空海
 最澄 空海
20.平仮名
 音読・訓読 いろは歌 
21.片仮名
 五十音図 国語の構造
22.古今集
 日本独自の文化の発達 古今集
23.竹取物語
 竹取物語 伊勢物語 土佐日記
24.源氏物語
 枕草子 紫式部 源氏物語
25.延喜式
 伊勢大神宮 出雲大社 行政区画
26.菅原道真
 藤原氏の謀略 大宰府流罪
27.延喜、天暦
 延喜、天暦の御代 貴族政治の崩壊


物語日本史(中巻)

28.藤原氏の全盛
 一門の栄華 承平・天慶の乱 地方豪族の台頭
29.八幡太郎義家
 頼光・頼信兄弟 頼義・義家父子 身内の喧嘩
30.後三条天皇
 大江匡房 宣旨桝
31.院政
 院政のはじまり 
32.保元の乱
 藤原頼長 白河殿夜討ち 上皇方の敗軍 乱後の処分 乱世
33.平治の乱
 藤原信西 義朝の都落ち 
34.平家の全盛
 義朝の子供達 平家一門の栄華 鹿の谷の陰謀
35.源三位頼政
 「木の下」 平家討伐の令旨 頼政自害
36.平家の都落ち
 福原遷都 頼朝挙兵 富士川の合戦 清盛の死 木曽義仲
37.源義経
 牛若丸 宇治川の戦い 鵯越の奇襲 よみ人知らず 屋島攻撃 那須余一宗高 
 壇ノ浦の戦い 腰越状
38.源頼朝
 兄弟の不和 不和の原因 義経追討 守護・地頭 鎌倉幕府の成立 
 頼朝の死 北条氏の台頭 頼朝出現の意義 
39.承久の御計画
 頼朝の死後 皇国中興 将軍実朝 実朝殺害 承久の変 後鳥羽上皇 
 北条氏の残忍 
40.北条時宗
 蒙古帝国 元の来襲 執権時宗 
41.後鳥羽天皇
 天皇の親政 正中の変 元弘の変 隠岐御遷幸 
42.楠木正成
 護良親王 吉野山攻略 千早城の戦い 
43.建武の中興
 船上山行幸 鎌倉幕府滅亡 正成の無私純情 高氏の謀反 
44.吉野五十七年
 継体の君 正成の最期 正行 菊池の忠節 武光・武朝 苦節全う 
 後醍醐天皇の皇子 宗良親王 新葉集 鎮守府代将軍 北畠親房 神皇正統記
45.室町時代
 足利氏の本質 乱の頻発 群雄割拠


物語日本史(下巻)

46.織田信長
 統一の機運 徳川家康と同盟 武田信玄と上杉謙信 本能寺の変
47.豊臣秀吉
 光秀討伐 勝家との決戦 賤岳の戦い 関白太政大臣 九州平定 
 天下統一 朝鮮出兵 
48.徳川家康
 家康の生い立ち 関ヶ原の戦い 徳川幕府 
49.徳川家光
 日光東照宮 大名の概略 島原の乱 鎖国
50.山鹿素行
 林羅山 山鹿素行の一生 赤穂浪士 
51.山崎闇斎
 山崎闇斎の一生 闇斎の学問の特色 靖献遺言 望楠軒 谷秦山
52.本居宣長
 契沖と仮名遣い 国学の発展 
53.水戸光圀
 伯夷伝 彰考館 大日本史編纂の方針 
54.井伊直弼
 ロシア南下 日本の三蔵 阿片戦争 ペルリ来航 安政の大獄
55.橋本景岳
 啓発録 国事奔走 景岳の国難打開策 
56.吉田松陰
 講孟箚記 松下村塾 
57.孝明天皇
 幕府の権威失墜 孝明天皇の御徳 蛤御門の戦い 薩長連合
58.明治維新
 明治天皇 大政奉還 徳川幕府の最後 五箇条の御誓文 廃藩置県
59.西郷隆盛
 維新政府の分裂 分裂の原因 
60.明治天皇
 帝国憲法発布 教育勅語 
61.二大戦役
 朝鮮半島 日清戦争 日露戦争 バルチック艦隊 旅順攻略 
62.大東亜戦争
 乃木将軍の殉死 明治精神の衰退 大東亜戦争勃発 大東亜戦争の残したもの
 国民精神の高揚 

