信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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カテゴリ:文芸( 475 )

2018年12月5日(水)

木曾神坂村萬福寺の松雲和尚が廻國の旅を思ひ立って来て、長崎の港に出たのは明治二十九年である。かねて用意して来た廻國帳には神坂村字馬籠にある寺の前住職なることをことわってあり、宗旨は臨済宗、本山は京都妙心寺として身元を明かしたものを所持して来てゐる。その帳簿のはじめにも記してあるやうに、行く先に辿り着いた寺院なり在家有志の許なりで晝は中食、夜は一宿を願って見ることにし、それの叶はないところでは木賃宿にも泊って、そんな風にしてこの廻國の旅を続けて来た。~
松雲和尚がこの旅に来た頃は最早七十の歳を迎へてゐた。尤も、その年齢になってこんな諸国神社仏閣の参拝を思ひ立って来るまでに、和尚には長い支度があり、前の年にはすでに遍歴を始めてゐて、その一部の廻國をすますまでに、あるひは徒歩、あるひは汽車、あるひは人力車や船で、それに逗留したところどころの日数を入れると都合二百十三日程を費やした。

70歳を越えた木曾神坂村の前住職、まさしく藤村自身を投影しているものと考えられるが、そんな松雲和尚は九州長崎まで足をのばし、長崎では大喜庵の方丈をはじめ寺の人々の好意により数日滞在することになる。長崎に来るまでに、京都、近江路、大和路、紀州路から四国へかけて旅を済ませたとあり、そして長崎より熊本、鹿児島へと廻り、それを終えると、もう一度東京の空を望み得るなら、諸国神社仏閣参拝の思い立ちも目的の半ばを果たすこととなる。
そして、前回にも世話になった東京芝口の旅館両國屋の亭主多吉に上京通知の便りを出す。


前年の冬に起った馬籠の大火の委しい消息を多吉の許へもたらして来たのも、この松雲である。馬籠は恵那山麓の風当りの強い位置にあるところから、往時の宿場時代にもしばしば火災に苦しめられた話は古老の口に残ってゐる。そんな土地柄で火を失してはたまらない。それ火事だと言ひ騒ぐ頃には、火の手はすでに町の中央に揚り、見る見る上町の方へ延焼して、目貫きの場所にあった舊本陣をはじめ、伏見屋、梅屋、問屋、枡田屋、蓬莱屋なぞの居宅は残らず焼失した。~
「して見ると、火元はやはり宿屋でしたか。ですから、宿屋家業をするものには火が一番怖い。和尚さまの前ですが、わたしなぞは毎晩夜中に起きまして、自分で家中を一廻りしないうちは、よく眠れません」
と多吉は今更のやうに言ふ。
兎にも角にも、馬籠峠の上のやうなところに古驛の俤をとどめて、東西交通の要路に当ってゐた宿場の跡も、この大火のために形を変えるやうになって行った。維新前まで親代々からの家柄として脇本陣、年寄役、問屋なぞの宿役人を勤め、村でも旦那衆として立てられた舊家の人達の没落は最早掩ひ隠すべくもない。今後の郷里に来るものは、全く山の上の農村時代であるであらう。それにしても松雲と多吉との二人は言ひ合わせたやうに、あの十八代と続いて大家族の住んだといふ舊本陣青山家の屋敷跡がこの火災で罹ったのは惜しいといふ話に落ちて行った。~


「東方の門」の第三章五にいたり、

日清戦役が来た。この戦役が来て見ると、維新以来の明治の舞臺も漸く一転しかけて来た。明治初年にあれほどの全盛を誇った平田一門の人達にしても、その後各自の生涯に特別な時代を迎へながら、あるひは不幸にも学業半ばにして挫折し、あるひはすでに追々とこの世を去ってゐた。過ぐる二十余年の間、人間精神の動揺もはなはだしく、まだまだ暗いところにあったこの國のもののたましひは、しきりに物を探しはじめた。一時は目立たないところに潜んでゐたまことの武士の道といふものがもう一度見直さるるやうな日を迎へたのもこの戦後であった。會ては法然起り、親鸞起り、道元起り、日蓮もまた起った時代のことがもう一度振り返って見らるるやうに成ったのもこの戦後だ。いかに日本が歴史的な転回を持たねばならなかったほどの容易ならぬ時機を通過したとは言へ、時代のものの性格を形造った腰骨の強さはまた各方面に顧はるる気運に向って来た。
松雲が東京に来て聞きつけたのも、この時代の跫音である。和尚が耳にした狭い範囲だけでも、
(昭和一八年八月二一日午前九時擱筆)

