信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。

2018年4月28日(土)

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 芸術論

 つぎに、芸術について一言すれば、芸術は畢竟人工的に美の理想を実現するにあるので、自然美に対すればその進歩は比較的はるかに迅速である。芸術美と自然美とにかかわらずすべて美は主観的のもので、けっして客観的のものではない。しかし美が単に主観的たるにとどまっていては、芸術は成立しない。諸種の材料をかりて美を客観的にあらわすに当って芸術が成立するのであるが、芸術は単に快感の客観化されたものではない。快感を超越した要素がなくてはならぬ。もとより崇高、深遠、幽邃、壮大、雅麗等の諸性質はそなえておらなければならぬが、また超快感的の気韻情調の観るべきものを必要とする。すなわち人を引いて彼岸の理想境に入らしむる底の魅力がなくてはならぬのである。しかし芸術の原理を功利的に見る一派がある、その説によれば芸術はいかにしても功利的に制限されるものである。社会の要求により、経済の状態によって制限されるもので、芸術家もその要求に応ずるような態度に出でて、その要求の向うところに発展をとげる。かようにして芸術は畢竟功利的に制限され、客観的にその性質を規定されるもので、主観的にいかに高尚な理想があっても発展の遂げようがないとみる人があるけれど、それは真の芸術を理解したものではない。単に功利的に制限され、規定されるようなものはけっして崇高の真の芸術ではない。芸術の原理はこれを主観的に求めなければならぬ。芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。

明治哲学界の回顧結論――自分の立場
井上哲次郎

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d0170835_07352809.jpg井上哲次郎(1856~1944)は明治時代の日本の哲学者。欧米哲学を多く日本に紹介し、帝国大学で日本人で初めて、哲学の教授となった。
新体詩運動の先駆者でもあり、外山正一(社会学者)、矢田部良吉(植物学者)と『新体詩抄』を刊行した。



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by kirakuossan | 2018-04-28 07:17 | 文芸 | Trackback