信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


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2018年10月13日(土)


海潮音
上田敏訳

遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず



落葉      ポオル・ヴェルレエヌ

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。


仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具そなへ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉とらへむとす。  訳者



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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1905年(明治38)の今日、上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行された。
おもにヨーロッパの詩人の訳詩集で、29人の57篇の訳詞がまとめられ、日本に初めて象徴派の詩を紹介した。
ときに東大講師上田敏32歳であった。
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by kirakuossan | 2018-10-13 06:45 | 文芸 | Trackback
2018年8月19日(日)

トルコリラの大幅下落を受け、トルコ・ショックは世界金融危機の火種となるか? 今にわかにトルコを巡る懸念が米中貿易戦争懸念と並行して、グローバル経済のリスク要因として浮上してきている。
日常、われわれ日本から見て遠い国のように思えるトルコだが、ただひとつトルコと日本を結びつける印象的な事件がある。エルトゥールル号遭難事件だ。1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現トルコ)の軍艦エルトゥールルが、和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した。同艦がもともと老朽艦であったため折からの台風による強風にあおられ岩礁に激突して起こった事件だったが、イスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示するがため天災による殉難と位置付けられた。このとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたとされている。

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今回の危機の渦中にあるレジェップ・エルドアントルコ大統領だが、その思惑の背景にはオスマン帝国復古の強い願いがあるとさえ噂される。その意味では、強いアメリカを標榜するトランプ大統領とは対立はするものの根底は近いものかも知れない。
中東に位置しながら石油が出ない国トルコ、我々には遠い国トルコはどのような国なのか。
トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクが著した、出世作『白い城』や、トルコ北東のアルメニアとの国境付近の町カルスを舞台にした政治小説『雪』、はたまた代表作『わたしの名は紅』が教えてくれるかもしれない。

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by kirakuossan | 2018-08-19 09:54 | 文芸 | Trackback
2018年8月9日(木)

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最近、仕事が繁多を極め、車の移動でレコードを掛ける時が、一番纏めて音樂を聴けるといふ日々である。先日は、さうした深夜の車中移動で、カラヤン&ベルリンフィルの一九六二年盤《第九》を久しぶりに聴いた。カラヤンのベートーヴェンは、元々好きではない。評價出来ない理由もはつきりしてゐる。だが、さういふこと以前に、この度聴き直してみて、この《第九》が餘りに退屈なことに、私は驚いた。~

《英雄の生涯》や《春の祭典》ならば輝かしい勝利に聴こえたカラヤンのサウンドが、何故、ベートーヴェンでは、あへなく「敗北」してゐるかのやうな印象になるのだらう。豪奢な響きと滑らかなレガートが、新たな魅力となるよりも、退屈さに聴き手を閉じ込めてしまふことになるのだらう。
カラヤンの《第九》の退屈さは、後からじわじわ来る。快速調で冒頭の三十二分音符を克明に刻ませ、第一主題の登場をレガートで歌ひ切る一樂章の出出しは鮮烈なのである。フルツヴェングラーへの意図的なレジスタンスでもありさうだ。云ふまでもなく、フルトヴェングラーはアレグロとは言へぬゆつたりとしたテンポで、宇宙創生のやうにこの曲を始め、三十二分音符は神秘的な音の霧にしてしまふ。第一主題はレガートの對極、踏み締めるやうな偉容を打出す。かうした《第九》像の讀み換へだとすれば、カラヤンの着想は悪くないと、私は思ふ。
が、残念ながらそれは、この後、音樂的意味への問ひ掛けには育たない。鮮やかな着想は、あつと云ふ間に、美麗なだけの音空間に退行する。カラヤンは、まるでR・シュトラウスのやうに、聴き手を美の催眠に掛けようとする。だが、ベートーヴェンの聴き手は、最高度に目覚めてゐなければならないのである。美麗な音の夢に微睡むことを、音樂は寧ろ厳しく禁じてゐる。それは、一歩ごとに聴き手の覚醒を求め、彼自身も又、作者と共に、崇高へとにじり昇らねばならぬ。カラヤンは《第九》から、さうした精神的な領域での葛藤を全て捨象してしまふ。