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島崎藤村が、第二次大戦後に書こうとしていたことを、急遽、戦中の18年に書き始めたのは、巻頭の「東方の門を出すに就いて」でも自らが語るように、「いささか自分でも感ずるところあって、かく戦時の空気の中でこの稿を起すことにした」で告白しているが、それは、どんな結果になるにしろ、古来からの日本の素晴らしさを愛し、どこまでも日本人特有の腰骨の強さを忘れぬことをあえて言いたかったのではないだろうか、それとも、自らの生の終着が近づいているのをうすうす感じとっていたのかも知れない。

松雲が東京に来て聞きつけたのも、この時代の跫音である。和尚が耳にした狭い範囲だけでも、

と、書き終えたところで、
「涼しい風だね...涼しい風だね...」と二言つぶやき、大磯の書斎で深い眠りについた。
未完・「東方の門」




by kirakuossan | 2018-12-05 13:47 | 文芸 | Trackback
2018年12月5日(水)
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島崎藤村の「東方の門」は歴史小説であり、時には政治小説や経済小説の様相を呈する。その意味では、小説と呼ぶより随筆に近いものがる。多吉が使いに来た菖蔵を相手に自分の胸の中にたずさえていることを語ってみせる、これなどは藤村自身の考えるこれからの新しい産業人の在り方などをありのまま多吉を通して代弁させたものだろう。また第二章の終りに、「東洋人の意」を述べる箇所があるが、これなどはまさに藤村の本心そのものである。





日清戦役後は、東洋の事情も一層その複雑な関係を増した。従来吾國は支那とは無条約の國であったが、明治四年始めて同國と修好条約ならびに通商章程を締結した。それまでの支那人は内外人に労務を提供する苦力のみであったといふ。条約締結以来、通商貿易もにはかに盛んになり、各種の職業を持つものも渡来して、明治十年には清國理事府の設立を横濱に見、最初の領事范陽明の着任を見るほどになった。日清戦役前には横濱南京町に三千人の居留者を敷へたとのことである。それらの居留者は上海や南京の出身者を主にして、南支那沿岸地方のものが多く、概して商業に専らな人達であった。人も知るごとく、多くの支那人は通商貿易の民で、この國に居留するとは言ひながら、この國を知らうとする念慮もすくなかったもののやうである。
何と言っても吾國はまだまだ発展の途上にあった。その間には過渡期の現象もすくなくはなかったから、たまたまこの國を知らうとする隣國人があっても、まことの日本の姿の捉へがたさに苦しむといふ点もあったであらう。~