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by kirakuossan | 2018-10-27 19:52 | ヒストリー | Trackback
2018年10月5日(金)

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平泉澄著の「物語日本史」(上中下三巻)を読み出したが、第十四序天智天皇、いよいよ面白くなってきた。
時代は天智天皇2年、西暦663年10月4日から5日にかけて朝鮮半島白村江(現在の錦江近郊)にて戦いが繰り広げられた。「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)と呼ばれ、今から1355年前の今日の出来事である。
天智天皇は蘇我氏を滅ぼして大化の改新を断行したが、ほかにもうひとつ重要な出来事がある。当時の朝鮮半島は、南に百済、東に新羅が建国していたが、百済は、北方の高句麗、それに西方のシナ大陸の勢力と東方の新羅と、双方の挟み撃ちにおかれていた。その同盟国でもある百済を救おうとして唐と戦ったことである。
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当時海外の交通はずいぶん盛んであって、唐がシナ大陸を統一した勢いの隆々たること、それにくらべて百済の武力の貧弱であって、とうてい太刀打ちできそうもないこと、それを天智天皇が御承知ならぬはずはありません。それを御承知のうえで、あえて百済を救おうとせられましたのは、一つは気の毒な小国の討ち亡ぼされるのを、黙って見ているわけにはゆかぬという義侠心からであり、今一つは大国の侵略を、あの一線で阻止しておくことが、我が国の自衛上、よいと判断されたからでしょう。
不幸にして白村江の戦いに敗れたために、ことによると唐の大軍はこちらまで攻め寄せるかもしれないとお考えになって、国内の防備の態勢を整えさせられました。すなわち対馬・壱岐・筑紫には、国境防備の防人を置き、対馬の金田、讃岐の屋島、大和の高安に城を築き、北九州では水城を造らせるとともに、大野城と基肄城とを築き、長門にも城を設け、山の頂には烽火(とぶひ)をあげて、急を告げさせることとし、用意怠りのないように手配せられ、そして都も、近江の大津へ遷されました。これらはすべて、唐の侵入に備えるためであったのです。
結果だけを見れば、唐との戦いは無謀であり、失敗であり、そして消極的な退守に終ったように思われるが、当時朝廷の御計画は、実に雄大でありました。~
そして百済の救援は、百済が亡びた後に、日本の実力をもってこれを再興しようとされたものであることを注意しなければなりません。


これを機に、律令国家の建設が急いで進み、倭国を「日本」へと国号を変える。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。
都を近江大津へ移した背景には、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いとされるが、ただ、「日本書紀」によるとこの遷都には民衆から大きな不満があがり、社会情勢は不安定で昼夜を問わず出火があったという。
混沌としたなか、そして歴史はやがて「壬申の乱」へと続いていく。



by kirakuossan | 2018-10-05 19:31 | ヒストリー | Trackback
2017年8月22日(火)

江戸時代、水野南北(1760~1834)という人相占いの天才がいた。南北の占いは百発百中。人の運命をピタリと言いあてたという。
南北は大阪生まれ。幼くしてみなしごとなり、叔父に引き取られたが、そこを飛び出し、若い頃は無頼の徒、酒呑む金欲しさに、盗みをはたらき、とうとう牢屋に入れられた。これがよかった。南北は牢獄のなかで、たくさんの罪人の顔を見ているうちに、人相占師になることを思いつく。
研究は徹底していた。いろんな人の顔をじっと見るため、まず三年間、床屋で髪結いの弟子をやった。そのうち顔だけではなく、人の体つきも見たくなり、今度は銭湯の三助になって、三年間、人の裸を観察した。さらに人の骨も見たくなって、火葬場に三年勤めた。火葬場では骨になった人の親類縁者も丸ごと観察できる。勉強になった。こうして南北は独自の人相学をうち立てた。
南北は著書『南北相法』のなかで、古今東西の歴史人物の人相についても述べている。
たとえば、『三国志』の劉備玄徳は耳たぶが肩まで垂れ、両腕もひざをすぎるほど長かったといわれる。南北は、耳が大きいのは人徳と知恵がある証拠で<大いによし>と書いている。たしかに、徳川家康も八代将軍吉宗も耳が大きい。