小川榮太郎著の『小林秀雄の後の二十一章』から、カラヤンとフルトヴェングラーの《第九》の一節である。このようなことは私にも同じ経験があるところであって、「第九」に限らず、カラヤンのベートーヴェンはどれも退屈である。
小川榮太郎氏(1967年~)は文芸評論家で専門は近代日本文学、19世紀ドイツ音楽とあるが、最近、別著に『徹底検証「森友・加計事件」 ―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪―』を発刊し、朝日新聞と係争している。今日図書館にこれを借りに行くもこちらの方は「貸し出し中」とあった。




國民會館主催の9月度の武藤記念講座でこの小川氏が講師で登場する。ぜひ行ってみようと思っている。

   ◇第1049回の記念講座
    演題:「江戸思想が可能にした『明治国家』」
    講師:文芸評論家  小川榮太郎氏
    日時:9月15日(土)午後1時30分~3時30分
    場所:大阪:國民會館 武藤記念ホール
  
要旨:今年は明治150年記念年であり、幕末維新が様々に回顧されている。しかし明治維新の際立った特質は幕末の政変そのものでなく、その後、古代以来政治的権威だったことのない天皇を擁立した地方出身の下級武士政権が、稀にみる高度で安定した近代国家を維持できた点にある。これは権力の力ではなく、民度と思想の力であり、その地力が育まれた江戸思想と近代国家の成立の関係を話します。




by kirakuossan | 2018-08-09 17:25 | 文芸 | Trackback
2018年7月31日(火)


安政四年(1857)正月二日
前日は、朝から雲一つない晴天で、水戸の城下町には、元日らしいおだやかなにぎわいがひろがっていた。武家の玄関には根切にした男松女松が左右に立てられ、豪商の家々にも門松がつらなり、正装した男女が連れだって神社に詣でる姿がみられた。年賀の者たちは、家並の間の道を往き交って、知り合いの者に会うと挨拶をかわし、また、城中恒例の礼式に参列する藩士たちは、ぞくぞくと登城した。しかし、一夜あけたその日の城下町は、異様な空気につつまれていた。神社に詣でる者はいたが、多くの者たちが、江戸に通じる道にむらがっていた。天候も前日とはちがって、空は雲におおわれ寒気がきびしかった。五ツ(午前八時)頃から、雪がちらつきはじめた。


吉村昭の小説「桜田門外ノ変」の冒頭の書き出し部である。この人のノンフィクション小説は良く出来ていて、最初から読者の注意を惹かせることに長けていると思う。
また、この人の作品でもっとも感動した記録文学「戦艦武蔵」の書き出しも、棕櫚(しゅろ)という日常あまり聞き慣れないものを突如として登場させ、これから読み進めていこうと思う読者にとって、一層の好奇心を擽る。


昭和十二年七月七日、盧溝橋に端を発した中国大陸の戦火は、一か月後には北平を包みこみ、次第に果てしないひろがりをみせはじめていた。
その頃、九州の漁業界に異変が起こっていた。
初め、人々は、その異変に気がつかなかった。が、それは、すでに半年近くも前からはじまっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の業業界にひろがっていた。
初めに棕櫚の繊維が姿を消していることに気づいたのは、有明海沿岸の海苔養殖業者たちであった。


吉村昭は、この「戦艦武蔵」を書くにあたって、最初出版社から依頼を受けたが、どうも気乗りしなかった。しかしどうしてもということなので渋々引き受けたが、それがこの人の出世作になった。

冒頭の書き出し部、字数にしてわずか400字あまり、ここでその長編小説の背景や主人公の立ち位置をざっと紹介してしまう。その文章には無駄がない。読んでいても理解しやすいく、しかも簡潔に書かれてはいるが決して無味乾燥な文章ではない。吉村氏持ち前の技といえる。


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慶応四年(一八六八)一月三日、薩摩、長州、土佐、芸州各藩の倒幕軍の砲撃によって戦端が開かれた鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦役として全面戦争に拡大した。
鳥羽・伏見の戦いは、淀藩についで津藩が倒幕軍側についたことから、幕府軍は総くずれとなって敗走した。大坂城にあった将軍慶喜は城を脱出し、海路、江戸に落ちのびた。朝廷は、慶喜追討令を発して新政府樹立を宣言し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、新政府軍は江戸にむかって進撃を開始した。総数約五万で、主力は薩摩、長州それに土佐藩の兵であった。
東海、東山、北陸三道を進んだ新政府軍は、途中、ほとんど抵抗をうけることもなく、四月十一日に江戸城は明け渡され、慶喜は水戸に去って謹慎した。その開城に憤激した幕臣や諸藩の脱藩士たちが、上野寛永寺に屯所をおく彰義隊にぞくぞくと参加し、新政府軍はこれを鎮撫しようとしたが効果はみられなかった。~