しかし、ここに見逃せないことは、こんな一大革新を喚び起こした古代復帰の熱い東洋人の意(こころ)は、ひとりこの國にのみ興ったとは限らないことである。
伝へ聞く、印度はさう不甲斐ない國民のみの住むところではない。英國政府が政治上、印度人をして外國人の支配下に立つとの観念を生ぜざらしめんがためには種々な方便をめぐらしたとも言はるるが、世界に古い文明國を祖先の地とする印度人の中には気概のあるものも起って國民の覚醒を促しはじめたのは、十九世紀の中頃よりであるといふ。いかにせば彼等の支配者をしてかく強力ならしめた原動力に対抗し得べきやとは、それら印度人士の念頭を離れないことであって、西の欧羅巴よりする科学的文明なるものは日夜彼等が研究の対象となった時代もあったとか。そのさかんな反抗は印度にも興った。古代印度に帰れとの聲がそれであった。
けれども、印度には古代と近代があって、その間を繋ぐものには、どうも缺けてゐたかのやうに見える。支那大陸方面はどうであったらう。あのマルコ・ポウロのゐたといふ元朝宮廷の空気は果して何を語るものだらう。早い元朝の歴史はまったく支那の伝統を切断してしまったかに見える。明朝より清朝と降って来るにつれ、その間には鋭意叡明で聞えた君主があって、古代支那の長い文化の積み重ねを回復しようとするやうなことがあっても、元朝以来破壊された伝統をどうすることも出来なかったのではあるまいか。國情こそ異なれ、古代と近代とを繋ぐものに缺けてゐたことにかけては、支那も印度と同様であったかのやうに見える。
ここにわが國の違ふところがある。あの日本海の海岸に連なり続く高い岩壁を望み見たほどのものは、大陸に面して立つ一大城郭に似てゐることに気づくであらう。五ヶ月もの長さに互る冬季の日本海の活動から、その深い風雲と荒れ狂ふ怒涛とから、この島國を護る位置にあるのも、あの海岸の岩壁である。そこには到るところに湧き出づる温泉があり、金、銀、銅、鐡、石炭、その他の鉱物を産する無尽蔵の宝庫もある。ラフカヂオ・ハーンのやうな人をして「これより麗しい洞窟は世界中殆んど想像し得ない」と言はしめたほど、空気の如く明澄な海水を内に堪へ、また幾多の古い伝説が生れて来てゐる数限りないやうな洞窟によって飾られてゐるのもその海岸である。
この腰骨の強さこそ、北支那からも南支那からも大陸的なものを受けとめることの出来た祖先の姿であらう。西洋よりする組織的で異質な文明の開発と破壊とに対するこのと出来たのも、またこの腰骨の力と言ふことが出来よう。~


ここにあるのが、藤村から見た、まさしく「東方の門」なのか。
(一部好ましくない表現もあるが、藤村の原文のまま載せた)


つづく・・・





by kirakuossan | 2018-12-05 08:19 | 文芸 | Trackback
2018年12月4日(火)

Kao(花王)のHPの中で石鹸の始まりとして紹介されている。
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花王石鹸は、1890年(明治23)に生まれました。この頃の石鹸は、高価な贅沢品であった舶来物か、廉価で手に入りやすいが品質の劣る国産のどちらかしかありませんでした。この状況をなんとか変えたいとの使命に燃えたのが、当時東京・馬喰町で洋小間物商を開業したばかりの長瀬富郎でした。友人の職人や研究者らと力を合わせ、また自らも調合技術を学んで半年にわたる試行錯誤の結果、ついに完成。ひとつひとつ、ろう紙で包んだ上に能書と証明書を巻き、桐の箱に収めるという、中身も包装も高品質を追求した純国産石鹸が誕生したのです。





島崎藤村
の小説「東方の門」のなかに、木曽出身で東京芝口で旅館両國屋を営む多吉が木曽福島から上京してきた使いの植松菖蔵という若者に語るなかで出てくる。東美濃の出で、同じように東京に出て来て事業を始めた千十郎という人物が紹介される。彼こそがここにある花王の創業者長瀬富郎であろう。


千十郎はまだ若い頃に東京をめざして来て、日本橋馬喰町に指折りの商人宿で先ず草鞋をぬいだ人である。やがて、ある人の世話で吉田商店といふ洋小間物問屋の店に雇はれ、「千どん、千どん」と呼ばれて働くうち、この人と思ったら裸になっても盡すと言ったやうな気象は大いに主人の気に叶ひ、追々と取り立てられ、後にはすっかり帳場を任されて、店の鍵まで預かるほどの番頭の位置に進んだ。両國屋の主人が千十郎を知ったのは矢張馬喰町時代であるが、この年も若く気も鋭い番頭が商品見本を入れた大きな風呂敷包を背負ひながら、両國屋に止宿する美濃衆の客のところへも注文取りの宿屋廻りに来た角帯前垂掛の姿を未だによく覚えてゐる。~時に千十郎漸く二十四歳、翌明治二十年の六月には独立して馬喰町二丁目の板新道にささやかな暖簾をかけ巣山洋品店を開いた。~


