ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

2013年 06月 09日 ( 2 )

保田與重郎という人 その4

2013年6月9日(日)

晩年の保田先生との出合いは、私にとって決定的という程有意義なものでした。その当時、興味半分、日本文化の麓で遍歴していた私は、突然、荘厳な山頂に対面した感じがしました。長い日本文化の累積が結晶したような師として彼を尊敬しました。そして、それ以上に、自己憐憫を許さないで、人を謗らないで、時勢に譲らないで、自分のくらしをもって自分の理念を表現する東洋の賢人、文人の偉大さを感じました。敗北の予感が早くからあった保田先生は、現実の敗北の結果、文人としての本質をいっそう充実させたのではないかと思います。~
かつて三島由紀夫が書いたように、日本人の忘れようとしている海底にある放射性廃棄物そのものが、保田與重郎であります。この点に、保田與重郎の悲運があります。彼を評価するには、日本人は現在忘れようとしている、しかしまだ血を流している痛ましい傷の中に手を深く入れなければなりません。近代化、戦争、戦後・・・民族の歴史の継続性・・・保田與重郎はこれらの言葉に秘められている、ややこしい未解決の問題をかかえています。しかし、逆説的に、あの三島の言葉は、保田與重郎の偉大さも暗示しています。放射性廃棄物は永久にその能力を失わないと同じように、保田は抹消してしまうことのできない存在であります。日本の文化や精神的な歴史を整理しようとしたら、必ず保田與重郎にぶつかります。
~ヴィルピッタ・ロマノ(比較文化論学者)理念とくらし


d0170835_1632215.jpg数年前、岡倉天心の墓を拝したころには、保田與重郎先生はこの世に在って、私の前で静かに酒を酌み、深く澄んだ目をなさって、とめどなく語りつづけるのだった。
天心は偉大な詩人。天心が<アジアは一つ>と説いたのは、彼が偉大な詩人の証・・・
関西なまりの保田先生の声は低く、しかし、いつでも確信に充ちていた。それは、そのまま「天心の精神は、彼自身の文学に於いて、さらに偉大なあらはれをした。彼は東洋の精神は、最も深く日本の藝術の歴史の中に顕現してゐることを知った。彼は日本の藝術を説くことによって、東洋の理想を描いた」という「日本語碌」の一節につながる。私はこの<語録>を少年時代から片時も離さず、今、「真の歴史家は詩人でなければならぬ」という「日本の文学史」の一節を心に置く。未生と未完の二つの闇に閉ざされた日本の文学。それを保田先生は見通す。だが私はいつもの闇の中なのだ。突然、保田先生は、「阿部さん。アジアは本来、一つなのです」と言われた。それは闇の中で一節に光る言葉だった。
~阿部正路(歌人)上弦の月


小林秀雄は晩年のある日、訪ねてきた一青年がフランス語を勉強したいというと突然、甲高い声で「バカ。フランス語なんてやる必要はない。漢文の勉強をしろ」と叱責したそうである。本居宣長が儒学に精通していたことは誰でも知っている。蘐園派と宣長あるいは古義堂学派と宣長の関係を独学追及していたこの往年のランボウ論者がみずから焦ら立ちを隠しきれなかったのはよく分る。
保田與重郎は小林秀雄が延々と「新潮」に連載しつづけた「本居宣長」を丹念に読み、感想を書き送って励ましつづけた。そのことあればこそ、義仲寺でとりおこなわれた保田與重郎の葬儀に小林秀雄は馳せ参じたのだろうと思われる。
日本の古典という「自然」は、保田與重郎の指呼の間に横たわっていた。勘の鋭い猟犬のようなところがあったから、獲物が森かげ、泉のほとり、岩の間、草むらのどこにひそんでいようと、嗅ぎつけて接近し、突進し、思いどおりに獲物の喉笛をかみ切ることくらい、保田與重郎には朝飯まえのことだった。~
今年も壬生狂言の「土蜘蛛」を見た。そして私は保田與重郎のことを思った。あれはまさに土蜘蛛のような人ではなかったか。大和土着の豪族の末裔は、後世の征服者(頼光たち)に対して、土饅頭のあたまを楯に、不服従をみずからに誓い、呪言とともに糸を吐き、抵抗しつづけた。ついに打ち取られたというのは芝居の上での話であって、あの土蜘蛛はいまも塚にひそみ、猟犬とも鷲鷹ともひそかに内通しながら、塚のなかで野生の知恵をたもっているような気がする。
~杉本秀太郎(フランス文学)土蜘蛛

『私の保田與重郎』(著者:谷崎昭男ほか/新学社刊)より


つづく・・・
by kirakuossan | 2013-06-09 11:14 | | Trackback

読響は大人のオーケストラ

2013年6月9日(日)
今朝、先日放映された読響の演奏ビデオを見る。演目はブルックナーの交響曲第5番。正指揮者下野竜也の読響とのお別れ公演で、彼の一番好きなシンフォニーを6年間生活を共にしてきた仲間たちとの演奏で最後にやってみたい、ということで実現した。
d0170835_873231.jpg

この5番にはこんな話がある。1894年にフランツ・シャルクの指揮で初演されたが、その時にブルックナーのスコアに大幅な改訂を施した。第3楽章や第4楽章を大きくカットし、第4楽章には金管やシンバル、トライアングルを補強したりしている。こういったシャルクの改訂は、長大で難解なこの交響曲を普及させるために行ったという「好意的」なd0170835_8111551.jpg見方もあれば、ブルックナー本人の意図したものと異なり、音楽性が損なわれるとした批判もある。僕はどう考えても後者の方の考えだ。このときブルックナーは会場に来ておらず、本人がこの事を事前に知らされていたかどうかは不明だが、シャルクの勝手なお世話で、作曲者に対しても失礼であろう。シャルクによる改訂版はのちにハース校訂による版が出るまで唯一のスコアとして演奏されていたという。今ではほとんど使われなくなった。

この第5番は何と云っても最終楽章が聞きもので、フィナーレの力強さは第8番と比肩される。この日の演奏もまさにそういった演奏であった。
冒頭のインタヴューで指揮者下野が語っていた。「初対面の11年前の読響の印象は?」
「最初、怖いというのを聞いていた。でも怖いけど楽しかった。確かに厳しい雰囲気はあったけれど、あなたはどうしたい? 僕はこうしたい、そしたらやろうじゃないか、といった雰囲気で・・、大人のオーケストラだなあ、大きなオーケストラを振らしていただくんだなといった印象を持った」
民放でこの1時間20分の長大な曲をやるのは珍しいが、CMなしでぶっ通しで流すのかと思ったらやはりそれは無理だった。3楽章に入る前に、けったいな動物が出て来て、自動車保険を”見直そう~見直そう~”のメロディーが流れるのには参った、興ざめである。

ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調
読売日本交響楽団
下野竜也(指揮)

2013年2月18日
サントリーホール
by kirakuossan | 2013-06-09 07:02 | クラシック | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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