信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。 当ブログ名は2018年7月1日をもって「のんきなとうさんの蓼科偶感」に変更いたしました。


by kirakuossan
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斉藤秀雄の指揮メソッド

2018年4月14日(土)
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日本の指揮者界で中心的存在を担ってきた小澤征爾、岩城宏之、さらには秋山和慶、井上道義、尾高忠明などなど、いずれも桐朋学園大学の出身者であり、みな斉藤秀雄の指導を受けてきた。若杉弘も自身は東京芸術大学で学んだが、斉藤秀雄の指揮法を師事した。
『嬉遊曲、鳴りやまず 斉藤秀雄の生涯』という書物の著者中丸美繪の講演会が6月に國民會館の主催で催される。ぜひ聞きに行こうと楽しみにしているが、この「斉藤秀雄の生涯」は仔細にわたり書き綴られその人となりがよくわかり参考になる。教え子の声も紹介され、より斉藤像が鮮明に浮かび上がる構成になっている。斉藤の指揮に対する心構えやメソッドについて皆が共通したことを語っているのは、より徹底した強烈な印象になったにちがいない。


斉藤先生の指揮のメトーデは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、ぼくはいまでもそう思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類して(中略)そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を入れるかというようなことを教えてくれた。(中略)それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルル・ミュンシュも言っていたし、カラヤンも、ベルリンでぼくに教えてくれたときに言っていた。(小澤征爾)

まじめに勉強しろ、真剣に音楽に対峙しろ、と斉藤先生はいいましたね。音楽を利用して、自分がいい恰好するのに音楽を使うな、有名になるために音楽をだしにするな、とね。そのころ、ポピュラー界で譜面も読めないようなマスコミが作り上げたアイドルが、スターの座についてもてはやされるようになってきていた。その手の影がクラシックにも出てきていましたから。実際に指揮を教えていても、叩きができないんだけど、他のやさしい方法で叩きを回避して近道する方法はないんですかとか、ピアノでも返しがうまくいかないから別の方法というようなね。それは斉藤先生にとって許しがたいことだった。(秋山和慶)

いるいる確かに、ヴァイオリンなんかで、有名になるために音楽をだしにしているような似非音楽家が。
小澤、岩城、秋山に続く後輩にあたる尾高や井上もこう語る。

他の指揮法というのは、どこをどうする、ここをああするとか、こうしなさいという格好ばっかり。四拍子はこういう形です、管楽器を見るときはこういうふうにやりなさい、そういう現実のことは教えてくれる。斉藤先生の指揮法の一番の特徴は力を抜くという考え方。人間の動きっていうのは、実際には一の力でいいのに十ぐらい使ってやっているんです。(略)そのためにひと月ふた月は、手を上げて下ろせと言われたときにバタっと下ろす、そればかりなんです。それだけにためにそのころ住んでいた葉山から東京に出ていくのは結構しんどかったですよ。(尾高忠明)

指揮に技術が存在することを、あからさまに見せてくれたのが斉藤先生。(略)スポーツでも力を抜くことは必要でしょ。これを教えてもらったのはよかった。これができないと指揮は体に悪い。手は十キログラムぐらいはあって、それを年中降り下ろしたり持ち上げたりしなくちゃならない。
あとでチェリビダッケに習ったとき、斉藤先生とほとんど似た理論で驚いた。チェリビダッケの指揮では、シュバヌングといって下から上に叩くというのがある。緊張をいっぺんに解き放す。これが斉藤先生の叩きの逆の跳ね上げ。また、和声は緊張と弛緩で成り立っているという考え方や旋律法のこともそう。普通の指揮者はそんなことを考えない。まず自分のエゴか主観でもってオーケストラをねじ伏せるタイプか、もしくはオーケストラが行く方向に一緒に、その中からほどほどのやつを選ぶというタイプがある。だけど、二人は自分がどうの相手がどうのじゃなく、宇宙にはこういう法則があるから、音というのはそういうふうになるもんだというのが、共通だね。そしてオーケストラの指揮者が一つの宇宙を創り出すという発想。こういうふうになれば、音と動きは決まってくる。作曲家はこう書いているけれど、これはまちがいだ、といくらでもいう。二人はアクの強い先生について毒を飲んだけど、それは僕が欲したこと。(井上道義)


d0170835_09164041.jpg斉藤秀雄の門下生のなかには、斉藤がまだ全部教えていないと考えているのに学生の方から留学してしまうということが続いた。多くの学生たちは伝統ある西洋で勉強することが音楽への近道と考える。そのこと自体がまさに”西洋コンプレックス”そのものなのだが、斉藤の目からしてもまだ全部を吸収し終えていない早熟の学生たちが自分の手もとから去って行くのを見るにつけ、いたたまれない欠如感をかかえながらひとり残された。
やがて年老い、大病に見舞われた斉藤秀雄が病身を絶ちふるい、教え子たちの合宿に顔を出す。それは戦後の焼け跡が残るころから始まった北軽井沢での合宿から二十余年の月日がたち、1974年、最後の夏になった志賀高原での合宿であった。


「男には命を懸けても実行しなくてはならないことがあり、やらなくてはいけない時というものがある、今がその時だ」
二日目の練習に、車椅子を押されて斉藤が現れた。
この合宿では、バルトークの「弦楽のためのディヴェルティメント」、モーツァルトのディヴェルティメント・ニ長調」、チャイコフスキーの「弦楽のためのセレナード」がとりあげられていた。斉藤は、秋山が指揮することになっていたチャイコフスキーを自分が振るといいだした。斉藤は、棒を握ることすらやっとと思えた。~
「さあ」
と、斉藤は生徒たちに向かった。死の淵にいることは疑いない教師に、生徒たちの視線が集中した。
「ごめんね、・・・僕は体がもういうことをきかない。手がこれくらいしか動かないんだ」
生徒たちは、斉藤が振って見せたわずかな手の動きのなかに、あらゆる音楽を読み取ろうとしていた。セレナードの出だしはフォルテであり、常日頃から斉藤が「激しく振り降ろせ」と言っていたところだった。
「出てくれ」
といった斉藤が、弱々しく腕を動かすと、オーケストラはこれまでにないほどの音を響かせた。重厚な音を織りなす見事なアンサンブルでそれは始まった。尾高忠明はその斉藤の背中を見つめていた。
「秋山先生や僕はぼろぼろ泣いていました。もちろん斉藤先生の手はちょっとしか動かなかったので、うまくいかなかったりしたところもあったんですが、尊敬する斉藤先生が、もうこれしか動かない、っておっしゃったときの音、あれだけ育ててきた桐朋の最後のオーケストラの音は、最高でした」~



チャイコフスキー:
サイトウ・キネン・オーケストラ - Saito Kinen Orchestra
小澤征爾 - Seiji Ozawa (指揮)




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by kirakuossan | 2018-04-14 06:34 | クラシック | Trackback