洋品店での仕事の傍ら、いちはやく千十郎は石鹸に目をつけ、つくづく和製品の無力を痛感し、舶来品に対抗しうる石鹸づくりを目指す。そして明治23年4月、上野公園で開催された第三回内國博覧會の石鹸出品物を見て、一層千十郎は自家創業の決心を堅めることになる。


多吉は、まるで贔屓役者の噂でもするやうに、これからの實業は千十郎のやうな行き方でなければなるまいとの意味を相手の菖蔵に伝へようとした。その千十郎とは、どことなく武骨な美濃人で、すこし若いさかりに売り出すと茶屋酒の味を覚える旦那衆のやうな風はなく、質素で手堅い仕方の中にも闊達な動きを懐にしてゐる新しい産業人であるといふ。その人は、静岡の方へ船便で送るべき自分の店の荷物があって、それを積んだ船の清水港へ着く前に難船したと聞けば、無論先方注文主の損失となるのが普通の場合であるのに、そこが千十郎らしいところで、先方に損をかけない。早速それだけの新しい荷物を送ってやる。そして先に出した送り荷には保険がつけてあるから当方の損にならない、受け取って呉れ、と挨拶してやる。ただ算盤ばかり弾くことを知って、得意先を大切にも思はず、この世に奉仕する篤い心掛けのないものに、さういふ遣り方は出来ないと菖蔵に語り聞かせた。当時荷物に保険をつけるやうな本舗はどこにもなかった頃のことだとも語り聞かせた。

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藤村は多作家ではなかった。たしかに若くして詩を書き、1906年、34歳にしてようやく小説「破戒」を世に出した。そのあと続けて「春」(1908年)、「家」(1911年)、そして1912年には「千曲川のスケッチ」を書いたが、それから7年後の1919年「新生」を出した頃にはすでに47歳になっていた。そのあと10年の長きにわたるブランクがあったのちから連載を書き出し、還暦を迎えた頃に大作「夜明け前が」生れる。そしてまた長い沈黙の時期を経て、戦中の1943年から「東方の門」の執筆にとりかかる。
「東方の門」を中央公論に連載するにあたり、藤村は冒頭でこう述懐している。


久しい無沙汰の後で、今回一作を本誌に寄せることになった。わたしはそれを読者諸君に告げ、また先年前作を本誌上に連載した時と同じやうに今回もこれを年四回に分け、来春正月の新年號より載せはじめて、四月、七月、十月の順に連載の予定であると、あらかじめそのことを含んで置いて貰へば、それでも足りるので、何もここに前置きするつもりはない。長いことわたしも黙し勝ちに日を送って来たから、さだめし読者諸君の中にはめづらしく思って呉れる方もあらう。作者としてのわたしは、日頃の自分の願ひとしても、成るべくやさしい言葉でこれを綴るであらうと言へるのみで、これが小説と言へるかどうか、それすら分らない。すべては試みである。ともかくも書いて出て見る。實はこの作、戦後にと思って、その心支度をしながら明日を待つつもりであったが、かねて本誌編集者に約したことも果たしたく、いささか自分でも感ずるところあって、かく戦時の空気の中でこの稿を起すことにした。



「東方の門」は、序の章、第一章、第二章、第三章と4部に分かれているが、江戸末期の長崎を舞台にして読み物は始まり、シイボルトが登場し、次に平田篤胤や、本居宣長に触れ、幕末の日本の状況を振り返る。このあたりはまるで歴史小説か、実録といった趣きで藤村自身が語るように小説とは言えないだろう。そして第一章で木曾神坂村萬福寺の松雲和尚が登場し、さらに第二章では両國屋主人の多吉が、千十郎について語る場面となる。



つづく・・・




by kirakuossan | 2018-12-04 19:09 | 文芸 | Trackback

またとない日々

2018年11月29日(木)


