信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan

2016年 10月 07日 ( 1 )

2016年10月7日(金)

d0170835_11233367.jpg一時期、作家野上弥生子に興味を持ったことがある。この人の頭脳の明晰さ、男勝りの気性、それにその好奇心旺盛な若々しさに感心したものだ。女流作家ではこの人が一段高いところに位置すると思う。加藤周一はこの才女とも面識があった。

その頃野上弥生子さん(1885~1985)は北軽井沢の林のなかの一軒屋にひとりで住んでいた。私が訪ねたのは、1975年の晩夏ではなかったかと思う。その家へ行く小径には落葉が散り敷いていたし、すすきの穂がのびて明るい午後の陽ざしに光っていた。居間には大きな薪ストーヴがあって、その上に置いたやかんに湯が沸いていた。「お茶を入れましょう。このお湯で朝からお茶を飲んでいるの」と野上さんは言った。抹茶をたてるのかな、と私は思った。いや、そうではなくて煎茶、それが健康によろしい、という。ひとり暮らしでも、買い物はとどけてくれるから、不便はない、食べものは自分で調理して不自由を感じない、という話。あれこれ日常生活のことを話しているうちに、郵便物が一束届く。「あ、これ文芸春秋ね、これは中央公論」などと呟きながら、封も切らず、そのままストーヴに投げこんだのには、おどろいた。
d0170835_15522976.jpg
d0170835_15535542.jpg何かのほかの本で読んだことがあるが、晩年、彼女は春になれば東京からここ北軽井沢の別荘にやってくる。そして短い夏が終り、晩秋になるころ、また東京へ戻る。ちょうど1年の半分は信州で過ごすわけだ。軽井沢高原文庫に野上弥生子の書斎兼茶室が移築され、今も当時のままで保存されている。その前で一足休めて色々と空想に耽った。この山荘を「鬼女山房」と称した。(2013年11月18日撮影)

d0170835_11575220.jpg加藤周一は1975年に野上を訪ねた頃は、アメリカの大学の教師をしていた。ちょうどその夏休みに帰国して、信州に出向き、北軽井沢にもやってきたのだ。75年の春、サイゴンの米国大使館の屋上から最後の米国人たちがヘリコプターで逃げ出して、ヴェトナム戦争は終わっていた直後での面会だった。

「学生たちの反応はどうでしたか」と野上さんは言った。「何もなかった・・・」と私は呟いた。戦争はもはや学生食堂の話題でさえもなかったし、強いて感想をもとめれば二言三言の短い答えが返ってくるだけで誰もその話には乗ってこなかった。米国社会は、ヴェトナム敗戦を、あたかも何事もなかったかのように忘れようとしていたのである。「なぜだろう」と野上さんの質問はつづき、私は計らずも知る限りの米国事情について喋ることになった。三カ月足らずの夏休みの間に私が会った人々のなかで米国の現状についていちばん多くの質問を発したのは、山中に茶を楽しむ九十歳の野上さんであったかもしれない。

d0170835_11594567.jpg加藤周一著『高原好日』より。。。


おしまい。


.
by kirakuossan | 2016-10-07 11:20 | 文芸 | Trackback