ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

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「敗れても 敗れても」

2018年6月11日(月)

ここに小磯良平が描いた一人の人物がいる。島田叡。戦場の知事と呼ばれた第27代沖縄県知事である。
就任の第一声を受けて沖縄県庁の職員たちはみな感激した。


d0170835_08435992.jpg「情勢は、非常に緊迫しております。これは壁に向かって駿馬を駆り、そのまま突っ込んでいるようなものです。果たしてうまく壁のところで止まるか、それとも壁にそのままぶち当って人馬ともに斃れるか。そういう真に緊迫した状態にあります。諸君も、そういう気持ちを忘れずにやっていただきたい」
新しい若き知事は、なんとも不思議な譬えをする人物だった。だが、この人となら一緒にやれる。多くの職員にそんな勇気をもたらしたのは確かだった。
(この知事は、前の知事とは違う・・・)


米軍の攻撃が迫っている沖縄で、陣頭指揮どころか知事公舎の防空壕に籠りきりになり、はては県民を見捨てて本土へ逃げ帰った泉前任知事に代わって、急遽あとを任された島田叡(1901~1945)は、赴任するやいなや、限られた時間内で着々と県民のために尽くした。県民の沖縄北部への疎開を推し進め、あるいは敵の兵糧攻めにあうことを危惧し、海上の治安が危ういなかを台湾まで出向き、米を確保した。
米軍が沖縄本島に上陸するまでわずか2か月、そこでの島田がおこなった県政はいまも語り草となっている。
そして、1945年(昭和50)6月、沖縄最後の官選知事島田叡は、信頼する沖縄県警察部長の荒井退造とともに摩文仁の激戦地で消息を絶った。

島田叡が沖縄県知事の職を引き受けた心情は、彼の座右の銘でもある石川啄木の歌にある。


こころよく 我にはたらく 仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思ふ



島田は学生時代、東京帝大野球部で俊足巧打の外野手として鳴らした名選手だった。野球部のために高等文官試験の受験を一年棒に振るという自己犠牲を示した人物でもある。


門田隆将「敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦」





【新聞に喝!】
「活動家」になり果てた2紙の新聞記者 その使命は「煽情記事」を書くことか 
作家・ジャーナリスト 門田隆将
2018.6.3 06:56 産経

このネット記事を読み、ノンフィクション作家門田隆将(1958~)の存在を初めて知った。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社2003年)でデビュー、その後、戦時下の様子を書いた作品や福島原発を題材に取った『「吉田調書」を読み解く―朝日誤報事件と現場の真実』(PHP研究所2014年)またほかに多くの野球もの小説も書いて来た。

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最初に読んだ『神宮の奇跡』がたいへん面白かったこともあって、続く2冊目は先月発刊されたばかりの新刊『敗れても 敗れても ~東大野球部百年の奮戦』を手にしている。どちらも僕の好きな「大学野球」が題材になっていて、スラスラと読み進められる。




by kirakuossan | 2018-06-11 19:00 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ⑤

2018年6月9日(土)

東都大学野球1958年(昭和33)秋のリーグ戦。第5週までの戦績は、①日本大学4勝(勝点2)⓶専修大学4勝2敗(勝点2)③駒沢大学4勝4敗(勝点1)④中央大学3勝3敗(勝点1)⑤学習院大学3勝4敗(勝点1)⑥東京農業大学1勝6敗(勝点0)であった。開幕前は、同年の春を制した中央大、それに専修大、日本大の3校が優勝候補に挙げられ、5週のこの時点では日本大と専修大が有望視されていた。ところが学習院大が全勝の日本大にまさかの連勝をし、俄かに様相は変わって来た。①専修大6勝3敗(勝点3)⓶駒沢大7勝5敗(勝点3)③中央大・日本大・学習院大がそれぞれ5勝4敗(勝点2)
この時点で駒沢大が学習院大に勝ち点を挙げれば初優勝に近づくということで、いよいよリーグ戦は混とんとしてきた。ところが学習院大はその駒沢大に根立、井元の二本柱が立ちはだかり、3回戦で井元投手が6-0と完封勝利を収め、駒沢大の初優勝の夢を打ち砕いた。それは同時に、ひょっとしてひょっとする学習院大の優勝の可能性も残す勝点3の奪取であった。そしてトップを行く専修大に日本大が勝ち点を奪い、いよいよ怪しくなって来た。