パステルナークの詩集からもうひとつ、
生涯、最後の詩。

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またとない日々


どれほど多くの冬を経たことか
けれども冬至の日は忘れない
冬至の日は一度きり さうして
数へきれず繰り返されて来た

その冬至の日の順序は
しだいにしだいに並びー
またとないその日々は
時が止ったと感じられたではないか

わたしはその日をすべて記憶てゐる
冬が半ばに近づくと
雪道は水に濡れ 屋根からしづくが流れ落ち
太陽は氷塊の表面で熱する

愛するものたちは 夢うつつに
互ひに せはしなく求め合ひ
木立の高みに
椋鳥の巣箱が汗ばんでゐる

時計の針は うつらうつら
文字盤を回るのさへ気怠く
果てしなく永い一日がつづき
抱擁は 終はらない

1959

パステルナーク詩集「晴れようとき」より

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彼が少年時代に作曲したピアノ曲が残っている。 1906

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ボリス・パステルナーク:
前奏曲 嬰ト短調
Prelude in G-Sharp Minor
ロジャー・ウッドワード - Roger Woodward (ピアノ)

by kirakuossan | 2018-11-29 23:12 | 文芸 | Trackback

パステルナークの詩

2018年11月29日(木)

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「すべてにおいて・・・」


すべてにおいてわたしは至りつきたい
核心そのものまで
仕事や 道の探求
心の擾(みだ)れにおいて

流れ去った日々の本質まで
それら原因まで
基底まで 根まで
芯まで

絶えずもろもろの運命の
出来事の糸を掴まえながら

生き 考え 感じ 愛し
発見を成就したい

おお もし幾ぶんでも
せめて出来ることなら
わたしは情熱の特性について
八行に詩句に書きしるしたい

違犯や罪について
脱走 追跡
大あわての思いがけない失態
あの肘 あの手のひらについて

わたしは情熱の法則
情熱の根源を演繹し
その名のイニシアルを
繰り返したい

わたしは庭のように詩をこしらえたい
そのとき詩の中で
菩提樹は葉脈までもふるわせ
うなじを揃えて花咲くだろう

薔薇の息遣い はっかの呼吸
牧草地 すげ 草刈り
遠い雷鳴のとどろきを
わたしは詩の中にもたらしたい

かつてショパンはそのように
荘園 庭園 木立 墓地の
甦る奇跡を
練習曲に封じこめた

至りついた歓喜の
戯れと苦しみはー
弓の
ぴんと張りつめた弦なのだ

1956

パステルナーク詩集「晴れようとき」より





d0170835_15583615.jpgボリス・レオニードヴィチ・パステルナーク(Борис Леонидович Пастернак, 1890~1960)は、ロシア(ソ連)の詩人で小説家。1957年、体制批判のためにソビエト連邦での公刊を拒否され、イタリアで出版された「ドクトル・ジバゴ」は代表作。
翌年ノーベル文学賞を授賞するが、ソ連当局の圧力により辞退を余儀なくされた。



by kirakuossan | 2018-11-29 14:18 | 文芸 | Trackback

深まりゆく秋の残影

2018年11月27日(火)

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深まりゆく秋の残影。
なぜか好きな場所、バス停の桜の木の下で。

今朝の「モーサテ」の《リーダーの栞》の中で紹介されていた、小説「ドクトル・ジヴァゴ」を著したボリス・パステルナークの詩集に魅かれた。
ぜひ読んでみようと思う。



by kirakuossan | 2018-11-27 08:07 | 文芸 | Trackback

桜の実の熟する時

2018年11月8日(木)

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桜の実の熟する時

思わず彼は拾い上げた桜の実を嗅いでみて、おとぎ話の情調を味わった。それを若い日の幸福のしるしというふうに想像してみた。

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島崎藤村最後の作品で未完の「東方の門」が読みたくて、図書館で借りて来た。そのついでに表題に魅かれてもう一冊借りて来た。
まず読みかけの「春」を早く済ませなくてはいけないし・・・しばらくは読書で忙しくなりそうだ。
図書館への道は、桜ならぬ、今が見ごろの見事な紅葉でした。


by kirakuossan | 2018-11-08 20:09 | 文芸 | Trackback
2018年11月4日(日)