新政府軍に残された最大の課題は奥羽全域を支配下におくことだったが、会津を中心とした各藩兵と壮絶な攻防がくり返され、ようやく白河を落とし入れた新政府軍は攻撃目標を会津に定め、平潟に薩摩、大村の藩兵千人余りを上陸させる。その船倉内に、主人公であるのちの海軍軍医総監高木兼寛も乗りこんでいた。
今から読み始めようとしている「白い航跡」。さてどのような感動を与えてくれるだろうか、楽しみである。


今日7月31日は吉村昭の命日である。



by kirakuossan | 2018-07-31 13:45 | 文芸 | Trackback
2018年6月23日(土)

門田
今、日本のメディアが抱える最も深刻な問題は、新聞ジャーナリズムが徹底的に堕落してしまったことだと思います。もう堕ちるところまで堕ちてしまったように思います。
新聞には、「報道面」と「論評面」の二つがあります。報道面というのは、いわゆるストレートニュースで、これは自分がどんな主義主張を持っていようと、きちんとファクト(事実)を読者に伝えなければいけません。一方、論評面はそれをもとに、自分たちの主義主張に基づいて、さまざまな論評を展開すればいい。しかし、朝日を筆頭に、今の新聞は自分の主義主張にしたがってストレートニュース自体をねじ曲げている。
つまり、新聞は主義主張、イデオロギーに基づいて”情報操作をするため”の媒体に成り下がってしまいました。私はなにも、新聞は不偏不党であれと言っているわけではありません。ただストレートニュースだけは、ファクトをきちんと報じろ、ということなんです。これが歪められれば、読者は物事をきちんと判断することができないからです。
たとえば、「安倍の葬式はうちが出す」という朝日新聞幹部の有名な言葉がありますが、ファクトを二の次にして、あるいは歪めて、安倍晋三首相を貶めることを目的にしたような「印象操作」を新聞は延々とやっているわけです。こういうことは一九七〇年代にもありましたが、今ほどひどくはありませんでした。



『週刊文春』と『週刊新潮』~闘うメディアの全内幕(PHP新書2018年1月刊)のなかで、《第二章》「ファクトを歪める新聞vs圧力と闘う週刊誌」の冒頭部で門田隆将氏が花田紀凱氏との対談で「新聞ジャーナリズムは徹底的に堕落した」と題して、核心に触れている。
このことは日頃から感じていることであって、新聞を取らなくなった大きな理由であった。ここでの門田氏の一連の発言は、嘆かわしい現実のありのままの状況を簡潔な言葉で言い得ていて、まったくそのとおりだと感動を覚える。
そんな露骨なやり方が横行してどうしようもなくなったときに、インターネットというものが現れた。これによって国民が自らが個人発信できるツールを持つことが可能な時代になり、それによって、その出来事の真実を知る関係者が、「それは違う!」と情報を発信できるようになった。マスコミが逆に「監視される時代」が来た、すなわち今までの新聞の嘘がバレるようになってきた、と門田氏は説明する。そこで対談相手の花田氏が付け加える。

花田
そこで新聞がどうなったか。「自分たちの主義主張に基づいて情報を加工するのは危ないからもうやめて、ファクトはファクトとして伝えよう」という正常な方向には行かなかった。むしろ、主義主張のほうがより強まって、余計変になっていった。典型的なのが森友学園、加計学園の報道です。


d0170835_08293667.jpgさらには少し以前、福島原発問題で、2014年5月20日付けの朝日新聞が報じた「所長の命令に違反して福島第一原発所員の九割が撤退した」という誤報。実際に吉田所長や大勢の現場の人たちの取材を行い、真実を見てきた門田氏が、それは違うと最初自らのブログで反論していたが、やがて週刊ポストで記事に書くことになった。これにより、真っ向から朝日新聞とやりあうことになるが、結局同年の9月11日に朝日が記者会見を開き、「吉田調書」記事を全面撤回し、社長以下責任者が更迭、辞任となる。
この一年、国会は森友学園、加計学園問題だけで終始したといっても過言ではない。野党は何かと言えば「国民のため」にわれわれは追求し、安倍政権を倒すというが、われわれの税金を使って、延々と茶番劇を見せられ続ける国民にとってはたまったものではない。「もう、ええ加減にせい!」と言いたくなる。
野党と新聞のこうした偏重した動きには共通したものがある。
この「吉田調書」問題や森友学園や加計学園問題などが、いかにでっちあげられた事柄であるかといったことは本著を読めばよくわかる。





by kirakuossan | 2018-06-23 07:10 | 文芸 | Trackback
2018年6月21日(木)

d0170835_18124618.jpgPHP研究所新書の編集長からノンフィクション作家の門田隆将氏に電話が入った。「花田紀凱さんと対談をしてもらえませんか。新聞がこんな情けない状態になっている今、これからの日本のジャーナリズムの行く末にも言及するような対談をやってほしい」といった趣旨の依頼であった。


