2018年 07月 31日
冒頭の400字で全貌を紹介する技 |
2018年7月31日(火)
安政四年(1857)正月二日
前日は、朝から雲一つない晴天で、水戸の城下町には、元日らしいおだやかなにぎわいがひろがっていた。武家の玄関には根切にした男松女松が左右に立てられ、豪商の家々にも門松がつらなり、正装した男女が連れだって神社に詣でる姿がみられた。年賀の者たちは、家並の間の道を往き交って、知り合いの者に会うと挨拶をかわし、また、城中恒例の礼式に参列する藩士たちは、ぞくぞくと登城した。しかし、一夜あけたその日の城下町は、異様な空気につつまれていた。神社に詣でる者はいたが、多くの者たちが、江戸に通じる道にむらがっていた。天候も前日とはちがって、空は雲におおわれ寒気がきびしかった。五ツ(午前八時)頃から、雪がちらつきはじめた。
吉村昭の小説「桜田門外ノ変」の冒頭の書き出し部である。この人のノンフィクション小説は良く出来ていて、最初から読者の注意を惹かせることに長けていると思う。
また、この人の作品でもっとも感動した記録文学「戦艦武蔵」の書き出しも、棕櫚(しゅろ)という日常あまり聞き慣れないものを突如として登場させ、これから読み進めていこうと思う読者にとって、一層の好奇心を擽る。
昭和十二年七月七日、盧溝橋に端を発した中国大陸の戦火は、一か月後には北平を包みこみ、次第に果てしないひろがりをみせはじめていた。
その頃、九州の漁業界に異変が起こっていた。
初め、人々は、その異変に気がつかなかった。が、それは、すでに半年近くも前からはじまっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の業業界にひろがっていた。
初めに棕櫚の繊維が姿を消していることに気づいたのは、有明海沿岸の海苔養殖業者たちであった。
吉村昭は、この「戦艦武蔵」を書くにあたって、最初出版社から依頼を受けたが、どうも気乗りしなかった。しかしどうしてもということなので渋々引き受けたが、それがこの人の出世作になった。
冒頭の書き出し部、字数にしてわずか400字あまり、ここでその長編小説の背景や主人公の立ち位置をざっと紹介してしまう。その文章には無駄がない。読んでいても理解しやすいく、しかも簡潔に書かれてはいるが決して無味乾燥な文章ではない。吉村氏持ち前の技といえる。
慶応四年(一八六八)一月三日、薩摩、長州、土佐、芸州各藩の倒幕軍の砲撃によって戦端が開かれた鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦役として全面戦争に拡大した。
鳥羽・伏見の戦いは、淀藩についで津藩が倒幕軍側についたことから、幕府軍は総くずれとなって敗走した。大坂城にあった将軍慶喜は城を脱出し、海路、江戸に落ちのびた。朝廷は、慶喜追討令を発して新政府樹立を宣言し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、新政府軍は江戸にむかって進撃を開始した。総数約五万で、主力は薩摩、長州それに土佐藩の兵であった。
東海、東山、北陸三道を進んだ新政府軍は、途中、ほとんど抵抗をうけることもなく、四月十一日に江戸城は明け渡され、慶喜は水戸に去って謹慎した。その開城に憤激した幕臣や諸藩の脱藩士たちが、上野寛永寺に屯所をおく彰義隊にぞくぞくと参加し、新政府軍はこれを鎮撫しようとしたが効果はみられなかった。~
新政府軍に残された最大の課題は奥羽全域を支配下におくことだったが、会津を中心とした各藩兵と壮絶な攻防がくり返され、ようやく白河を落とし入れた新政府軍は攻撃目標を会津に定め、平潟に薩摩、大村の藩兵千人余りを上陸させる。その船倉内に、主人公であるのちの海軍軍医総監高木兼寛も乗りこんでいた。
今から読み始めようとしている「白い航跡」。さてどのような感動を与えてくれるだろうか、楽しみである。
今日7月31日は吉村昭の命日である。
by kirakuossan
| 2018-07-31 13:45
| 文芸
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