ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

「神宮の奇跡」 ③

2018年6月8日(金)

引き揚げで日本へやっとの思いで辿り着いた井元俊秀は義母が「ひとのみち教団」(PL教団の前身)の信者だった影響で佐賀の鳥栖に行き、鳥栖の小学校へ通い、やがて全国のPL教団の寮を転々としながら野球好きの少年に育っていく。
1952年(昭和27)、東京の都立戸山高校に入学、勉学に野球に励んでいると突然、大阪に戻ることになる。富田林にPL学園を開校することになり、代々木のPL寮は閉鎖することになるからだ。
造成中のPL学園にやって来ると一期生は男子が13名、女子が8名のわずか21名しかいなかった。1955年(昭和30)4月、PL学園高校が開校、井元は改めて高校3年生となった。


井元はさっそく野球部をつくった。しかし、造成中の学校では、練習のできるグラウンドさえままならない。だが、それでよかった。
とにかく井元は、硬球を握りたかったのである。無理やりつくった野球部で、井元はピッチャーとなった。井元は、PL学園野球部の”創設者”であり、同時に初代の”エース”となった。
しかし、ろくに経験者もいないこの野球部は、おそろしく弱かった。ブルドーザーが一年中、土地を造成している横のでこぼこのグラウンドで野球の練習をしているのである。野球用具が貴重だったこの時代、バットは三本、グローブは全部で七個しかなかった。強くなれと言う方が無理だった。
PL学園野球部は、府立堺工業高校(現・府立堺工科高校)に練習試合を申し込み、栄えある最初の対外試合がおこなわれた。井元が必死で投げて四対四で引き分けた。
次に富田林高校と練習試合を組んだ。今度はボロ負けだった。大量十一点を奪われ、味方が取ったのは一点だけだった。

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やがて井元は大学進学を迎えるが、実の両親がいなく、身寄りをPL教団に委ねている身では教主の意見に従うしかなかった。一期生で進学を望む者は一人一校だけ認めようという許可であった。しかもその条件は誰もが”さすが”と認めるような大学に限られた。中央大学、早稲田大学・・・と一人一人希望を告げ、井元は御木徳近教主の養女が在籍している学習院大学を選んだ。それは以前、都立戸山高校で野球の練習をしている時に、グラウンドで当時の学習院大学野球部の渡辺大陸監督に「君、学習院で野球をやらないか」と声をかけられたことからもきている。
ただ、井元が学習院の野球部に入る直前、渡辺監督は急逝しており、井元との再会は実現しなかった。


門田隆将著「神宮の奇跡」


つづく・・・



by kirakuossan | 2018-06-08 07:01 | 文芸 | Trackback
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信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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