ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

カテゴリ:文芸( 455 )

「落日の宴」 その3 「この人、第一の人にて、眼差しただならず、よほどの者也」

2018年5月6日(日)

d0170835_15132680.jpg川路は、プチャーチンと対しているうちに、自分より二歳下のプチャーチンがロシア皇帝の侍従武官長に任ぜられているだけに、すぐれた識見をそなえた人物であるのを感じるようになっていた。会議の席でも、その主張は鋭く、川路の反論に落着いた表情で耳をかたむけている。来航したアメリカ使節ペリーが、終始武力を背景に脅喝的な態度をとりつづけたのとは異なって、プチャーチンには日本の国法、国情を念頭に冷静に協議をすすめようという姿勢がみえる。
川路は、かれにひそかな敬意と親愛の情をいだき、日記に、「この人、第一の人にて、眼差しただならず、よほどの者也」と記した。
ロシア側も、川路がプチャーチンに「よほどの者」という印象をいだいたのと同じように、川路を高く評価していた。プチャーチンの秘書官ゴンチャロフは、「日本渡航記」に、
「川路は私達はみな気に入っていた。・・・川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、なおこの人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが―すべて良識と、機知と、炯眼と、練達を顕わしていた」と、書きとめている。


プチャーチンは通商問題でもゆさぶりをかける。「もしロシア船が薪や水、食料を絶やして日本の港に入港したらどのような扱いをするのか」これを受けて川路はどこの国の船であろうと無償で提供すると答えた。プチャーチンは有料にして欲しいという要請に、川路は落ち着いた口調で「通商の協定が結ばれる前にそういったことをすれば、とりもなおさず貿易のきっかけを作ったことになる、物事には順序というものがある」
つごう5回の会談を終える頃、その年の年末を迎えていた。


「およその会談も、これにて一応終了し、大慶に存じます。ただし、お名残り惜しくもあり、今一度最後の御面談をいたしたく思いますが、ご都合はいかが」とたずねた。
川路は、「日本暦で歳末をむかえ、正月元日、二日、三日は御面談できかねます」と答え、最後の会議を一月四日と決定した。
さらに川路は、
「中村為弥に持参させます書面は、使節殿の顔を立てるために心をくだいて記したものにいたしますので、一月四日にはめでたく合意に達することを願っております」と口もとをゆるめて言った。
プチャーチンは、
「たとえ四日に合意に達せずとも、このたびは、その日を最後に快くお別れすることを願っています」とおだやかな表情で答えた。
これで会談は終り、プチャーチンは、
「御一同様、めでたく新年をおむかえ下さい」と挨拶し、西役所を去った。

長崎の町々には、歳末のあわただしい動きがみられた。
門松が立てられ、餅つきの音がさかんにきこえ、鏡餅にそえて親戚にくばる男の姿がみられた。木綿合羽に白木棉の脚絆をつけた掛取りの男が、足ばやに家並の中を往き来していた。

吉村昭著小説『落日の宴』より。



つづく・・・



by kirakuossan | 2018-05-06 14:41 | 文芸 | Trackback

「落日の宴」 その2 歴史的会談のはじまり

2018年4月29日(日)

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川路、筒井が長崎に着いたのは1853年12月8日の夕六ツ(午後六時)、江戸を離れてから40日近くを要したことになる。プチャーチンは7月18日に長崎に入港、長崎奉行の大沢安宅に国書を渡したあと、4か月も幕府の全権を待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かう。そして再び長崎に戻って来たのは川路らが長崎に着く3日前の12月5日であった。
旗艦「パルラダ号」をはじめ4隻のロシア船はいずれも多くの砲を装備し、港を圧するもので川路らは威圧される思いを感じた。

