2020年 01月 28日
「ぼくの101曲」 その3 マーラー第4番 |
2020年1月28日(火)
マーラー(1860-1911)
交響曲第4番 ト長調
Symphony No. 4 in G Major
<交響曲>作曲1900年
マーラーとブルックナーの違いは何か。これも片山杜秀氏が適確な説明をされている。
「ぼくの101曲」 その3
マーラー(1860-1911)
交響曲第4番 ト長調
Symphony No. 4 in G Major
<交響曲>作曲1900年
マーラーとブルックナーの違いは何か。これも片山杜秀氏が適確な説明をされている。
マーラーを好んで振る指揮者で、ブルックナーも得意という人はとても少ないわけです。逆もまた真です。極端にロマンティックで表現主義的でカラフルで、喜劇から悲劇まで、軽演劇からシェイクスピアまで、ころころと表情を変えていく、何がなんだか分からないカオスを表現できる指揮者、多様さをどんどん振り分けられる指揮者が、上手にマーラーを振れる。
それに対してブルックナーを指揮するには、集中して、精神的な持続を達成することを求められる。いわゆる「宗教的」ということです。~
マーラーとブルックナーを、ユダヤとゲルマンの音楽性の違いと関連付けるとすれば、マーラーはまさにユダヤ的。「根なし草的」といいますか、汎世界的に拡がり、自由にさまよってゆく。それに対してブルックナーはタテに深化していく定住性の音楽ですね。深く深く掘ってゆく。あるいは上へ上へと延びてゆく。ニーチェに倣うなら、反復によって強化される永遠回帰の世界でしょうか。
(片山杜秀著「クラシックの核心」より)
ぼくも以前、指揮者にはマーラー派とブルックナー派が存在することはそれなりに感じていた。たとえば、ワルターに始まり、バーンスタイン、メータ、ブーレーズ、テンシュテット、といったあたりがマーラー派。片や、 クナッパーツブッシュ、シューリヒト、カラヤン、ヨッフム、ヴァント、朝比奈・・・がブルックナー派。そして器用にもどちらにも順応するのが、アバド、マゼール、ハイティンク、といったところか。これらのことはくどくど説明しなくても、顔ぶれを眺めるだけでどことなく頷き、ニヤリとさせるものである。
バーンスタインがブルックナーを指揮したり、また、朝比奈がマーラーを振るといったシーンはなかなか思い浮かばない。ただ不思議なことにそのバーンスタインが一度は振って見たくなったのか、ブルックナーの9番を最後の録音に唯一入れているし、逆にカラヤンは珍しくもマーラーを、それも9番を晩年に遺している。互いに刺激されたのか、どうかは知らないが面白い出来事である。
多くのクラシックリスナーがおそらくそうであるように、マーラー音楽と最初に接したのは交響曲第1番「巨人」であった。それまで、モーツァルトやベートーヴェンしか聞いたことのない耳は大いなる衝撃を受けたものである。そして第5番と次に接し、完全にマーラーにはまってしまった。
そしてそれをさらに決定づけることとなったのが、1972年12月8日に母親から買ってもらった一枚のレコード、1960年、バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮したマーラーの交響曲第4番であった。
それまでの1番や5番とは少し趣をかえた優しさと天上の美しさを兼ね備えたシンフォニー(レコードジャケットの影響も多少あろうが)というのが第一印象だったが、聴くにつれ、表面だっては気がつかないが、その奥にはマーラーの持つ華麗なオーケストレーションが凝縮されていることがよくわかる。
そして、思い出のレコードをいま聴いている。
Royal Concertgebouw Orchestra
レナード・バーンスタイン
Leonard Bernstein (指揮)
録音: June 1987, Live recording, Concertgebouw, Grote Zaal, Amsterdam, Netherlands
録音: June 1987, Live recording, Concertgebouw, Grote Zaal, Amsterdam, Netherlands
NMLの配信には1960年のニューヨーク・フィル盤はないので、1987年のコンセルトヘボウ盤を挙げておく。
by kirakuossan
| 2020-01-28 14:38
| 「ぼくの101曲」
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