2020年 02月 11日
クラシック雑記帳 31 2つのフリーメイソンのための音楽 |
2020年2月11日(火)
モーツァルト:
フリーメイソンのための小カンタータ「高らかに我らの喜びを」K. 623
モーツァルトとフリーメイソンの出会いは1773年に遡る。モーツァルト17歳、ウィーンに滞在していたモールァルトは初めて劇作家トビアス・フォン・ゲプラーを通じてフリーメイソンを知ることになる。入会は1784年12月14日、28歳になっていた。これを境に彼の音楽は変化し、より完成度を高めてゆく。85年のピアノ協奏曲第20番 ニ短調K. 466とピアノ協奏曲第21番 ハ長調K. 467を皮切りに、86年「フィガロの結婚」K. 492、交響曲第38番 ニ長調 「プラハ」K. 504、87年にはセレナード第13番 ト長調 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K. 525。そして、1788年にはいわゆる3大交響曲と称される交響曲第39番 変ホ長調K. 543、交響曲第40番 ト短調K. 550、交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」K. 551が相次いで生まれ、楽曲のピークを迎える。
このころフランスでは、ルイ14世の時代からずっとイギリスと百年戦争を戦ってきた。三身分(聖職者・貴族・平民)分けの構成は厚い壁だったが、ようやく18世紀も終盤なって、この事態を打破すべき出来事が起きた。1789年7月14日、自由・平等・友愛をスローガンとしてフランス革命が始まった。
一七九一年に国民議会は憲法を制定します。立憲君主制、制限選挙を柱としています。そして新しい憲法に基づく立法議会が招集されました。立法議会は立憲君主派のジロンド派が多数を占めました。なお、この年にメートル法が定められます。
また、この年の終りにウィーンでモーツァルトが死去しています。<略>
ナポレオンは一七九九年八月、ひそかにパリに帰還すると、革命暦のブリューメール一八日のクーデタ(11月)によって総裁政府を倒して憲法を改正し、みずから第一統領となり、統領政府を樹立しました。そして一八〇〇年、オーストリアと開戦してこれを破り、リュネヴィル条約(1801)でライン川左岸を全部割譲させました。この条約により、第二次対仏大同盟は崩壊しました。ついにフランスはルイ一四世も果たせなかった、ライン川を自然国境にするという宿願を実現したのです。内政面でもナポレオンはフランス銀行を設立して通貨の安定を図りました。
新大陸では一八〇〇年、アメリカ合衆国がワシントンに決定しました。
(出口治明著「全世界史」下巻より)
1797年にシューベルトが生まれ、モーツァルトが世を去って10年後の1800年、ベートーヴェンは初めての交響曲である第1番ハ長調op21を作曲する。そしてベルリオーズが生まれ、リストが生まれ、やがてワーグナーが生まれる。このシューベルト、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーらはいずれも秘密結社フリーメイソンの作曲家であった。
日本では、伊能忠敬が蝦夷を測量。 国学者本居宣長がなくなり、「東海道中膝栗毛」が出版されたころのことです。
Maurerische Trauermusik (Masonic Funeral Music), K. 477
シュターツカペレ・ドレスデン
ペーター・シュライアー(指揮)
モーツァルト自身の作品目録に「同志メクレンブルクと同志エステルハージの死去に際してのフリーメイソンの葬送音楽」と書かれてある。終始「厳粛さ」で表現された、入会直後のモーツァルトの転機に相応しい音楽である。
Laut verkunde unsre Freude, K. 623
ハンス・ペーター・ブロホヴィッツ(テノール)
アンドレアス・シュミット(バリトン)
ライプツィヒ放送合唱団
シュターツカペレ・ドレスデン
ペーター・シュライアー(指揮)
こちらの方は作品番号からもわかるように「レクイエム」k.626の二つ手前の最晩年の作品。1971年11月15日、亡くなる3週間前の作曲であるが、すでにすべてを悟りきったのか、曲調はどこまでも明るく、高らかに、喜びを歌い上げている。
ペーター・シュライアーの指揮で聴く。対照的なフリーメイソンのための2曲である。
by kirakuossan
| 2020-02-11 09:02
| クラシック雑記帳
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