ロシア政府の国書に対する幕府の回答書の要旨は以下のようなものであった。


樺太、千島の日露国境を明確にしたいという貴国の要求をうけいれることに決定したので、貴国使節は慎重にわが国の応接掛と協議して欲しいこと。貿易については、長い歳月堅持してきた鎖国政策にもとづいて、これまでわが国は貴国の要請を固辞してきたが、世界情勢のいちじるしい変化を考慮し、鎖国政策に固執せず協議に応ずる用意がある。アメリカ使節ペリーが来航して通商をもとめ、今後、各国がつづいて同じ要求をすることが予想されるが、これを容認するかどうかは、朝廷の意向をうかがい、諸大名の考えもたださねばならず、三年から五年の歳月を必要とする。気長なことと思われるかも知れぬが、貴国におかれてもよろしく幕府の意向を重んじ、疑念などいだかず待って欲しい。貴国は、わが国の隣国であるので、丁重に応接するため特に重臣二名を長崎につかわした次第である。


そしてようやく第1回目の会談が、12月20日に西役所で行なわれることになった。その日は朝から激しい雨が振っていた。プチャーチンは随員を伴って、艦から持ち込んだ椅子に、川路、筒井たちは二枚重ねの畳の上に座った。


プチャーチンは、「御両者の御説明で御回答書の趣旨は、ほぼ諒解いたしましたが、いずれにしましても三、五年を要すとははなはだ常識を欠いております。一、二ヵ月ならお待ちしますが・・・」と不快そうに眉をしかめた。
川路は、かさねて協議は回答書の範囲内にかぎると強調し、筒井も、回答書以外のことについて協議の意志がないことをつたえた。
ついで、北辺の地の国境問題に議論が移った。
プチャーチンは、
「千島は、南は日本、北はわが国で支配いたしております。エトロフ島は、古くからわが国の人民が住んでおりましたが、その後、貴国の人民が移り住むようになっております。現在、日本としては、エトロフ島をいずれの国の所領とお考えか」と、たずねた。
川路は、
「千島はすべてわが国に所属する島でありましたが、徐々に貴国に蚕食され、島名も変えられている」
と前置きし、文化年間に蝦夷地に来航した「ディアナ号」艦長ゴロヴニンが書いた著書「遭厄日本紀事」に、ゴロヴニンと日本側との間でエトロフ島は日本領、その北のウルップ島を日露中立の島とする協約をむすんだことをあげ、
「エトロフ島には日本の番所ももうけられ、もとよりわが国の所領であることはいささかの疑いもありません」と断言した。
これに対してプチャーチンは、
「ゴロヴニンは、わが国の正式の使節ではなく、かれの著書をこのたびの協議の参考にすることは承服しかねる」と、反論した。
双方で激しい主張がくり返され、結局、妥協は見出せず、この問題は次回にあらためて協議することに意見が一致した。
ついで樺太国境画定問題に入った。
プチャーチンは、国境が画定した場合には同島に駐留する露国守備隊をただちに撤兵させる、と提案したが、川路は、国境画定には実地調査をするのが前提であり、それには数年を要すると述べ、この会談で決定するのは不可能である、主張した。プチャーチンもその意見に理解をしめし、あらためて次回に話し合うことになった。

吉村昭著小説『落日の宴』より。



つづく・・・




by kirakuossan | 2018-04-29 07:42 | 文芸 | Trackback

芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。

2018年4月28日(土)