波乱に富んだ昭和三十三年東都大学秋季リーグ戦は、最終週で中央・専修がともに優勝の可能性を残して激突した。
専修が勝ち点を上げれば、もちろん優勝。中央が優勝するには、専修に連勝しなければならない。
問題は、中央が二勝一敗で専修を倒した場合だった。
この時、実に勝ち点三で五チームが並ぶという前代未聞の事態となる。そして勝率の関係で、中央、日大、学習院の三チームが「七勝五敗・勝ち点三」で完全に並ぶという予想もしなかった結果が生まれることになる。
この場合、勝ち点は同じ「三」だが、駒沢と専修は「八勝七敗・勝率五割三分三厘」となり、中央、日大、学習院の「五割八分三厘」に及ばず、優勝圏外に転落するのである。
ネット裏では、「専修の優勝が一週のびただけだろう」という予測が大半だった。


優勝のかかる専修大vs中央大戦で、絶対のエース坂井で初戦をものにした専修大だが、何を焦ったか、続く2回戦でも1回戦で延長10回まで投げた坂井を連投させた。そしてまたもや延長となり、13回に専修大がサヨナラ負けを喫する。
専修大はここで力尽きた感じで、3回戦で1-2で敗れ、まさかまさかの三つ巴優勝決定戦が現実のものとなった。
ところが優勝決定戦の三つ巴の戦いは2度繰り返されるが決着つかず。連盟の判断は「優勝預かり」を決定しようとしていた。

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連盟側から案の定、「優勝預かり」が提案された。
すでに野球をやれる環境ではない。とにかく寒すぎる。優勝預かりやむなし、だった。中央、日大はともに了承した。
だが、その時、学習院のマネージャー松木が口を開いた。
「もう一度だけ、もう一度だけやりましょう」
学習院は前年、柳谷部長が東都大学野連盟の理事長、そして松木が連盟の総括マネージャーを務めていた。二人とも連盟の運営については、すべて知り尽くしていた。
「・・・・・・・」
一瞬の沈黙が流れた。
「そうは言っても球場が・・・」
すでに十一月も下旬だ。神宮球場をこれ以上使うことは許されていなかった。球場がなければ、さすがに優勝決定戦もない。
その時、松木は、こう言った。
「駒沢球場があります」
東映フライヤーズの本拠地である駒沢球場は、プロ球団がフランチャイズにしているだけのことはあって、この十一月下旬が来てもまだ「使用可能」だった。
当時の駒沢球場の場長だった田沢八十彦は東都大学リーグに理解の深い人物だった。あらかじめ松木は、駒沢球場を使わせてもらえるか、田沢に電話を入れていたのだ。
「せっかくこれだけの注目を集めているのですから、もう一度だけやりましょう」
球場まで用意されていては、中央、日大としても、拒否できる理由は見つからない。各大学とも授業を休講にしていた。そのため、学生は心おきなく応援に駆けつけることができた。優勝決定戦は、学生たちにも評判が上々だった。
「仕方ない、やるか・・・」
中央と日大のマネージャーが目と目を合わせて頷いている。
連盟の総括マネージャーを前年に努めた松木の貫禄勝ちだった。この席に来るとき、松木は、
「松木、絶対に続けさせろよ!」とナインから言われていた。学習院の面々は、闘志満々だったのだ。


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決定戦続行の知らせを聞かされた中央と日大ナインたちは「えッ?」「本当か?」といったのが偽らざる本音であった。すでにこの時点で勝敗は決した。
学習院大学野球部が悲願で唯一の優勝を手にした。それは1958年(昭和33)11月も押し迫った25日のことであった。



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学習院大学が奇跡の優勝を果たしたその翌日、1958年(昭和33)11月26日午前9時、宮内庁から発表があった。「明日11月27日午前10時から、皇居東の間において皇室会議が開かれる。議題は、皇太子殿下の婚姻に関する件である」