琵琶湖に近い茶丈の生活はまだ岸本の眼にあった。彼が西京から湖水の畔へ引返して、それから斯の吉原へやって来る迄、二月半ばかりの間は茶丈を一間借りて居た。其頃は自炊だ。終には小炉を煽ぐのも面倒臭くなって、三度三度煮豆で飯を喰ったこともあった。亭主といふは大工が本職で、傍寺へ納める花を作ったし、内儀は内職に蛍の籠を張る。子息は大津の下駄屋へ奉公して居る。斯様な人達と岸本はしばらく同じ屋根の下に暮した。そのうちに、蛙が鳴き出す、蛍が飛んで来る、蚊に責められるのが苦いから彼は自分で紙帳を張って、裾へは古銭を飯粒で貼付けて、渋団扇でパタパタ風を入れては其内へ入って寝た。「ソラ、また始まった。」と家の人達が聞きつけてクスクス笑ったものであった。内儀はよく時の惣菜などを皿に盛って持って来て呉れた。ある晩、亭主が大津の方へ行った留守に、紙帳の外で、「岸本さん、岸本さん、」と呼ぶ声がする。岸本は黙って震へて居たが、それから急に可恐しくなって、丁度友達から為替が来たのを幸、逃げるやうにして江州の宿を発ったのである。尤も是事だけは三人の前で話さなかった。
「憐む可き巡礼だ。」
と青木は心に繰返して居た。
島崎藤村「春」より



ひょんなことから藤村の「春」を読んでいる。
藤村は明治学院卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。同時に北村透谷や星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として詩や随筆を発表するようになる。一方で、教え子(佐藤輔子)との恋に落ち、1年後に教師を辞職する。そして一時期清算する思い出関西に遊ぶ。翌1894年に女学校へ復職したが、この年、透谷が自殺、兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没する。そしてこの年再び女学校を辞職する。この頃のことが後に36歳で著す、小説「春」で描かれる。この小説には透谷が青木、星野天知が岡見、さらに同窓だった戸川秋骨が菅、馬場孤蝶が足立、そして上田敏が福富、平田禿木が市川、佐藤輔子は安井勝子として登場する。

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藤村は1897年27歳で詩集「若菜集」を出したあと、小説家に転向、34歳で「破戒」、その2年後に「春」、39歳「家」、そして晩年、60歳になって1932年から35年にかけて「夜明け前」を書いた。











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島崎藤村ゆかりの密蔵院

2012年3月20日(火)
d0170835_11373998.jpg石山寺は紫式部や和泉式部で名高いが、実は若き島崎藤村のゆかりの場所でもある。
藤村は20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加、劇詩や随筆を発表する。一方で、教え子の佐藤輔子との愛の苦悩に陥り、教師として自責のため辞職する。その後、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をするという名目で関西に漂泊、ここ石山寺茶丈・東池坊密蔵院で約2か月を過ごしたとある。明治26年5月、藤村22歳のときである。

d0170835_1350247.jpg立て札にこうある・・・
その時石山寺に参詣しハムレット一冊を献じる。そして二か月に近い寄宿生活をこの茶丈の奥にて始める。又石山寺を囲んで<源氏物語><芭蕉の幻住庵跡><瀬田の清流><石山の源氏蛍>等の詩情あふれる世界が傷心の藤村の心を和ませた。そこに青春時代の生き生きとした藤村の姿を見ることができる。


d0170835_14251615.jpg3年後、東北学院教師となり、仙台に赴任。この間に詩作にふけり、最初の詩集『若菜集』を発表して文壇に登場する。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称される。これら4冊の詩集を出した後、藤村は詩作から離れていく。
そしてさらに3年後の明治32年、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、6年を過ごす。結婚し、小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、詩作との決別を図った。明治38年上京した翌年、『破戒』を自費出版。本格的な自然主義小説として絶賛される。
そういった藤村の創作活動の流れを見ると、若き石山寺での貴重な体験はのちの藤村文学を確立するうえで重要な役割を果たしたことが覗える。