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 芸術論

 つぎに、芸術について一言すれば、芸術は畢竟人工的に美の理想を実現するにあるので、自然美に対すればその進歩は比較的はるかに迅速である。芸術美と自然美とにかかわらずすべて美は主観的のもので、けっして客観的のものではない。しかし美が単に主観的たるにとどまっていては、芸術は成立しない。諸種の材料をかりて美を客観的にあらわすに当って芸術が成立するのであるが、芸術は単に快感の客観化されたものではない。快感を超越した要素がなくてはならぬ。もとより崇高、深遠、幽邃、壮大、雅麗等の諸性質はそなえておらなければならぬが、また超快感的の気韻情調の観るべきものを必要とする。すなわち人を引いて彼岸の理想境に入らしむる底の魅力がなくてはならぬのである。しかし芸術の原理を功利的に見る一派がある、その説によれば芸術はいかにしても功利的に制限されるものである。社会の要求により、経済の状態によって制限されるもので、芸術家もその要求に応ずるような態度に出でて、その要求の向うところに発展をとげる。かようにして芸術は畢竟功利的に制限され、客観的にその性質を規定されるもので、主観的にいかに高尚な理想があっても発展の遂げようがないとみる人があるけれど、それは真の芸術を理解したものではない。単に功利的に制限され、規定されるようなものはけっして崇高の真の芸術ではない。芸術の原理はこれを主観的に求めなければならぬ。芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。

明治哲学界の回顧結論――自分の立場
井上哲次郎

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d0170835_07352809.jpg井上哲次郎(1856~1944)は明治時代の日本の哲学者。欧米哲学を多く日本に紹介し、帝国大学で日本人で初めて、哲学の教授となった。
新体詩運動の先駆者でもあり、外山正一(社会学者)、矢田部良吉(植物学者)と『新体詩抄』を刊行した。



by kirakuossan | 2018-04-28 07:17 | 文芸 | Trackback

「落日の宴」 その1 長崎へ出立

2018年4月21日(土)

勘定奉行川路聖謨(としあきら 1801~68)は豊後国日田の人である。そう、あの小鹿田焼で名高い日田の出身である。
1853年(寛永六年)6月、江戸湾にペリーを使節とした4隻のアメリカ軍艦が入ってきた。さらに7月にはプチャーチンを使節とする4隻のロシア艦隊が長崎入港を迫って来た。プチャーチンは長崎入港のあと、ただちに江戸に出向き老中らとの折衝を希望しているが、もし江戸湾にロシア艦隊まで姿を見せれば人心の動揺ははかり知れず、あくまでもそれを回避すべく老中に準ずる者を長崎に派遣させ、その地でプチャーチンと接触させることに意見が一致した。人選が進められ、10月、西丸留守居筒井政憲、勘定奉行川路聖謨、目付荒尾成充、儒者古賀謹一郎の4名にその命が下る。そして出発は10月晦日と決定した。
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ロシアの国書に対する幕府の回答書は、荒尾がたずさえて先発する予定であったが、清書に手間どって翌日の出発に間に合わず、川路が先行して、清書ができ次第、川路にとどけることになった。
翌朝は晴れで、川路の行列は五ツ(午前八時)に虎ノ門の自邸を出立した。筒井はつづいて四ツ(午前十時)に、荒尾は八ツ(午後二時)に出発の予定で、それは道中、宿場での宿泊や人馬の調達に支障をきたさぬよう少なくとも一日の間隔をおいて旅をする配慮によるものであった。
途中まで親族、友人その他出入りの町人ら多くの者の見送りをうけて行列はすすみ、戸田の渡しで荒川をこえ、蕨宿で昼食をとり、大宮宿で止宿した。
翌日も晴れで、行列が宿場をはなれると、川路は駕籠をとめさせており、歩き出した。五十三歳とは思えぬ軽い足取りであった。
かれは通常、足腰をきたえることに異常なほどの熱意をいだいていた。夜明け前に起きて居合抜、大刀の素ぶりをつづけた後、甲冑を身につけ大刀をさして走るようなはやさで歩くことを日課としていた。旅で一日三十里歩くという間宮林蔵の健脚に感嘆し、夏期に間宮が裸足で歩くのを習いとしているのは足の裏が柔らかになるのをふせぐためだときき、かれは毎朝の歩行も裸足にした。そのような鍛錬をしてきたかれは、駕籠の中でゆられているより歩く方が気分が爽快だったのだ。
上尾、桶川、鴻巣の各宿場も徒歩ですぎ、その日の泊りである熊谷宿に入る時に、勘定奉行の威厳をたもつため駕籠に乗っただけであった。
寒気はきびしく、往来の打水は凍っていた。家来に持たせていた寒暖昇降器は、華氏四十度をしめしていた。