皇太子のご婚約は学習院の優勝と同じく大逆転劇であり、不思議なほど、学習院の優勝への戦いと同時進行している。
当初、連続して勝ち点を落とした学習院が覇権に向かって歩み始めるのは、十月に入ってからである。あきらめず、こつこつと立ち向かっていった学習院ナインが、同率首位に這い上がり、優勝決定の三つ巴戦への参加が決まるのは、十一月八日のことだ。それは皇太子が電話攻勢でやっと美智子の心を動かした時期と重なる。
また、皇太子が正田家から婚約承諾の知らせを受取った日の翌十一月十四日、学習院は優勝を九分九厘決めていた中央を逆転し、穴沢のサヨナラヒットで二度目の優勝決定シリーズに持ち込んでいる。
そして、前述の通り、宇佐美宮内庁長官が、天皇家の正式な使いとして正田家を訪問する十一月二十一日、学習院は再度の優勝決定戦で初優勝をかけて中央に挑み、皇太子はこの闘いを神宮球場のスタンドから見つめた。
それは、それまで逆転に賭けて突き進んだ皇太子と学習院大学野球部が見事に”クロス”した瞬間だった。
皇太子はこの時、愚直に、誠実に、戦いを挑む後輩たちに対して、心からの拍手と声援を送っている。ひょっとしたら皇太子はその時、母校のために戦う後輩たちと自らを重ね合わせていたのかもしれない。
あの時に見せた皇太子の心からの笑顔には、おそらく逆転を成し遂げた自身の輝かしい未来への夢と希望も含まれていたのだろう。
皇太子殿下と学習院大学野球部―両者が大願を成就させたのは、あの小金井の学習院仮校舎の光華殿前広場で、皇太子と草刈が、戸田侍従に野球の手ほどきを受けてから十二年後のことだった。

門田隆将著「神宮の奇跡」



学習院大学野球部が3度にわたる三つ巴の優勝決定戦を制した1958年(昭和33)は長嶋茂雄選手が4打席4三振でデビュー、 富士重工業が「スバル・360」を世に出し、「チキンラーメン」なるものが登場し、 東京タワーが竣工、東京 - 大阪間に特急「こだま」が姿を見せ、聖徳太子の1万円札が流通もした、まさに新しい時代の幕開けを予感させる年であった。
今、学習院大学野球部は東都大学の3部リーグにあるが、1982年秋の3部降格後、2部リーグへの復帰は一度もない。2015年秋、久し振りの3部リーグ優勝、そして続く2017年の秋季リーグにも優勝、2部最下位の東京農大相手の入れ替え戦では緒戦に先勝、2戦目は逆転負け、3戦目は延長戦にもつれ込む大接戦となったが惜しくも敗れ、2部昇格はならなかった。そして今春のリーグ戦も勝ち点4で順天堂大と優勝決定戦まで進んだが敗れ2位になった。最近徐々に力をつけてきており、近いうちに2部昇格が実現、往年の雄姿を取り戻すかもしれない。



by kirakuossan | 2018-06-09 15:31 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ④

2018年6月8日(金)

1952年(昭和27)の春、学習院大学野球部は入れ替え戦で國學院大學を破り、悲願の東都野球リーグ1部入りを果たす。それから6年、苦戦しながらも一部に留まり、ようやく優勝候補チームにも勝利するほどの実力を蓄えるようになる。ところが1958年(昭和33)の春季リーグ、優勝候補の日本大学、中央大学から3勝を挙げる好スタートを切ったにもかかわらず、結局このシーズンはこの3勝だけにとどまり9敗して勝点1で最下位という思いがけない結果となってしまった。
入替え戦の相手は調子の波に乗る芝浦工業大学。学習院大学は初戦をエース井元俊秀の先発で臨むも2-4と落とす。続く2回戦は1年生投手の角原佑一、3年生の井元俊秀、最上級生の根立光夫の継投で3-1でどうにか勝利し、いよいよ雌雄を決する3回戦、場所を駒沢球場に移して行われた。この試合も井元が先発、3回から根立にスイッチ、緊迫した投手戦で0-0のまま延長戦へ。ところが10回で突如試合は終了となる。それはこの後、同球場でプロ野球の試合があるため、時間切れ引分けになったのだ。
1勝1敗1引分けのあと、4回戦が6月17日同じく駒沢球場でプレーボールとなった。学習院大学の先発は2年生の秋山正、しかしその作戦は裏目に出て、1回裏からピンチを迎え、早くも4年生の根立をマウンドに送った。しかし初回から3点を奪われ苦しい展開に。すかさず2回に学習院も2点を返し、食い下がる。ただこの時、二塁ランナーで一気にホームへ突っ込んだ根立投手がベースタッチした際に右指の爪が剥がれてしまう・・・
根立は「自分の代でチームを2部に降格させるわけにはいかない、一部に引き上げてくれた草刈先輩に申し訳ない」といった思いつめた心境で、ボールは血に染まりながらも、痛みをこらえて投球する。しかしさすがに球威は落ち、3回に2点を追加され、2-5と劣勢に。しかし次の4回に学習院は2点を取り返し4-5と追いすがる。そして7回に、相手投手の乱調に加え、学習院の打線にさらに火がつき、7-5と逆転に成功した。しかしその裏、芝浦工大の粘りに1点差に詰め寄られ、ここで根立から井元へスイッチした。いよいよ試合は死闘の様相を呈してきた。