d0170835_06595724.jpgしかし、頭のてっぺんがへこんでいるのは苦労性だと南北は主張する。孔子は頭のてっぺんが少しへこんでいた。南北にいわせれば、これは苦労が絶えない相。人徳があったから有名にはなったが、生涯苦労していたという。となみに、浄土宗をひらいた法然もこの頭の形であったという説があったらしい。<法然上人は不二山に似て頭の中ひくしや否や>と、南北に弟子が尋ねている。
面白いのはハゲ頭についての記述である。南北の人相学では、ハゲは必ずしも悪いことではない。<若きうちに、髪の生え際、ほどよくはげ上がる者は発達早し、運気強し>。
つまり、若ハゲは強運であり、逆に<年よりて髪あつく、額はげざるものは・・・年寄る程、運悪くなるべし>と、ハゲない人にとっては嫌なことを書いている。

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BSプレミアムの歴史番組「英雄たちの選択」の司会者で歴史学者でもある磯田道史(1970~)の話しぶりが好きである。聞いていて話しがわかりやすいうえに、ウイットに乗せ、自論も明確に語りながら、聞く者、読む者に歴史の醍醐味を充分に味合わせてくれる。映画化された『武士の家計簿』や『殿、利息でござる!』、表題を聞いただけで、思わず笑みがこぼれる。そんな磯田氏が著した『江戸の備忘録』が肩の凝らない読物で面白い。

朝から気を良くしたところで。。。




追記:
(9:15)
水野南北はまた「節食開運説」を唱え、「人生の吉凶は、ことごとく食より出づる」という結論に達した。

一日に麦一合五勺
副食は一汁一菜
酒は一日一合まで。

南北自身、若い頃は剣難の相であったが、小食にすれば腸相が良くなり、腸相が良くなれば人相が良くなる。人相が良くなれば運命が好転する。と自らの体験から解いた。


by kirakuossan | 2017-08-22 06:00 | ヒストリー | Trackback

ひらがなとカタカナ

2017年3月21日(火)

d0170835_11135210.jpg同じ今日3月21日、日本では弘法大師忌でもある。真言宗を開いた平安時代の僧空海(774~835)には多くの伝説・伝承が伝わる。讃岐うどんは空海の故郷の名産、灸は「弘法大師が持ち帰った灸法」とされたし、発見したとされる温泉は数知れず。
また平仮名を創作したという伝承もある。でもこれは今では俗説であるとされる。平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた借字で、平安時代になって漢字の草体化が進み、ついにもととなる漢字の草書体から独立したものが平仮名となり、文章を記す書記体系として確立した。”あ”から順番に見ていくと、なるほど・・・といったことでなかなか面白い。

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d0170835_11161682.jpg一方、片仮名吉備真備(695~775年)が作ったとされるが、これも俗説に過ぎない。漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは7世紀中頃から見られるが、片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。平仮名で書かれたものが美的な価値をもっているとされるのに比べると、片仮名は記号的・符号的な性格が強い。
この二つの仮名は、平安時代に生まれたが、若干、片仮名の方が先に成立した。平仮名は、女性が用いる文字として、日記や和歌、物語などに多く使われたし、一方の片仮名は、漢文を読むときの補助記号として生まれ、主に公文書を読んだり書いたりするのに利用され、漢字と並んで男性が使う文字とされた。


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by kirakuossan | 2017-03-21 10:54 | ヒストリー | Trackback
2017年3月19日(日)