門田隆将氏は大学卒業後、新潮社に入社、すぐに「週刊新潮」の編集部に配属された。以来独立する2008年までの25年間勤務した。そこでの特集班デスクで800本近く執筆し、培ってきた体験が生かされ、独立後も40冊以上の著作を世に出してきた。方や、花田紀凱氏は門田氏より16歳年上で、業界では先輩にあたる。「週刊文春」の編集長として多くの実績を残し、タカ派の論調を展開してきた重鎮である。
「週刊新潮」は1956年2月刊行、先発の昭和20年代に刊行された「週刊朝日」などの新聞社系週刊誌に対し、初めて新潮社から出版社系の週刊誌として誕生した。それから遅れること3年後の1959年4月に文藝春秋社から「週刊文春」が刊行される。

『週刊文春』と『週刊新潮』~闘うメディアの全内幕(PHP新書2018年1月)と題した二人の対談、気楽に読める新書である。
そこでまず花田氏が語るこの箇所に興味を抱いた。

花田:やっぱり『週刊文春』は総合週刊誌ですから、もちろん硬派の部分がメインであるわけですけどね。その面で自分の中で大きかったのは『週刊文春』(1988年8月25日号)に司馬遼太郎さんが小学校の国語の教科書のために書き下ろした「二十一世紀に生きる君たちへ」全文を載せたときでした。あのとき、編集長になって最初に、手ごたえを感じることができたんです。
関西の新聞に、司馬さんが子供向けに書いた随筆が、小学校の国語教科書に収録されるという小さな記事が出ていたんです。それで読んでみた。本当にいい文章ですね。ぜひ、再録したいと思った。
小学校の国語教科書のために書かれた文章を週刊誌に載せるなんて、普通ないですよね。『文藝春秋』本誌なら載るかもしれませんが、週刊誌では異例のことです。でも、司馬さんの許しを得てそれを載せたら、すごい評判になった。
そのとき、編集長になって初めて、方向性が少し見えたような気がしましたね。



21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)
私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは --- もし君たちさえそう望むなら --- おすそ分けしてあげたいほどである。ただ、さびしく思うことがある。
私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。「やさしさ」「おもいやり」「いたわり」「他人の痛みを感じること」みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。
もういちど繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分には厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていく。そして、”たのもしい君たち”になっていく。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
(平成元年「小学校国語六年下」大阪書籍)


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-21 17:34 | 文芸 | Trackback

「敗れても 敗れても」

2018年6月11日(月)

ここに小磯良平が描いた一人の人物がいる。島田叡。戦場の知事と呼ばれた第27代沖縄県知事である。
就任の第一声を受けて沖縄県庁の職員たちはみな感激した。


d0170835_08435992.jpg「情勢は、非常に緊迫しております。これは壁に向かって駿馬を駆り、そのまま突っ込んでいるようなものです。果たしてうまく壁のところで止まるか、それとも壁にそのままぶち当って人馬ともに斃れるか。そういう真に緊迫した状態にあります。諸君も、そういう気持ちを忘れずにやっていただきたい」
新しい若き知事は、なんとも不思議な譬えをする人物だった。だが、この人となら一緒にやれる。多くの職員にそんな勇気をもたらしたのは確かだった。
(この知事は、前の知事とは違う・・・)


米軍の攻撃が迫っている沖縄で、陣頭指揮どころか知事公舎の防空壕に籠りきりになり、はては県民を見捨てて本土へ逃げ帰った泉前任知事に代わって、急遽あとを任された島田叡(1901~1945)は、赴任するやいなや、限られた時間内で着々と県民のために尽くした。県民の沖縄北部への疎開を推し進め、あるいは敵の兵糧攻めにあうことを危惧し、海上の治安が危ういなかを台湾まで出向き、米を確保した。
米軍が沖縄本島に上陸するまでわずか2か月、そこでの島田がおこなった県政はいまも語り草となっている。
そして、1945年(昭和50)6月、沖縄最後の官選知事島田叡は、信頼する沖縄県警察部長の荒井退造とともに摩文仁の激戦地で消息を絶った。