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ブルペンにいた井元は、根立の負傷を知らなかった。一年先輩で、温厚な根立を井元は尊敬していた。偉ぶるところが微塵もなく、ただ黙々と練習に打ち込む根立の姿は、一年下の井元の目標となっていた。
その根立が降板した。一点差。ランナーを二人残して自分に命運が託された。
やるしかない。井元は覚悟を決めた。
負ければ地獄。二部落ちである。
井元は、ストライクゾーンのぎりぎりを突くコーナーワークが身上だ、だが、相手も井元の配球は、先刻承知している。
バッターは当っている五番の伊藤だった。今日、すでに三安打している。
芝工大で最も危ない打者である。だが、勝負を避けて四球を与えてしまえば、満塁になる。六番の景山もこの試合すでに二安打四打点を上げて絶好調だ。
満塁で景山と勝負となったら、どうなるかわからない。
行くしかない。伊藤と勝負だ。井元はそう思った。
だが、伊藤は選球眼がいい。なかなか、くさい球に手を出してくれない。
外角を見極められ、ついにフルカウントになってしまった。ここでフォアボールは致命傷である。
内野から声が飛ぶ。
「打たせろ!俺たちに任せろ!」
田辺の声だった。
ファーストの江野沢からも声が聞こえる。
「大丈夫だ。思いっきり投げろ!」
サードの穴沢からは「PL!]という叱咤が聞こえた。
「PL!大丈夫だ。思い切って行け!」
そうだ。思いきり行くしかない。信じられるのは、自分の力だけだ。ここは投げるしかない。
外角のストレート。
これしかない。フルカウントから甘い球は投げられない。
渾身の力を込めてこれを投げよう。この球が打たれたら悔いはない。真っ向から勝負だ。
井元はそう思った。果たして、小幡が出したサインは、「外角ストレート」だった。
その球を半世紀経った今でも井元は忘れることができない。
井元のサイドハンドから放たれたスピードボールは、外角ぎりぎりに構えた小幡のキャッチャーミットに、糸を引くように吸い込まれた。
バッターは手が出なかった。ボールと思って見送ったのか。それとも・・・。
それは、どちらにジャッジされてもおかしくないボールだった。
「ストライク!」
一瞬の沈黙の後、高見球審の手が上がった。
どっというどよめきが起こった。
「あれは、大学時代に僕が投げた球で最高の球でした。いや人生で一番の球でした。あれ以上のボールを僕は野球人生で投げていません」
井元は、七十歳を越えた今も、その球のようすを生き生きと再現する。年月を経ても、その時のボールの軌道が頭から離れないのである。
それはまさに「人生最高の球」だった。
土壇場で発揮された勝負強さ。それは修羅場をくぐって来た男の強さ以外の何ものでもなかった。

門田隆将著「神宮の奇跡」




結局、学習院大学は8-6で勝利し、一部に残留した。井元俊秀投手の投げたその球が学習院を救った。もしここで負けていたら、学習院のあの秋の奇跡は起こらなかった。


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 21:53 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ③

2018年6月8日(金)

引き揚げで日本へやっとの思いで辿り着いた井元俊秀は義母が「ひとのみち教団」(PL教団の前身)の信者だった影響で佐賀の鳥栖に行き、鳥栖の小学校へ通い、やがて全国のPL教団の寮を転々としながら野球好きの少年に育っていく。
1952年(昭和27)、東京の都立戸山高校に入学、勉学に野球に励んでいると突然、大阪に戻ることになる。富田林にPL学園を開校することになり、代々木のPL寮は閉鎖することになるからだ。
造成中のPL学園にやって来ると一期生は男子が13名、女子が8名のわずか21名しかいなかった。1955年(昭和30)4月、PL学園高校が開校、井元は改めて高校3年生となった。


井元はさっそく野球部をつくった。しかし、造成中の学校では、練習のできるグラウンドさえままならない。だが、それでよかった。
とにかく井元は、硬球を握りたかったのである。無理やりつくった野球部で、井元はピッチャーとなった。井元は、PL学園野球部の”創設者”であり、同時に初代の”エース”となった。
しかし、ろくに経験者もいないこの野球部は、おそろしく弱かった。ブルドーザーが一年中、土地を造成している横のでこぼこのグラウンドで野球の練習をしているのである。野球用具が貴重だったこの時代、バットは三本、グローブは全部で七個しかなかった。強くなれと言う方が無理だった。
PL学園野球部は、府立堺工業高校(現・府立堺工科高校)に練習試合を申し込み、栄えある最初の対外試合がおこなわれた。井元が必死で投げて四対四で引き分けた。
次に富田林高校と練習試合を組んだ。今度はボロ負けだった。大量十一点を奪われ、味方が取ったのは一点だけだった。