そんな川路であったから、ほとんど徒歩で中山道を進んだ。幕吏としては常に倹約、生活を質素を極め、衣服は綿を身につけ、食事は一汁一葉。ただ酒は好んで飲んだが、旅をするときは禁酒を守り通した。
やがて本庄、松井田、そして望月を経て、和田峠では大吹雪に見舞われ、華氏32度を計測した。(摂氏0度)

吉村昭著小説『落日の宴』の始まりである。



つづく・・・




by kirakuossan | 2018-04-21 21:31 | 文芸 | Trackback

もっとも心動かされる人物、川路聖謨

2018年4月7日(土)

作家吉村昭が「これまで書いた主人公の中で、もっとも心動かされる人物」と評した川路聖謨。昨秋神田の古書街で見つけ、帯に書かれたこの言葉に心動かされて買ったものだ。買ったものの読む機会がなく書棚で半年眠っていたが、何を思ったか、急に思い出して読みたくなり引っ張り出してきた。ところが偶然とはホントおそろしいもので、なんと今日4月7日が川路聖謨の150回目の命日にあたるではないか。
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「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」400ページを越える大作だが、今夜から読み始めよう。吉村昭の作品は「戦艦武蔵」「桜田門外ノ変」以来、1年半ぶりだ。



by kirakuossan | 2018-04-07 20:39 | 文芸 | Trackback

ふるさとの訛り

2018年4月3日(火)

ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく   啄木

石川啄木の歌で、「はたらけどはたらけどなほ・・・」や「東海の小島のいその白砂に・・・」はあまりにも有名だが、この歌は知らなかったが、惹きつける。


ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし   修司

”昭和の啄木”の異名をとった寺山修司のこの歌もよい。

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おそらく寺山修司が、啄木を意識して詠ったのか、最初の五七の流れはよく似る。でもまるきり違う歌になっているところが興味深いし、寺山修司という歌人で劇作家でもあった彼の非凡さがうかがわれる。
啄木は岩手県の日戸村、修司は青森弘前の生れである。




by kirakuossan | 2018-04-03 13:02 | 文芸 | Trackback

春暁

2018年3月26日(月)


d0170835_08090116.jpg春暁

春 眠 不 覚 暁
処 処 聞 啼 鳥
夜 来 風 雨 声
花 落 知 多 少

春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少

孟浩然




最近、魯迅の短編小説を知って、少なからず感動している。読み終えるとなぜか心にのこる。それは錯覚だろうが、昔自分もどこかで見たような、体験したような、そんな風景が呼びおこされる。
志賀直哉もきらいな方ではないが、彼の短編小説を読み終えて感動は呼びおこすことはない。意地悪にいえば、「それがどうした?」といった一種醒めた気持ちになるが、しかし魯迅は違う。「藤野先生」にはじまり、「故郷」にしたって、「家鴨の喜劇」「小さな事件」「髪の話」、それぞれにささやかな感動を覚えさせてくれる。
どうしてだろう?
それは結末に余韻を残すか、残さないかの違いだろう。



by kirakuossan | 2018-03-26 07:52 | 文芸 | Trackback

午后は中京、明石 あつくてまゐる、十八回まで見て退却

2018年3月22日(木)

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志賀直哉が「菰野」を出版した前年の1933年に湯の山温泉を訪れているが、その年1933年「日記」を読んでいる。春に扁桃腺炎を患い、苦しんでいる。直哉50歳の時である。
この人、賭け事がたいへん好きだったようで、暇を見つけては賭け事の話が出てくる。その遊び相手として必ず若山という男性が登場する。若山 為三という日本画家で志賀直哉の挿絵なども書いた人物のようで、とにかくこの人物とは四六時中一緒にいたようだ。遊びが過ぎて体調を崩したのか、こんな日記がある。