島田叡が沖縄県知事の職を引き受けた心情は、彼の座右の銘でもある石川啄木の歌にある。


こころよく 我にはたらく 仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思ふ



島田は学生時代、東京帝大野球部で俊足巧打の外野手として鳴らした名選手だった。野球部のために高等文官試験の受験を一年棒に振るという自己犠牲を示した人物でもある。


門田隆将「敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦」





【新聞に喝!】
「活動家」になり果てた2紙の新聞記者 その使命は「煽情記事」を書くことか 
作家・ジャーナリスト 門田隆将
2018.6.3 06:56 産経

このネット記事を読み、ノンフィクション作家門田隆将(1958~)の存在を初めて知った。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社2003年)でデビュー、その後、戦時下の様子を書いた作品や福島原発を題材に取った『「吉田調書」を読み解く―朝日誤報事件と現場の真実』(PHP研究所2014年)またほかに多くの野球もの小説も書いて来た。

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最初に読んだ『神宮の奇跡』がたいへん面白かったこともあって、続く2冊目は先月発刊されたばかりの新刊『敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦』を手にしている。どちらも僕の好きな「大学野球」が題材になっていて、スラスラと読み進められる。




by kirakuossan | 2018-06-11 19:00 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ⑤

2018年6月9日(土)

東都大学野球1958年(昭和33)秋のリーグ戦。第5週までの戦績は、①日本大学4勝(勝点2)⓶専修大学4勝2敗(勝点2)③駒沢大学4勝4敗(勝点1)④中央大学3勝3敗(勝点1)⑤学習院大学3勝4敗(勝点1)⑥東京農業大学1勝6敗(勝点0)であった。開幕前は、同年の春を制した中央大、それに専修大、日本大の3校が優勝候補に挙げられ、5週のこの時点では日本大と専修大が有望視されていた。ところが学習院大が全勝の日本大にまさかの連勝をし、俄かに様相は変わって来た。①専修大6勝3敗(勝点3)⓶駒沢大7勝5敗(勝点3)③中央大・日本大・学習院大がそれぞれ5勝4敗(勝点2)
この時点で駒沢大が学習院大に勝ち点を挙げれば初優勝に近づくということで、いよいよリーグ戦は混とんとしてきた。ところが学習院大はその駒沢大に根立、井元の二本柱が立ちはだかり、3回戦で井元投手が6-0と完封勝利を収め、駒沢大の初優勝の夢を打ち砕いた。それは同時に、ひょっとしてひょっとする学習院大の優勝の可能性も残す勝点3の奪取であった。そしてトップを行く専修大に日本大が勝ち点を奪い、いよいよ怪しくなって来た。


波乱に富んだ昭和三十三年東都大学秋季リーグ戦は、最終週で中央・専修がともに優勝の可能性を残して激突した。
専修が勝ち点を上げれば、もちろん優勝。中央が優勝するには、専修に連勝しなければならない。
問題は、中央が二勝一敗で専修を倒した場合だった。
この時、実に勝ち点三で五チームが並ぶという前代未聞の事態となる。そして勝率の関係で、中央、日大、学習院の三チームが「七勝五敗・勝ち点三」で完全に並ぶという予想もしなかった結果が生まれることになる。
この場合、勝ち点は同じ「三」だが、駒沢と専修は「八勝七敗・勝率五割三分三厘」となり、中央、日大、学習院の「五割八分三厘」に及ばず、優勝圏外に転落するのである。
ネット裏では、「専修の優勝が一週のびただけだろう」という予測が大半だった。


優勝のかかる専修大vs中央大戦で、絶対のエース坂井で初戦をものにした専修大だが、何を焦ったか、続く2回戦でも1回戦で延長10回まで投げた坂井を連投させた。そしてまたもや延長となり、13回に専修大がサヨナラ負けを喫する。
専修大はここで力尽きた感じで、3回戦で1-2で敗れ、まさかまさかの三つ巴優勝決定戦が現実のものとなった。
ところが優勝決定戦の三つ巴の戦いは2度繰り返されるが決着つかず。連盟の判断は「優勝預かり」を決定しようとしていた。