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やがて井元は大学進学を迎えるが、実の両親がいなく、身寄りをPL教団に委ねている身では教主の意見に従うしかなかった。一期生で進学を望む者は一人一校だけ認めようという許可であった。しかもその条件は誰もが”さすが”と認めるような大学に限られた。中央大学、早稲田大学・・・と一人一人希望を告げ、井元は御木徳近教主の養女が在籍している学習院大学を選んだ。それは以前、都立戸山高校で野球の練習をしている時に、グラウンドで当時の学習院大学野球部の渡辺大陸監督に「君、学習院で野球をやらないか」と声をかけられたことからもきている。
ただ、井元が学習院の野球部に入る直前、渡辺監督は急逝しており、井元との再会は実現しなかった。


門田隆将著「神宮の奇跡」


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 07:01 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ⓶

2018年6月5日(火)

東都大学野球連盟の前身は1931年(昭和6)に中央大学、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学の新五大学野球連盟として創立された。
その5年後に 東京商科大学(現一橋大学)が加わり、東都大学野球連盟が誕生する。さらに1940年には上智大学、東京工業大学、東洋大学ら5大学が加わり2部制と入れ替え戦を施行することになる。東都の入れ替え戦は戦前から存在したのであるが、それは東京六大学や今の関西学生野球の6校固定制とは一線を画するところである。そして戦後になってから、 駒澤大学、大正大学、紅陵大学(現拓殖大学)につづき、1950年(昭和25)秋から学習院大学が二部に加盟することになる。学習院大は翌年春には早くも2部リーグ優勝、秋にも連覇して一部との入れ替え戦に臨む。春秋どちらも相手は國學院大であったがエース永田芳彦投手が奮闘するもいずれも敗退して上部リーグには昇格できなかった。



翌昭和二十七年春季リーグ戦で、またも優勝を遂げた学習院は、三たび國學院大學との入れ替え戦に臨んだ。
第一戦の先発マウンドに立ったのは、四年生の永田ではなく、一年生の草刈である。前年の入れ替え戦にすべて先発して完投した永田に代わって、学習院は若い力、草刈をこの闘いのマウンドに送ったのである。



明仁(今上天皇)の家庭教師であったヴァイニング夫人が、「殿下が一人ではないほうがよい」という判断から、家庭教師を一緒に受ける学友が選ばれた。一人は元台湾総督の明石元二郎の孫にあたる明石元紹、そしてもう一人は一般人の子息である草刈廣、彼がこの一年生投手草刈である。
第一戦は草刈のケレン味ない投球が相手打線を抑え込み、8-1で快勝した。そして一部昇格まであと1勝とし、学習院ナインは6月20日に神宮球場に乗りこんだ。ここで親友の声援に明仁(今上天皇)も駆けつける。
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先発は、四年生の永田、四回からリリーフした草刈とのリレーで、これまた七対二の快勝、ついに学習院は、悲願の「一部入り」を果たすのである。
皇太子の応援で硬くなったのは、むしろ國學院の方だった。皇太子が応援席にやってくるや、それまで飛んでいた野次が影をひそめ、急におとなしくなってしまったのだ。
草刈のシュートとカーブがコーナーにびしびし決まり、反撃の狼煙を上げることなく、國學院は敗れ去った。
こうして、明仁は学習院野球部の「栄光の時代」が始まる目撃者となるのである。永田の卒業後、学習院大学野球部を引っ張っていくのは、草刈である。
草刈は、四年間で東都一部リーグ二十三勝(三十四敗)という戦績を残している。

門田隆将著「神宮の奇跡」


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-05 20:46 | 文芸 | Trackback

「神宮の奇跡」 ①

2018年6月5日(火)

11日から第67回全日本大学野球選手権大会が開かれる。わが立命館大学は関西学生野球連盟代表として2年ぶり18回目の出場を果たした。
過去66回の大会で関西から優勝を飾ったのはわずかに7度、関西学生連盟から近畿大が4回、関西大が2回、それに阪神大学野球連盟からあの上原浩治を擁して栄冠を勝ち得た大体大だけである。最多優勝は東京六大学野球連盟が25度、東都大学野球連盟が24度とこの二リーグで実に7割以上を占めている。昔から”人気の東六、実力の東都”と評されたが、まさに実力伯仲なのである。今年は東六から慶応大、そして東都からは東洋大が出場することになっている。
ところでその東都大学リーグは例年実力が接近しており、長い歴史の中で最多優勝が専修大で32度、次いで駒沢大の27度、亜細亜大の25度、中央大の24度、日本大の23度、東洋大の19度と続く。そのなかで後にも先のもたった一度だけ優勝に輝いたチームがある。今では下位の3部リーグに甘んじてはいるが、学習院大学野球部である。
門田隆将著「神宮の奇跡」はその様子を語ったノンフィクション小説である。