大津は、ながい歴史のあいだ、つねに琵琶湖とともにあった。
琵琶湖は、古く鳰の海とよばれ、日本の淡海として、列島の東と西をつなぎ、日本の表と裏を分つ、まさに中心に位置していた。古くから水運の便をにない、水産の恵を与えてきただけでなく、その水は流れて瀬田川・宇治川さらに淀川と名を変えつつ、京・大阪など下流の人々の生命を支えてきた。まことにたいせつな湖である。
この湖の深い恩恵をうけると同時に、それを守りつづけてきたのは、ほかならぬ大津市民の祖先たちであった。彼らは日本の歴史と文化の上にもめざましい働きをしたが、けっきょくは琵琶湖の水守たちであったのだ。大津を中心に堅田も瀬田も含めて環湖共同体ともいえる組織をもって、この湖と生死を共にしてきた。
日本の中心であった大津は、それだけに天智天皇の時には日本の首都になり、平安時代を通じて王城の守護としての北嶺をになっただけでなく、中国の瀟湘八景にも比せられる近江八景によって全国にその風光をうたわれた。しかもその背景をなす近江は、日本の最先進地であり、その地の利を発見した織田信長はついに政治的に天下を制圧し、その地を故郷とした近江商人は経済的に全国を圧倒した。大津はその歴史のどこをとらえても、日本の歴史と文化の縮図であり典型であった。

歴史学者 林屋辰三郎


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d0170835_1394168.jpg大津市域で人の活動が始まったのは約3万5千年前、旧石器時代とされる。そして人々の暮らしの痕跡が最初に明らかになるのは、約7~8千年前の縄文時代、場所はなんとこのアトリエ近くにある石山寺東大門南に位置する石山貝塚からである。セタシジミの貝殻や、魚、鳥、獣骨などの食料の食べかすが多く発見される。背後に伽藍山、前に当時はゆるやかだった瀬田川、そこで狩猟、漁業で生活を営む人々にとっては格好の環境であったようだ。

そして、中大兄皇子が都を飛鳥から大津に移したのが、666年の今日3月19日。翌年、即位して天智天皇となる。ただこの大津京も天智天皇亡き後の後継者争いで、壬申の乱が起き、わずか5年で廃都となる。


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by kirakuossan | 2017-03-19 12:06 | ヒストリー | Trackback

暖炉しきりに燃ゆ。

2017年2月26日(日)
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日記
菊池寛

二月二十六日。午前九時半頃、出入の新聞配達が電話をかけてくれて、兇変を知る。「東京日日」へ電話をかけたが、いく度かけてもお話中である。事件の容易ならざるを思ふ。文芸春秋社へ電話をかける。すぐ出る。重臣達が皆殺されたとの事である。・・・なもののやうな気がして、暗澹たるものがある。「こはいかに成り行く世に姿ぞ」と、昔の本にあるやうな気がする。昼頃、「東京日日」より電話あり、連載小説の催促である。騒動で、小説が休載になるものと、それが不安のわづかな慰めだと思ってゐたので、ガッカリする。しかし、小説が休載にならない位なら、大した事もないと安心する。電話に出た学芸部の高原君に(情勢は何うなんだい)と訊くと高原君(情勢は・・・)と、云ひかけて、傍から止められたらしく(今話したらいけないさうです)と答ふ。編集局が、強力な者により監視されてゐるやうに思はれる。~
(『改造』十一年四月号)


1936年(昭和11)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした二・二六事件。このクーデターを境に、日本のファシズム化が加速し、やがて太平洋戦争への道を辿ることになる。わずか81年前のことである。


暖炉しきりに燃ゆ
久保田万太郎

朝、放送局より緊急の電話。事件の外郭を知る。熱下らざれど直ちに出勤。
自動車をよぶ。一台もなし。何分この騒ぎでという口上になり。そこまでもう手のまはったことを痛感しつつ、中の橋まで出て、円タクを拾ふ。けさ、何かあったんださうですね、と運転手、問はず語りにかたる。さうだってね、とこたふ。雪、しきりにふる。
愛宕山に到着。玄関、ホール、廊下、どこも思ったほどごツた返しをらず、きはめて平静なり。いささかこんなはずではなかったがの感あり。~
「演芸」のB君、「洋楽」のO君とともに徹夜することにきめ、報道部の部屋にて刻々入り来る情報聴取。夜半、戒厳令出づ。熱、七度に下がる。夜色しづかに暖炉しきりに燃ゆ。
(『改造』十一年四月号)