三月二十五日 土
昨日より少し楽になる、午后岡田医師来てくれる。夜は起きてやしょく七度五分程、明け方三時まで眠れず。
(MEMO 勝負事、殊に花合はせ麻雀を少しつつしまう 自分がバクチ打ちならいい、然しバクチ打ちでないのにやるにしては時間と体力を少し使ひすぎる。
五枚半の原稿十三日かかる、一日十行200字の割り、何もしなかったよりは大にまし)


ここではしおらしく思えたが、体調が戻るや、また懲りずに麻雀、花合わせだけでなく、さらには将棋、玉突き、と際限がない。
一方で、こんな日記が載っている。



八月六日 日
加納、若山来る、新公園に紀和大会のbaseballを見る、郡山中学と海南中学、6対3にて郡山勝つ、愉快な試合だった
夜加納、訪問。若山来て麻雀。

志賀直哉は1929年から9年間奈良に住んだが、この年、ちょうど中学野球夏の大会の紀和大会の決勝戦を観戦している。和歌山の海南中学(現・海南高校)は1933年の春の第10回選抜大会に初出場、そして同年の夏の第19回全国中等学校野球大会には奈良の郡山中学(現郡山高校)が海南中学を負かして初出場している。郡山中学はこの大会で2回戦で秋田中学に7-5で勝利、続く準々決勝で京都の平安中学と対戦して1-9で完敗という記録が残っている。
地元の郡山は敗れはしたが、彼はこの夏、甲子園球場まで足を運んでいる。そしてあの語り草になっている世紀の熱戦を偶然にも観戦していた。その日の日記にこうある。



八月十九日 土
直吉を連れて甲子園 松山と平安、午后は中京、明石 あつくてまゐる、十八回まで見て退却、大阪で多幸平で食事中まだやってゐる 二十五回目に中京勝つ 1A-0 

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準決勝での中京商対明石中の対戦は歴史に残る一戦となった。延長25回による決着は、県予選、春・夏の大会を通じて高校野球史上最長記録で、1958年の第40回大会から「延長18回引き分け再試合規定」(現在は15回)のルールが制定されたため、この試合が不滅の記録となっている。試合時間は4時間55分であった。
そして中京商は翌20日の決勝戦で平安中を2-1で破り3年連続3回目の優勝をはたしている。

その高校野球も今年の選抜大会からタイブレーク制を導入、12回まで決着がつかない場合、延長13回は無死一、二塁から開始し、試合の決着がつくまで繰り返すこととなった。本来の野球の観点からみれば、どうもタイブレークというのは邪道のように思えてならないのだが・・・



by kirakuossan | 2018-03-22 00:06 | 文芸 | Trackback

無知蒙昧

2018年3月21日(水)
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志賀直哉の短編小説「菰野」を読みたくて図書館までいき、同時に、彼の全集からこの作品を書いた1933年の日記が掲載されている巻も借りてきた。その「日記」の表紙を開けるといきなり全集の解説文の月報が直哉の自画像のしおりと一緒にホッチキス止めになっていて、フランス文学者として著名な粟津則雄氏の解説文がでてきた。なにげに読み出してみると、ことのほか面白い文章に出くわした。学生時代の時、小林秀雄との語らいだが、あまりに面白いのでほぼ全文を掲載したい。