d0170835_07353904.jpg徳寿丸は、人々の複雑な思いを乗せて博多港に入港した。
「生きて帰ってきた」
俊秀は、そのことが信じられなかった。父も妹も死んだ。友だちも次々命を落としていった。自分だけが生きて帰ってきた。
博多港で父を亡くしたその九歳の子と、
「がんばってね」
「幸せになろうね」
と言って、別れたことを井元は覚えている。
あの子はその後、どうなったんだろうか。七〇歳を超えた今、井元はあの時の少女が幸せな人生を送ったのかどうか、時折思い出している。


野球とはほど遠い、戦後まもない満州や朝鮮での過酷な生活ぶり、やがて引き揚げて日本へ帰ってくる。それまでの様子を生々しく描いたその書き出しから度肝を抜かれるが、そのことがこの小説をよりいっそうドラマチックなものに仕立て上げている。


つづく・・・




by kirakuossan | 2018-06-05 06:48 | 文芸 | Trackback

「落日の宴」 その3 「この人、第一の人にて、眼差しただならず、よほどの者也」

2018年5月6日(日)

d0170835_15132680.jpg川路は、プチャーチンと対しているうちに、自分より二歳下のプチャーチンがロシア皇帝の侍従武官長に任ぜられているだけに、すぐれた識見をそなえた人物であるのを感じるようになっていた。会議の席でも、その主張は鋭く、川路の反論に落着いた表情で耳をかたむけている。来航したアメリカ使節ペリーが、終始武力を背景に脅喝的な態度をとりつづけたのとは異なって、プチャーチンには日本の国法、国情を念頭に冷静に協議をすすめようという姿勢がみえる。
川路は、かれにひそかな敬意と親愛の情をいだき、日記に、「この人、第一の人にて、眼差しただならず、よほどの者也」と記した。
ロシア側も、川路がプチャーチンに「よほどの者」という印象をいだいたのと同じように、川路を高く評価していた。プチャーチンの秘書官ゴンチャロフは、「日本渡航記」に、
「川路は私達はみな気に入っていた。・・・川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、なおこの人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが―すべて良識と、機知と、炯眼と、練達を顕わしていた」と、書きとめている。


プチャーチンは通商問題でもゆさぶりをかける。「もしロシア船が薪や水、食料を絶やして日本の港に入港したらどのような扱いをするのか」これを受けて川路はどこの国の船であろうと無償で提供すると答えた。プチャーチンは有料にして欲しいという要請に、川路は落ち着いた口調で「通商の協定が結ばれる前にそういったことをすれば、とりもなおさず貿易のきっかけを作ったことになる、物事には順序というものがある」
つごう5回の会談を終える頃、その年の年末を迎えていた。


「およその会談も、これにて一応終了し、大慶に存じます。ただし、お名残り惜しくもあり、今一度最後の御面談をいたしたく思いますが、ご都合はいかが」とたずねた。
川路は、「日本暦で歳末をむかえ、正月元日、二日、三日は御面談できかねます」と答え、最後の会議を一月四日と決定した。
さらに川路は、
「中村為弥に持参させます書面は、使節殿の顔を立てるために心をくだいて記したものにいたしますので、一月四日にはめでたく合意に達することを願っております」と口もとをゆるめて言った。
プチャーチンは、
「たとえ四日に合意に達せずとも、このたびは、その日を最後に快くお別れすることを願っています」とおだやかな表情で答えた。
これで会談は終り、プチャーチンは、
「御一同様、めでたく新年をおむかえ下さい」と挨拶し、西役所を去った。

長崎の町々には、歳末のあわただしい動きがみられた。
門松が立てられ、餅つきの音がさかんにきこえ、鏡餅にそえて親戚にくばる男の姿がみられた。木綿合羽に白木棉の脚絆をつけた掛取りの男が、足ばやに家並の中を往き来していた。

吉村昭著小説『落日の宴』より。



つづく・・・



by kirakuossan | 2018-05-06 14:41 | 文芸 | Trackback

「落日の宴」 その2 歴史的会談のはじまり

2018年4月29日(日)

