2020年 01月 13日
「ぼくの101曲」 その2 ビゼー・アルルの女第2組曲 |
2020年1月13日(月)
ビゼー (1838-1875)
「ぼくの101曲」 その2
アルルの女 組曲第2番
L'Arlésienne Suite No. 2
<管弦楽曲>作曲1872年
ギュンター・ヴァントとまで顕著ではないにしても、カール・シューリヒトも大器晩成の指揮者であった。戦前、60歳代半ばころスイス・ロマンド管弦楽団に客演した際に、そのままスイスに亡命、そこから彼の運命は変わったようである。戦後、主にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演する機会が増える。そして彼の名を世に知らしめるきっかけとなったのが1956年のウィーン・フィルとのアメリカ演奏旅行である。このとき実は、あのカルロス・クライバーの父エーリヒ・クライバーが同行する予定であったが急逝し、その代役が70歳代半ばになっていたシューリヒトに回ってきたいきさつがある。そしてこのとき副指揮者として一緒に同行したのが51歳のフランスで活躍していたベルギー人指揮者アンドレ・クリュイタンスである。<その1>でも書いたが、面白いもので、ドイツ人指揮者シューリヒトがパリのオーケストラを指揮し、フランス系の指揮者クリュイタンスがベルリン・フィルを振った演奏が名盤となる。
ぼくがそもそもクラシック音楽を聴くきっかけとなったのが、小学生のころNHK第二放送で偶然耳にしたビゼーの音楽であった。曲目は「アルルの女」組曲。題からしてもどこかエキゾチックで、その時の美しい音色(といっても当時のラジオはモノでもちろん音質は不良であったが)が衝撃な印象となって心をとらえた。
「アルルの女」は、ジョルジュ・ビゼーによる全27曲の付随音楽で、アルフォンス・ドーデの同名の短編小説「アルルの女」からとられて戯曲上演のために作曲されたものである。付随音楽からこのうち編曲された2つの組曲が一般には広く知られている。例の「王の行進」で知られる第1組曲はビゼー自身がオーケストラ版の組曲としたもので、劇付随音楽が初演された直後の1872年11月10日に初演され成功を収めた。ぼくはこの第1組曲よりも第2組曲の方により惹かれる。実はこちらの方は、ビゼーの死後、1879年に彼の友人エルネスト・ギローの手により完成されたものである。
「アルルの女」といえば、第2組曲のなかのフルートとハープによる美しい旋律で展開される<メヌエット>がとくに有名であるが、実はこれはビゼーの歌劇「美しきパースの娘」の前奏曲や終楽章からギローが転用、編曲したものである。だから厳密にはこの第2組曲はビゼーとギローとの合作ともいえる。
この曲の名盤といえば昔からクリュイタンスがフランスのオケを指揮したものと相場は決まっている。カラヤンやアバドはこうしたメロディーの美しい音楽はお手の物だが、「アルルの女」に関してはクリュイタンスには及ばない。所蔵のパリ音楽院管弦楽団と1964年に録音した演奏は音質的にも最上に仕上がっている。ただ、NMLにはこの演奏の配信はなく1953年のフランス国立放送管弦楽団とのものである。
フランス国立放送管弦楽団
French National Radio Orchestra
アンドレ・クリュイタンス
André Cluytens (指揮)
録音: 1953
ビゼーの代表作は何といっても歌劇「カルメン」だが、それより先の25歳で書き上げた「真珠とり」でのテノールが高らかと歌い上げるアリア「耳に残るは君の歌声」も好きだ。交響曲も3曲かいた。聴かれる機会は少ないが、ビゼーが17歳、パリ音楽院在学中に作曲した交響曲第1番ハ長調も、明るく軽快で清々しく、若さに溢れ素敵なシンフォーニーである。
さらに付け加えると、ギローが転用したビゼーのオペラ「美しきパースの娘」の組曲もまことに愛らしく心安らぐ。ことさように美しい音楽をいくつも書いたビゼーだが、「カルメン」初演の3か月後、36歳で惜しくも早世した。
by kirakuossan
| 2020-01-13 13:28
| 「ぼくの101曲」
|
Trackback