ことしほととぎす鳴く卯月の末つかたより旅の心やすめんとしばらく石山寺の茶丈を借りて日頃このめるところを擬す(茶丈記)

なお、想いを寄せた佐藤輔子を、後年藤村は『春』という作品で勝子として登場させている。d0170835_1634076.jpg
島崎藤村(1872~1943)は信州木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)で生れ、22歳で石山寺に立ち寄り、27歳で信州・小諸に住みつき、71歳で亡くなる時は神奈川県大磯町であった。

d0170835_16152449.jpg小諸時代の藤村の居宅は佐久市貞祥寺境内に移築してあって、2年前に訪れた事がある。また、藤村が愛した小諸リンゴの湯「中棚荘」は僕らが信州で最初に訪れた温泉だ。







さらにarchive


藤村が愛惜したドウダンツツジ

2015年11月20日(金)
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二度目の訪問である。
ベニカナメにドウダンツツジ、マンリョウにセンリョウ、春には白椿を愛惜した。昭和初期の一般の家屋よりも天井の高さが一尺ほど低く茶室風にこしらえられた四畳半の座敷、島崎藤村はここを書斎として使った。そこから目の前に見える当時のままのドウダンツツジ、いつも綺麗に刈っていた。「この書斎を離れるときは自分がこの世を離れる時だ」と気に入り、静子夫人は「大磯の住居は50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で、最も気に入られたものだろう」と述べた。
「涼しい風だね・・・」と二回つぶやき、大磯の地で永眠した。書斎で書き続けていた『東方の門』は「和尚が耳にした狭い範囲だけでも」で終わっている。
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d0170835_17253286.jpgそんな藤村もここ大磯に住んだのは昭和16年2月から僅か2年半の短さだった。そこで庭いっぱいに咲く梅が気に入りよく訪れた真言宗地福寺、なかでも白梅の老木をいたく好んだ藤村はその傍で静子夫人と共に眠っている。
(左に墓石が見える)

by kirakuossan | 2018-11-04 09:17 | 文芸 | Trackback
2018年10月13日(土)


海潮音
上田敏訳

遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず



落葉      ポオル・ヴェルレエヌ

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。


仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具そなへ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉とらへむとす。  訳者



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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1905年(明治38)の今日、上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行された。
おもにヨーロッパの詩人の訳詩集で、29人の57篇の訳詞がまとめられ、日本に初めて象徴派の詩を紹介した。
ときに東大講師上田敏32歳であった。
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by kirakuossan | 2018-10-13 06:45 | 文芸 | Trackback
2018年8月19日(日)

トルコリラの大幅下落を受け、トルコ・ショックは世界金融危機の火種となるか? 今にわかにトルコを巡る懸念が米中貿易戦争懸念と並行して、グローバル経済のリスク要因として浮上してきている。
日常、われわれ日本から見て遠い国のように思えるトルコだが、ただひとつトルコと日本を結びつける印象的な事件がある。エルトゥールル号遭難事件だ。1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現トルコ)の軍艦エルトゥールルが、和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した。同艦がもともと老朽艦であったため折からの台風による強風にあおられ岩礁に激突して起こった事件だったが、イスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示するがため天災による殉難と位置付けられた。このとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたとされている。

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今回の危機の渦中にあるレジェップ・エルドアントルコ大統領だが、その思惑の背景にはオスマン帝国復古の強い願いがあるとさえ噂される。その意味では、強いアメリカを標榜するトランプ大統領とは対立はするものの根底は近いものかも知れない。
中東に位置しながら石油が出ない国トルコ、我々には遠い国トルコはどのような国なのか。
トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクが著した、出世作『白い城』や、トルコ北東のアルメニアとの国境付近の町カルスを舞台にした政治小説『雪』、はたまた代表作『わたしの名は紅』が教えてくれるかもしれない。

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by kirakuossan | 2018-08-19 09:54 | 文芸 | Trackback