四十七士の討入りといい、桜田門外の変といい、かならず雪がつきものである。昭和11年2月26日も東京に大雪が降った。積雪36cm、これは当時東京での史上3位にあたる積雪であった。
それから事件発生から3日後の29日、午前8時50分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した放送がおこなわれる。これが名文として名高い。

d0170835_14344988.jpg「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によつて、お前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。
正しいことをして居ると信じてゐたのに、それが間違つて居たと知つたならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時までも反抗的態度をとつて天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるやうな事があつてはならない。
今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。さうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと、国民全体も、それを心から祈つて居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰つて来い」
 <戒厳司令官 香椎中将>





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by kirakuossan | 2017-02-26 13:41 | ヒストリー | Trackback

行基図

2017年2月2日(木)

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奈良時代の僧侶行基が作ったとされる日本地図がある。ことの真偽は定かではないが、これを「行基図」といって、江戸時代に伊能忠敬らが現われるまで日本地図の原型とされてきた。
北海道がなかったり、九州が円かったり、細部はともかくとして全体図としてのイメージはよく理解できる。ただし現存しているものは江戸時代の書写である。


津軽大里(青森県)
夷地陸奥(青森県大部分・岩手県一部)
出羽(秋田県・山形県の大部分)
鹿嶋常陸(茨城県大部分)
下総(千葉県北部・茨城県一部)
上総(かずさ・千葉県中央部常陸)
安房(あわ千葉県南部)
下野(栃木県)
上野(群馬県)
武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県一部)
相模(神奈川県大部分)
伊豆(静岡県東部・東京都伊豆諸島・伊豆七島・伊豆半島)
甲斐(山梨県)
越後(新潟県大部分)
佐渡(新潟県)
信濃(長野県)
飛騨(岐阜県北部)
美濃(岐阜県南部)
越中(富山県)
能登(石川県北部)
加賀(石川県南部)
越前(福井県東部)
若狭(福井県西部)
駿河(静岡県中央部)
遠江(静岡県南部)
三河(愛知県東部)
尾張(愛知県西部)
伊勢(三重県大半)
伊賀(三重県西部)
志摩(三重県東部)
近江(滋賀県)
山城(京都南部)
大和(奈良県)
紀伊(大部分和歌山県・一部三重県)
河内(大阪府東部)
和泉(大阪府南部)
摂津(一部大阪府・一部兵庫県)
播磨(兵庫県西部)
淡路(兵庫県淡路島)
丹波(京都府・一部兵庫県)
丹後(京都府北部)
但馬(兵庫県北部)
因幡(鳥取県東部)
伯耆(ほうき・鳥取県西部)
隠岐(島根県隠岐島)
出雲(島根県東部)
石見(島根県西部)
美作(岡山県北部)
備前(岡山県南東部)
備中(岡山県西部)
備後(広島県東部)
安芸((広島県西部)
周防(山口県東部)
長門(山口県西部・北部)
讃岐(香川県)
阿波(徳島県)
土佐((高知県)
伊予(愛媛県)
筑前(福岡県北西部)
筑後(福岡県南部)
豊前(大半福岡県東部・一部大分県北部)
豊後(大分県大部分)
対馬(長崎県一部)
壱岐(長崎県)
肥前(佐賀県・一部長崎県)
肥後(熊本県)
日向(宮崎県)
大隈(鹿児島県東部)
薩摩(鹿児島県西部)


d0170835_19505726.jpgまた、行基は、大僧正として聖武天皇により奈良の東大寺造立の実質上の責任者として招聘されたことや、多くの寺院を開基したり、架橋や貯水池掘削などの社会事業を各地で行なったことでもよく知られる。そして行基による開湯伝説が全国各地にある。草津温泉、野沢温泉、渋温泉、鹿教湯温泉、有馬温泉などなど。
そんな行基は668年河内國大鳥郡に生まれ、749年奈良の喜光寺で没した。今日2月2日は、行基の没1268年にあたる。