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連盟側から案の定、「優勝預かり」が提案された。
すでに野球をやれる環境ではない。とにかく寒すぎる。優勝預かりやむなし、だった。中央、日大はともに了承した。
だが、その時、学習院のマネージャー松木が口を開いた。
「もう一度だけ、もう一度だけやりましょう」
学習院は前年、柳谷部長が東都大学野連盟の理事長、そして松木が連盟の総括マネージャーを務めていた。二人とも連盟の運営については、すべて知り尽くしていた。
「・・・・・・・」
一瞬の沈黙が流れた。
「そうは言っても球場が・・・」
すでに十一月も下旬だ。神宮球場をこれ以上使うことは許されていなかった。球場がなければ、さすがに優勝決定戦もない。
その時、松木は、こう言った。
「駒沢球場があります」
東映フライヤーズの本拠地である駒沢球場は、プロ球団がフランチャイズにしているだけのことはあって、この十一月下旬が来てもまだ「使用可能」だった。
当時の駒沢球場の場長だった田沢八十彦は東都大学リーグに理解の深い人物だった。あらかじめ松木は、駒沢球場を使わせてもらえるか、田沢に電話を入れていたのだ。
「せっかくこれだけの注目を集めているのですから、もう一度だけやりましょう」
球場まで用意されていては、中央、日大としても、拒否できる理由は見つからない。各大学とも授業を休講にしていた。そのため、学生は心おきなく応援に駆けつけることができた。優勝決定戦は、学生たちにも評判が上々だった。
「仕方ない、やるか・・・」
中央と日大のマネージャーが目と目を合わせて頷いている。
連盟の総括マネージャーを前年に努めた松木の貫禄勝ちだった。この席に来るとき、松木は、
「松木、絶対に続けさせろよ!」とナインから言われていた。学習院の面々は、闘志満々だったのだ。


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決定戦続行の知らせを聞かされた中央と日大ナインたちは「えッ?」「本当か?」といったのが偽らざる本音であった。すでにこの時点で勝敗は決した。
学習院大学野球部が悲願で唯一の優勝を手にした。それは1958年(昭和33)11月も押し迫った25日のことであった。



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学習院大学が奇跡の優勝を果たしたその翌日、1958年(昭和33)11月26日午前9時、宮内庁から発表があった。「明日11月27日午前10時から、皇居東の間において皇室会議が開かれる。議題は、皇太子殿下の婚姻に関する件である」


皇太子のご婚約は学習院の優勝と同じく大逆転劇であり、不思議なほど、学習院の優勝への戦いと同時進行している。
当初、連続して勝ち点を落とした学習院が覇権に向かって歩み始めるのは、十月に入ってからである。あきらめず、こつこつと立ち向かっていった学習院ナインが、同率首位に這い上がり、優勝決定の三つ巴戦への参加が決まるのは、十一月八日のことだ。それは皇太子が電話攻勢でやっと美智子の心を動かした時期と重なる。
また、皇太子が正田家から婚約承諾の知らせを受取った日の翌十一月十四日、学習院は優勝を九分九厘決めていた中央を逆転し、穴沢のサヨナラヒットで二度目の優勝決定シリーズに持ち込んでいる。
そして、前述の通り、宇佐美宮内庁長官が、天皇家の正式な使いとして正田家を訪問する十一月二十一日、学習院は再度の優勝決定戦で初優勝をかけて中央に挑み、皇太子はこの闘いを神宮球場のスタンドから見つめた。
それは、それまで逆転に賭けて突き進んだ皇太子と学習院大学野球部が見事に”クロス”した瞬間だった。
皇太子はこの時、愚直に、誠実に、戦いを挑む後輩たちに対して、心からの拍手と声援を送っている。ひょっとしたら皇太子はその時、母校のために戦う後輩たちと自らを重ね合わせていたのかもしれない。
あの時に見せた皇太子の心からの笑顔には、おそらく逆転を成し遂げた自身の輝かしい未来への夢と希望も含まれていたのだろう。
皇太子殿下と学習院大学野球部―両者が大願を成就させたのは、あの小金井の学習院仮校舎の光華殿前広場で、皇太子と草刈が、戸田侍従に野球の手ほどきを受けてから十二年後のことだった。