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川路、筒井が長崎に着いたのは1853年12月8日の夕六ツ(午後六時)、江戸を離れてから40日近くを要したことになる。プチャーチンは7月18日に長崎に入港、長崎奉行の大沢安宅に国書を渡したあと、4か月も幕府の全権を待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かう。そして再び長崎に戻って来たのは川路らが長崎に着く3日前の12月5日であった。
旗艦「パルラダ号」をはじめ4隻のロシア船はいずれも多くの砲を装備し、港を圧するもので川路らは威圧される思いを感じた。

ロシア政府の国書に対する幕府の回答書の要旨は以下のようなものであった。


樺太、千島の日露国境を明確にしたいという貴国の要求をうけいれることに決定したので、貴国使節は慎重にわが国の応接掛と協議して欲しいこと。貿易については、長い歳月堅持してきた鎖国政策にもとづいて、これまでわが国は貴国の要請を固辞してきたが、世界情勢のいちじるしい変化を考慮し、鎖国政策に固執せず協議に応ずる用意がある。アメリカ使節ペリーが来航して通商をもとめ、今後、各国がつづいて同じ要求をすることが予想されるが、これを容認するかどうかは、朝廷の意向をうかがい、諸大名の考えもたださねばならず、三年から五年の歳月を必要とする。気長なことと思われるかも知れぬが、貴国におかれてもよろしく幕府の意向を重んじ、疑念などいだかず待って欲しい。貴国は、わが国の隣国であるので、丁重に応接するため特に重臣二名を長崎につかわした次第である。


そしてようやく第1回目の会談が、12月20日に西役所で行なわれることになった。その日は朝から激しい雨が振っていた。プチャーチンは随員を伴って、艦から持ち込んだ椅子に、川路、筒井たちは二枚重ねの畳の上に座った。


プチャーチンは、「御両者の御説明で御回答書の趣旨は、ほぼ諒解いたしましたが、いずれにしましても三、五年を要すとははなはだ常識を欠いております。一、二ヵ月ならお待ちしますが・・・」と不快そうに眉をしかめた。
川路は、かさねて協議は回答書の範囲内にかぎると強調し、筒井も、回答書以外のことについて協議の意志がないことをつたえた。
ついで、北辺の地の国境問題に議論が移った。
プチャーチンは、
「千島は、南は日本、北はわが国で支配いたしております。エトロフ島は、古くからわが国の人民が住んでおりましたが、その後、貴国の人民が移り住むようになっております。現在、日本としては、エトロフ島をいずれの国の所領とお考えか」と、たずねた。
川路は、
「千島はすべてわが国に所属する島でありましたが、徐々に貴国に蚕食され、島名も変えられている」
と前置きし、文化年間に蝦夷地に来航した「ディアナ号」艦長ゴロヴニンが書いた著書「遭厄日本紀事」に、ゴロヴニンと日本側との間でエトロフ島は日本領、その北のウルップ島を日露中立の島とする協約をむすんだことをあげ、
「エトロフ島には日本の番所ももうけられ、もとよりわが国の所領であることはいささかの疑いもありません」と断言した。
これに対してプチャーチンは、
「ゴロヴニンは、わが国の正式の使節ではなく、かれの著書をこのたびの協議の参考にすることは承服しかねる」と、反論した。
双方で激しい主張がくり返され、結局、妥協は見出せず、この問題は次回にあらためて協議することに意見が一致した。
ついで樺太国境画定問題に入った。
プチャーチンは、国境が画定した場合には同島に駐留する露国守備隊をただちに撤兵させる、と提案したが、川路は、国境画定には実地調査をするのが前提であり、それには数年を要すると述べ、この会談で決定するのは不可能である、主張した。プチャーチンもその意見に理解をしめし、あらためて次回に話し合うことになった。

吉村昭著小説『落日の宴』より。



つづく・・・




by kirakuossan | 2018-04-29 07:42 | 文芸 | Trackback

芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。

2018年4月28日(土)

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 芸術論

 つぎに、芸術について一言すれば、芸術は畢竟人工的に美の理想を実現するにあるので、自然美に対すればその進歩は比較的はるかに迅速である。芸術美と自然美とにかかわらずすべて美は主観的のもので、けっして客観的のものではない。しかし美が単に主観的たるにとどまっていては、芸術は成立しない。諸種の材料をかりて美を客観的にあらわすに当って芸術が成立するのであるが、芸術は単に快感の客観化されたものではない。快感を超越した要素がなくてはならぬ。もとより崇高、深遠、幽邃、壮大、雅麗等の諸性質はそなえておらなければならぬが、また超快感的の気韻情調の観るべきものを必要とする。すなわち人を引いて彼岸の理想境に入らしむる底の魅力がなくてはならぬのである。しかし芸術の原理を功利的に見る一派がある、その説によれば芸術はいかにしても功利的に制限されるものである。社会の要求により、経済の状態によって制限されるもので、芸術家もその要求に応ずるような態度に出でて、その要求の向うところに発展をとげる。かようにして芸術は畢竟功利的に制限され、客観的にその性質を規定されるもので、主観的にいかに高尚な理想があっても発展の遂げようがないとみる人があるけれど、それは真の芸術を理解したものではない。単に功利的に制限され、規定されるようなものはけっして崇高の真の芸術ではない。芸術の原理はこれを主観的に求めなければならぬ。芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。