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by kirakuossan | 2017-02-02 16:05 | ヒストリー | Trackback

3月3日、もう一つの変

2017年1月6日(金)

桜田門外の変は安政7年(1860)3月3日に起きたが、その日は季節外れの大雪が降った。それから8年後の同じ日、慶応4年(1868)3月3日、氷雨が降り注いでいた下諏訪の温泉宿で一人の尊皇攘夷派志士が謀殺された。志士の名は赤報隊隊長相楽総三である。赤報隊とは、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の草莽隊である。

d0170835_19273371.jpg江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の功績とされているが、事実は早計に判断できかねるものであって、西郷の本心はあくまでも江戸城総攻撃の実現にあったが、結果として中止せざるを得ないことになった。しかし、大政奉還が行われることになっても西郷はあくまでも実力行使で倒幕させる機を狙っており、その手を打った。それは江戸城下を混乱させ、それに乗じて幕府を攻撃する口実をかちとり、念願を果たそうとする。その実行特殊部隊として結成されたのが赤報隊である。赤報隊に強盗、辻斬り、放火などの乱暴狼藉を執拗に繰り返させ、江戸の治安悪化を目論んだ。
「赤心を持って国恩に報いる」という精神のもと赤報隊は西郷隆盛や岩倉具視の支援を得て、慶応4年(1868)1月8日に近江国金剛輪寺において結成されることになる。隊長は相楽総三、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立された。
赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得ることとなる。
ここでの「年貢半減」、今風に言えば税金の軽減化であるが、新井喜美夫著「善玉・悪玉、大逆転の幕末史」にこうある。

東征に先立ち、隆盛は相楽を呼び寄せ、「西軍の行く先々にて、幕府より年貢が安くなることを民衆に訴えよ」と、謀略の知恵を授けた。
それにしても、革命を成就させるためには民衆を味方につけねばならない。民衆がもっとも関心を示すのは税金である。
アメリカの独立戦争は、自由な天地を求めて新大陸に移植したアメリカ人たちに、イギリス本国の税収が不足したといって課税しようとしたために起った。こうして、現在のアメリカ合衆国が誕生したのである。
フランス革命もまた同様である。ルーブル宮殿よりも豪華なヴェルサイユ宮殿を建築したため財政が逼迫し、高率の間接税=消費税を民衆に課した。そのために革命が起こり、ブルボン王朝は倒されてしまったのである。


ところが、この動きに新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとし、この事実が判明すれば民衆は収まらないだろうと判断、密かにこれを取消すにあたり、「年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことである」ということにして、赤報隊に偽官軍の烙印を押してしまった。
年貢半減令を掲げ、自らの行動を信じて京都から江戸を目指して進軍する相楽総三は中山道と甲州街道の分岐点である信州下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸と江戸の連絡を遮断することを計画したが、突然の偽官軍扱いとなり、下諏訪宿で捕縛され、処刑される。
赤報隊は旧幕府軍を挑発するために「御用盗」という名のもとに江戸を混乱に陥れるが、明らかな犯罪行為であった。そのこと自体は許されるものではないが、それを目論んだり、指示した歴史上の大人物らはのちに過大評価され、美化され、後世にその名が伝えられる。
前述の新井喜美夫が著書のまえがきでも触れているが、「幕末の志士、維新の元勲たちがいかにレベルの低い人間たちであったかを知り、つねに勝者によって作られる歴史を正しく検証し直していく必要がある」と。

d0170835_2192681.jpg相楽総三(1839~68)、下総相馬郡(現取手市)の大富豪の四男として江戸・赤坂に生まれる。国学と兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱えるが、23歳の時に尊王攘夷活動に身を投じ、西郷隆盛を知る。享年30。
明治3年(1870)、下諏訪に相楽塚が建立され、長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫たちの努力により名誉が回復された。

赤報隊が湖東三山のひとつ金剛輪寺において結成されたこと、また下諏訪の温泉宿など、この知らなかった出来事が急に身近に感じるのである。


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by kirakuossan | 2017-01-06 12:23 | ヒストリー | Trackback