門田隆将著「神宮の奇跡」



学習院大学野球部が3度にわたる三つ巴の優勝決定戦を制した1958年(昭和33)は長嶋茂雄選手が4打席4三振でデビュー、 富士重工業が「スバル・360」を世に出し、「チキンラーメン」なるものが登場し、 東京タワーが竣工、東京 - 大阪間に特急「こだま」が姿を見せ、聖徳太子の1万円札が流通もした、まさに新しい時代の幕開けを予感させる年であった。
今、学習院大学野球部は東都大学の3部リーグにあるが、1982年秋の3部降格後、2部リーグへの復帰は一度もない。2015年秋、久し振りの3部リーグ優勝、そして続く2017年の秋季リーグにも優勝、2部最下位の東京農大相手の入れ替え戦では緒戦に先勝、2戦目は逆転負け、3戦目は延長戦にもつれ込む大接戦となったが惜しくも敗れ、2部昇格はならなかった。そして今春のリーグ戦も勝ち点4で順天堂大と優勝決定戦まで進んだが敗れ2位になった。最近徐々に力をつけてきており、近いうちに2部昇格が実現、往年の雄姿を取り戻すかもしれない。



by kirakuossan | 2018-06-09 15:31 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ④

2018年6月8日(金)

1952年(昭和27)の春、学習院大学野球部は入れ替え戦で國學院大學を破り、悲願の東都野球リーグ1部入りを果たす。それから6年、苦戦しながらも一部に留まり、ようやく優勝候補チームにも勝利するほどの実力を蓄えるようになる。ところが1958年(昭和33)の春季リーグ、優勝候補の日本大学、中央大学から3勝を挙げる好スタートを切ったにもかかわらず、結局このシーズンはこの3勝だけにとどまり9敗して勝点1で最下位という思いがけない結果となってしまった。
入替え戦の相手は調子の波に乗る芝浦工業大学。学習院大学は初戦をエース井元俊秀の先発で臨むも2-4と落とす。続く2回戦は1年生投手の角原佑一、3年生の井元俊秀、最上級生の根立光夫の継投で3-1でどうにか勝利し、いよいよ雌雄を決する3回戦、場所を駒沢球場に移して行われた。この試合も井元が先発、3回から根立にスイッチ、緊迫した投手戦で0-0のまま延長戦へ。ところが10回で突如試合は終了となる。それはこの後、同球場でプロ野球の試合があるため、時間切れ引分けになったのだ。
1勝1敗1引分けのあと、4回戦が6月17日同じく駒沢球場でプレーボールとなった。学習院大学の先発は2年生の秋山正、しかしその作戦は裏目に出て、1回裏からピンチを迎え、早くも4年生の根立をマウンドに送った。しかし初回から3点を奪われ苦しい展開に。すかさず2回に学習院も2点を返し、食い下がる。ただこの時、二塁ランナーで一気にホームへ突っ込んだ根立投手がベースタッチした際に右指の爪が剥がれてしまう・・・
根立は「自分の代でチームを2部に降格させるわけにはいかない、一部に引き上げてくれた草刈先輩に申し訳ない」といった思いつめた心境で、ボールは血に染まりながらも、痛みをこらえて投球する。しかしさすがに球威は落ち、3回に2点を追加され、2-5と劣勢に。しかし次の4回に学習院は2点を取り返し4-5と追いすがる。そして7回に、相手投手の乱調に加え、学習院の打線にさらに火がつき、7-5と逆転に成功した。しかしその裏、芝浦工大の粘りに1点差に詰め寄られ、ここで根立から井元へスイッチした。いよいよ試合は死闘の様相を呈してきた。