明治哲学界の回顧結論――自分の立場
井上哲次郎

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d0170835_07352809.jpg井上哲次郎(1856~1944)は明治時代の日本の哲学者。欧米哲学を多く日本に紹介し、帝国大学で日本人で初めて、哲学の教授となった。
新体詩運動の先駆者でもあり、外山正一(社会学者)、矢田部良吉(植物学者)と『新体詩抄』を刊行した。



by kirakuossan | 2018-04-28 07:17 | 文芸 | Trackback

「落日の宴」 その1 長崎へ出立

2018年4月21日(土)

勘定奉行川路聖謨(としあきら 1801~68)は豊後国日田の人である。そう、あの小鹿田焼で名高い日田の出身である。
1853年(寛永六年)6月、江戸湾にペリーを使節とした4隻のアメリカ軍艦が入ってきた。さらに7月にはプチャーチンを使節とする4隻のロシア艦隊が長崎入港を迫って来た。プチャーチンは長崎入港のあと、ただちに江戸に出向き老中らとの折衝を希望しているが、もし江戸湾にロシア艦隊まで姿を見せれば人心の動揺ははかり知れず、あくまでもそれを回避すべく老中に準ずる者を長崎に派遣させ、その地でプチャーチンと接触させることに意見が一致した。人選が進められ、10月、西丸留守居筒井政憲、勘定奉行川路聖謨、目付荒尾成充、儒者古賀謹一郎の4名にその命が下る。そして出発は10月晦日と決定した。
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ロシアの国書に対する幕府の回答書は、荒尾がたずさえて先発する予定であったが、清書に手間どって翌日の出発に間に合わず、川路が先行して、清書ができ次第、川路にとどけることになった。
翌朝は晴れで、川路の行列は五ツ(午前八時)に虎ノ門の自邸を出立した。筒井はつづいて四ツ(午前十時)に、荒尾は八ツ(午後二時)に出発の予定で、それは道中、宿場での宿泊や人馬の調達に支障をきたさぬよう少なくとも一日の間隔をおいて旅をする配慮によるものであった。
途中まで親族、友人その他出入りの町人ら多くの者の見送りをうけて行列はすすみ、戸田の渡しで荒川をこえ、蕨宿で昼食をとり、大宮宿で止宿した。
翌日も晴れで、行列が宿場をはなれると、川路は駕籠をとめさせており、歩き出した。五十三歳とは思えぬ軽い足取りであった。
かれは通常、足腰をきたえることに異常なほどの熱意をいだいていた。夜明け前に起きて居合抜、大刀の素ぶりをつづけた後、甲冑を身につけ大刀をさして走るようなはやさで歩くことを日課としていた。旅で一日三十里歩くという間宮林蔵の健脚に感嘆し、夏期に間宮が裸足で歩くのを習いとしているのは足の裏が柔らかになるのをふせぐためだときき、かれは毎朝の歩行も裸足にした。そのような鍛錬をしてきたかれは、駕籠の中でゆられているより歩く方が気分が爽快だったのだ。
上尾、桶川、鴻巣の各宿場も徒歩ですぎ、その日の泊りである熊谷宿に入る時に、勘定奉行の威厳をたもつため駕籠に乗っただけであった。
寒気はきびしく、往来の打水は凍っていた。家来に持たせていた寒暖昇降器は、華氏四十度をしめしていた。


そんな川路であったから、ほとんど徒歩で中山道を進んだ。幕吏としては常に倹約、生活を質素を極め、衣服は綿を身につけ、食事は一汁一葉。ただ酒は好んで飲んだが、旅をするときは禁酒を守り通した。
やがて本庄、松井田、そして望月を経て、和田峠では大吹雪に見舞われ、華氏32度を計測した。(摂氏0度)

吉村昭著小説『落日の宴』の始まりである。



つづく・・・




by kirakuossan | 2018-04-21 21:31 | 文芸 | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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