志賀直哉の「宿命」
粟津則雄

戦後まだ間もない昭和二十二年の初夏のことだった。当時私は、京都の旧制三高の生徒だったのだが、学校の創立記念日のための講演をお願いした小林秀雄氏を囲んで、講演のあと、七、八人の友人といっしょに、酒を酌みながらあれこれお話をうかがった。その夜の小林さんから聞いた話はいずれも実に面白く、以後半世紀をこえた現在においてもなおはっきりと記憶に刻まれているのだが、志賀直哉についての評価は、なかでもとりわけ印象的だったもののひとつである。
われわれが発するさまざまな質問に、小林さんは、いささかもあいまいにお茶を濁すことなく、まことに率直に、また正直に答えてくれたのだが、そのあと、たまたま私が「小林さん、志賀直哉をどう思いますか」とたずねた。すると小林さんは「志賀さんかい」と言い、ちょっとうつむいて、右手の指先に髪の毛をくるくる巻きつけながらしばらく何か考えていたが、次いで「志賀さんはね、あの人は無知蒙昧なんだよ」と、噛んで吐き出すような口調で答えたものだ。
この小林さんのことばに、私は本当に驚いた。私が志賀直哉について質問したのは、もちろん、彼がおさない頃から愛読してきた作家のひとりだったからだが、ただそれだけのことで漫然と質問したわけではない。そういう存在であったにもかかわらず、彼が戦後発表した「灰色の月」や「蝕まれた友情」といった小説は、いかにも志賀直哉らしい思いはしたものの、作品として一向に面白いものとは思われなかったからである。志賀直哉も年をとって衰えたと言ってしまえばそれまでだが、そう言って片付けられぬところもそこにはあって、それがいつまでも妙に気にかかっていたからである。
そういうことがあったから、この質問がおのずから口をついて出たのだが、もちろん相手が誰でもよかったわけではない。小林さんにこの質問をぶつけたのは、小林秀雄のいくつかの志賀直哉論によって、志賀直哉は、単に好きな作家のひとりであるといった次元をこえて、現在の自分の文学観の根幹に位置する存在と化していたからである。小林さんが通りいっぺんのオマージュを口にするはずはあるまい、全身的な敬愛につらぬかれたこれまでの志賀論を踏まえた現在の新しい志賀直哉論を聞くことが出来るだろう、それに対して志賀直哉の近作についての私の不満や疑問を話してみよう。たぶん私はそんなことを考えていたのだが、それだけに「あの人は無知蒙昧なんだよ」ということばは驚くほかはないものだったのである。
私はどんなふうに応じたらいいかわからなかった。ただ唖然としているほかなかったのだが、小林さんの話はそれだけで終ったわけではない。話はこんなふうに続いた。
「藤村だって、白鳥さんだって、花袋だって英語はペラペラなんだよ。だから彼らは、フローベルだろうが誰だろうが、みな英訳で読んでいた。そんなふうにして、自分たちのものとは異なる外国の文学とのあいだにあるドラマを作りあげることで、彼らの文学が内側から刺激され、その想像力がもっと広い場所に引き出されるんだよ。ところが、志賀さんは何も出来ないんだな。だからあの人は、ただその天賦の才能だけでやって来た。その才能が本当にすごかったから今までもったんだけど、いつまでもそういうわけにはゆかないよ。だから今、志賀さんの仕事に非常に辛いところに来てるんだよ」<略>
志賀直哉の「無知蒙昧」は、彼の強力な個性そのものと結びついていたのであり、そういう意味で、それは、小林さん流に言えば彼の「宿命」であったとさえ言えるだろう。志賀直哉ほどの作家が、こういう場所にまで追いつめられることには、単に志賀直哉だけに留まらず、わが国の近代小説がはらむ「宿命」も影を落としているようだ。小林さんのことばが、私のなかで、刻々にその苦さを増すように思われるのも、おそらくそのためなのである。


文章との出会いは実に不思議である。
今度、湯の山温泉に出かけようと思わなかったら、志賀直哉の「菰野」という小説を読もうと思わなかったら、図書館へ行って、わざわざ志賀直哉の1933年の「日記」の巻を借りてこなければ、表紙を開いて、すぐさまそこにしおりと一緒に解説文がとじ込まれていなかったなら・・・そんないろいろな偶然が重なって、思いもしなかった面白い文章に出会えるのである。
それにしても、小林さん、はっきり言いますなあ、