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ブルペンにいた井元は、根立の負傷を知らなかった。一年先輩で、温厚な根立を井元は尊敬していた。偉ぶるところが微塵もなく、ただ黙々と練習に打ち込む根立の姿は、一年下の井元の目標となっていた。
その根立が降板した。一点差。ランナーを二人残して自分に命運が託された。
やるしかない。井元は覚悟を決めた。
負ければ地獄。二部落ちである。
井元は、ストライクゾーンのぎりぎりを突くコーナーワークが身上だ、だが、相手も井元の配球は、先刻承知している。
バッターは当っている五番の伊藤だった。今日、すでに三安打している。
芝工大で最も危ない打者である。だが、勝負を避けて四球を与えてしまえば、満塁になる。六番の景山もこの試合すでに二安打四打点を上げて絶好調だ。
満塁で景山と勝負となったら、どうなるかわからない。
行くしかない。伊藤と勝負だ。井元はそう思った。
だが、伊藤は選球眼がいい。なかなか、くさい球に手を出してくれない。
外角を見極められ、ついにフルカウントになってしまった。ここでフォアボールは致命傷である。
内野から声が飛ぶ。
「打たせろ!俺たちに任せろ!」
田辺の声だった。
ファーストの江野沢からも声が聞こえる。
「大丈夫だ。思いっきり投げろ!」
サードの穴沢からは「PL!]という叱咤が聞こえた。
「PL!大丈夫だ。思い切って行け!」
そうだ。思いきり行くしかない。信じられるのは、自分の力だけだ。ここは投げるしかない。
外角のストレート。
これしかない。フルカウントから甘い球は投げられない。
渾身の力を込めてこれを投げよう。この球が打たれたら悔いはない。真っ向から勝負だ。
井元はそう思った。果たして、小幡が出したサインは、「外角ストレート」だった。
その球を半世紀経った今でも井元は忘れることができない。
井元のサイドハンドから放たれたスピードボールは、外角ぎりぎりに構えた小幡のキャッチャーミットに、糸を引くように吸い込まれた。
バッターは手が出なかった。ボールと思って見送ったのか。それとも・・・。
それは、どちらにジャッジされてもおかしくないボールだった。
「ストライク!」
一瞬の沈黙の後、高見球審の手が上がった。
どっというどよめきが起こった。
「あれは、大学時代に僕が投げた球で最高の球でした。いや人生で一番の球でした。あれ以上のボールを僕は野球人生で投げていません」
井元は、七十歳を越えた今も、その球のようすを生き生きと再現する。年月を経ても、その時のボールの軌道が頭から離れないのである。
それはまさに「人生最高の球」だった。
土壇場で発揮された勝負強さ。それは修羅場をくぐって来た男の強さ以外の何ものでもなかった。

門田隆将著「神宮の奇跡」




結局、学習院大学は8-6で勝利し、一部に残留した。井元俊秀投手の投げたその球が学習院を救った。もしここで負けていたら、学習院のあの秋の奇跡は起こらなかった。


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 21:53 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ③

2018年6月8日(金)

引き揚げで日本へやっとの思いで辿り着いた井元俊秀は義母が「ひとのみち教団」(PL教団の前身)の信者だった影響で佐賀の鳥栖に行き、鳥栖の小学校へ通い、やがて全国のPL教団の寮を転々としながら野球好きの少年に育っていく。
1952年(昭和27)、東京の都立戸山高校に入学、勉学に野球に励んでいると突然、大阪に戻ることになる。富田林にPL学園を開校することになり、代々木のPL寮は閉鎖することになるからだ。
造成中のPL学園にやって来ると一期生は男子が13名、女子が8名のわずか21名しかいなかった。1955年(昭和30)4月、PL学園高校が開校、井元は改めて高校3年生となった。


井元はさっそく野球部をつくった。しかし、造成中の学校では、練習のできるグラウンドさえままならない。だが、それでよかった。
とにかく井元は、硬球を握りたかったのである。無理やりつくった野球部で、井元はピッチャーとなった。井元は、PL学園野球部の”創設者”であり、同時に初代の”エース”となった。
しかし、ろくに経験者もいないこの野球部は、おそろしく弱かった。ブルドーザーが一年中、土地を造成している横のでこぼこのグラウンドで野球の練習をしているのである。野球用具が貴重だったこの時代、バットは三本、グローブは全部で七個しかなかった。強くなれと言う方が無理だった。
PL学園野球部は、府立堺工業高校(現・府立堺工科高校)に練習試合を申し込み、栄えある最初の対外試合がおこなわれた。井元が必死で投げて四対四で引き分けた。
次に富田林高校と練習試合を組んだ。今度はボロ負けだった。大量十一点を奪われ、味方が取ったのは一点だけだった。

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やがて井元は大学進学を迎えるが、実の両親がいなく、身寄りをPL教団に委ねている身では教主の意見に従うしかなかった。一期生で進学を望む者は一人一校だけ認めようという許可であった。しかもその条件は誰もが”さすが”と認めるような大学に限られた。中央大学、早稲田大学・・・と一人一人希望を告げ、井元は御木徳近教主の養女が在籍している学習院大学を選んだ。それは以前、都立戸山高校で野球の練習をしている時に、グラウンドで当時の学習院大学野球部の渡辺大陸監督に「君、学習院で野球をやらないか」と声をかけられたことからもきている。
ただ、井元が学習院の野球部に入る直前、渡辺監督は急逝しており、井元との再会は実現しなかった。


門田隆将著「神宮の奇跡」


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 07:01 | 文芸 | Trackback