2011年7月10日(日)遠い昔、今から42年前の昭和44年、7月1日に敦賀(福井)を出発して7月31日に青森駅に到着。ちょうど1カ月の徒歩ひとり旅を挙行した。日本海岸沿いの道をを歩くこと1000kmの長旅であった。
押入れを整理していたら古いアルバムが出て来た。7月になるといつも思い出す”徒歩一人旅”のこと。その時のアルバムだ。
大津⇒敦賀→横浜→武生→福井→加賀→小松→金沢→津幡→小矢部→高岡→富山→滑川→入善→朝日→親不知→糸魚川→能生→名立→直江津→柏崎→西山→分水→新潟→新発田→中条→勝木→瀬波→温海→湯ノ浜→酒田→吹浦→象潟→仁賀保→本荘→秋田→男鹿→能代
(ここだけヒッチハイク)→青森⇒大津(⇒は国鉄に乗車)
思い出すのは、
地方の人々の”親切さ”だ。全く見知らぬ人たちが、家へ泊めてくれたり、食事を御馳走になったり、お風呂に入れてくれたり、「昼に食べなさい」と、握り飯を頂いたり・・・と思い出せば数え切れないぐらいだ。
お世話になった人々のことが記してある。
「延々と続く越後平野、連日の暑さにダウン。あの冷えたビールが又格別だった。
カラーテレビで人類初の月旅行を見たのもここだっけ」
(鈴木さん・新潟県西蒲原郡吉田町・・・)
「夜遅くまでウヰスキーの水割りで語り合った。
先生の作って下さったお茶づけは最高だった。明朝、吉田君のバイクで村上まで。至れり尽くせりのご好意は一生忘れません」
(吉田さん・新潟県北蒲原郡中条町・・・)
「1200円を1000円に値ぎっての民宿での一夜。夜の思わぬ豪華食は今も忘れない。主人の自慢話は息子さんの作文日本一だった」
(村山さん・柏崎市・・・)
考えてみると、酒のことがよく出てくるが、
やっぱりこの時分から酒飲みだったんだなあーとつくづく思う。お金を出して泊ったのは1軒だけだった。ご好意で泊めていただいたのが6軒。最近のTV番組で交渉して”一泊泊めてもらう”のがあるが、これなどはまさにそのはしりだ。しかし、よくぞ見知らぬ若造を泊めていただいた。
あとはテントでの野宿。一度、金沢の長田町小学校の保健室に泊めていただいた。ベッドの丈が短く膝から下はブランブランして寝た。本興寺という由緒あるお寺の本堂でも寝た。怖いより先に疲れてグッスリ寝てしまった。
7月24日に酒田市に入る。確か、教会の庭でテントを張ったと記憶しているが、夕方から人がドンドン繰り出してきて賑わいを見せてきたと、思ったら、町の花火大会だった。
この花火を見ていて、何故か涙が次から次から留めもなく出てきて無性に寂しい思いをした。(ホームシックにかかった)その夜、親父とおふくろにはがきを書いていた。
「二十三日、昨日山形県入りして今日は快調ペース、酒田市まで着いた。この辺まで来るとさすがに東北弁で新潟あたりではそうでもなかったんだが山形県へ入った途端、ゴロッと言葉が変わって全く意味がわからない。身体の方は何んともない。ただ、二、三日前から少し風邪気味だが、薬を飲んでいるからじきに治るものと思う。とにかくここまで無事にたどり着けた。青森までもう一歩だ。ますますファイトがわいてきた。ではまた、」
ついに青森に到着!(当時の青森駅)
スタートの敦賀が雨だった。終着青森もまた雨だった。
青森からは特急を乗り継いで一路帰路へ。財布は底を尽き、向かいの席に座っていた元ノンプロ野球チーム(東芝)の捕手であった人に、卵とビール、そしてハイライトを貰って、1000km長旅の成功に”乾杯”してくれた。
大津に着いたらポケットには100円も残っていなかった。(30000円ほど持参して行ったと記憶している。しかし、当時は1カ月過ごせたんだ)
今、東北の人達は苦しんでいる。昔、世話になったご恩を忘れてはならないと思う。