粟津則雄(1927~)
文芸評論家でフランス文学者、美術評論家、詩人でもある。小林秀雄とアルチュール・ランボーに影響を受け、正岡子規にも関心が深い。クラシック音楽にも造詣が深く、以前に音楽評も読んだことがあるが面白い。

この志賀直哉全集の第14巻(「日記」四)は、2000年3月に岩波書店から発刊されたものである。



by kirakuossan | 2018-03-21 15:22 | 文芸 | Trackback

不思議な短編小説

2018年3月18日(日)

中国は弱国である。それゆえ中国人は当然低能児である。点数が六十点以上あるのは本人の能力ではない。彼らがそう疑ったのも無理はない。だが、わたしはつづいて中国人が銃殺されるのを参観する運命にでくわしたのである。~
この歓声は、一枚を見るごとにいつもあがったが、わたしにとっては、その声はとくに耳を刺すようにきこえた。その後、中国に帰ってきてからも、わたしは銃殺される罪人をのどかに見物している人たちを見たが、彼らはまたどうしてか酒に酔ったように喝采するのである。――ああ、もはや何をか思うべき。だが、そのときその場で、わたしの考えは変わってしまったのだった。
第二学年のおわりになると、わたしは藤野先生を訪ねていって、医学の勉強をやめ、そしてこの仙台を去りたいと思っていることを告げた。彼の顔には悲しみの色が浮んだようであった。何かいいたそうであったが、ついに何もいわなかった。~
出発する数日前、彼はわたしを自分の家に呼んで、一枚の写真をくれた。裏には「惜別」という二字が書いてあった。そしてわたしにも写真をくれるようにといった。だがわたしはそのときたまたま写真をとっていなかった。彼はあとで写したら送ってくれるように、また、ときどき手紙でその後の情況を知らせてくれるようにと、何度もいった。


「資治通鑑」に興味を持ち、1か月ぶりに図書館へ行くと、なぜか魯迅に関する書物が多く陳列されていた。中から、表紙に「阿Q正伝」「藤野先生」と大きな字で書かれた文庫本も一緒に借りてきた。
夜、寝る前に、短篇の「藤野先生」を読んでみた。ちょうど文庫本で10ページほどの、ごく短い小説だが、読み終え、妙な心もちになる。なんだろう? たったこれだけの、しかも他愛無い内容のものだが、不思議と心に残る。日本や中国では教科書になって読まれているという。


一通の手紙も一枚の写真も送らずじまいである。彼のほうから見るならば、一別以来杳として消息なしである。
だが、なぜか知らないが、わたしはいまでもときどき彼のことを思い出す。わたしがわたしの師であると思いをきめている人の中で、彼はもっともわたしを感激させ、わたしを励ましてくれた一人なのである。おりにふれてわたしはいつもこう考える。彼のわたしに対する熱心な希望、倦むことのない教えは、小にしていえば、中国のためであり、中国に新しい医学がおこることを希望してである。大にしていえば、学術のためであり、新しい医学が中国へ伝わることを希望してである。彼の人格は、わたしの眼の中と心の中において偉大である。彼の姓名は多くの人々の知るところではないかもしれないが。~
彼の写真だけはいまもなおわたしの北京の寓居の東側の壁に、机に向かって掛けてある。夜、仕事に倦み疲れて、なまけごころがおこってくると、いつも、顔を上げて、灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、いまにも抑揚のひどい口調で話しだしそうな顔を眺めると、わたしにはたちまち良心がおこり、勇気が加えられるのである。そこで煙草に火をつけ、ふたたび「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。
(一九二六年十月十二日)



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藤野厳九郎先生と青年・魯迅はわずか7歳ちがいである。
魯迅(1881~1936)
中国の近代文学史にひときわ高く聳える存在であり、革命家でもあった。



by kirakuossan | 2018-03-18 07:14 | 文芸 | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


by kirakuossan

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