2018年 03月 09日
「レイニー河で」 その3 |
2018年3月9日(金)
ティム・オブライエン著『本当の戦争の話をしよう』から「レイニー河で」より(村上春樹訳)
河を渡ってくる風を、その波を、その静寂を、鬱蒼と木々の繁った国境を。そして君はレイニー河に浮かんだボートのへさきに座っている。君は二十一歳で、怯えている。胸の中は息が詰まるくらい強く締めつけられている。
君ならどうするだろう?
水に飛び込むか、自己憐憫に耽るか?君の家族や子供時代の夢や、あるいは君があとに残していくすべてに思いを馳せるか?君の胸は痛むだろうか?死んでしまうように感じられることだろうか?君は泣くだろうか、そのとき私がそうしたように?
私はそれを押しとどめようとした。私は微笑もうとした。でも結局私は声をあげて泣いてしまった。
オブライエンはレイニー河の水面で波に揺られ、無力感のなか、これまでの人生の思い出が小さな塊となって無数に去来した。
ローン・レインジャーのマスクをつけた7歳の少年、12歳のリトルリーグのショートストップ、ダンスパーティに正装した16歳の少年、両親と兄や妹そして町の全ての人々の顔々、市長や商工会議所のメンバー全員、昔習った先生、ガールフレンドや高校の同級生、どっと沸くスタジアムの歓声、エイブラハム・リンカーンも聖ジョージも、小学校5年の時に脳腫瘍で死んだリンダという9歳の少女、メモをなぐり書きしている盲目の詩人、ジョンソン大統領もハック・フィンもアビー・ホフマンも、墓所から戻って来たすべての死んだ兵士たち、やがて死ぬことになる何千、何万という数の人々、ひどい火傷を負った村人たち、腕や脚を失った子供たち、それに、統合参謀本部の人間たち、法王が二人ばかり、ジミー・クロスという名の中尉、この小説の編集者、バーバレラの衣装に身を包んだジェーン・フォンダ、豚小屋の横で大の字に寝ころんでいる一人の老人、祖父、ゲイリー・クーパー、傘とプラトンの「国富論」を持って歩いている親切そうな顔つきの女性、ありとあらゆる形と色の国旗を打ち振る何百万もの凶暴な市民たち、作業用ヘルメットをかぶった人々、ヘアバンドをした人々、妻になる人、まだ生まれていない自分の娘と二人の息子・・・
私がそれほど悲しかったのは、カナダが今や惨めな幻想と化してしまったからだった。それが私には理解できた。愚かしく、そして絶望的だった。それはもはや可能性としては存在しなかった。まさにそのとき、対岸を眼前にして、私は悟ったのだ。そうするべきだとわかっていても、私はそうはしないだろうということを。私は私の生れた町から、祖国から、私の人生から泳ぎ去ることはしないだろう。私は勇気を奮い起こすことはないだろう。自分を英雄に、良心と勇気に溢れる人間にしつらえていたあの古い夢は、所詮空疎な幻想にすぎなかったのだ。~
そしてほどなく老人は釣糸を引き上げ、ボートの船首をミネソタの方に向けた。
さようならを言ったのかどうか、私は覚えていない。その最後の夜、我々は一緒に夕食を食べた。そして私は早い時刻にベッドに入った。朝になってエルロイは私に朝食を作ってくれた。そろそろ引き揚げるよ、と私は彼に言った。それはわかっていたよというような顔をして彼は肯いた。彼はテーブルを見下ろして、そして微笑んだ。
昼近くになって我々は握手したかもしれない。私は本当に覚えていないのだ。でも私は覚えている。荷物をまとめ終えた頃にはもう彼の姿が消えてしまっていたことを。昼頃に、私はスーツケースを車まで運んだ。気がつくと建物の正面に停めてあった彼の黒のピックアップ・トラックが見えなくなっていた。私は家の中に入ってしばらく彼の帰りを待っていた。でも彼が戻ってこないだろうとということが、私には痛いほどにはっきりと確信できた。あるいはそのほうがいいのかもしれないな、と私は思った。私は朝食の皿を洗い、彼の二〇〇ドルを台所のカウンターの上に置いた。そして車に乗りこみ、家を目指して南に車を走らせた。
その日は曇っていた。私は名前に聞き覚えのあるいくつかの町を通り抜け、松林を抜け、平原を横切った。それから私は兵士としてヴェトナムに行った。そしてまた故郷に戻ってきた。私は生き延びることができた。でもそれはハッピー・エンディングではなかった。私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ。
ウィリアム・ティモシー・オブライエン(William Timothy O'Brien, 1946~)
ミネソタ州オースティンに生まれ、1968年にマカレスター大学政治学部を卒業後、徴兵で陸軍に入隊しベトナムに送られ1969年から1970年にかけて歩兵として戦闘に参加した。兵役が完了後、ハーバード大学大学院で政治学を学び、「ワシントン・ポスト」で働いた。1973年に処女作『僕が戦場で死んだら』を刊行、のちにテキサス州立大学で教鞭をとる。
ちょうど50年前のその頃、厳密には1969年7月だが、20歳の小生は、青森までの1か月間1000km単独徒歩旅行を挙行した。生死をかけたオブライエンの21歳の体験とはとうてい比べものにはならないが、でも、青春時代のほろ苦い思い出としてはどこか身近のものを感じさせた。
最後の「それから私は兵士としてヴェトナムに行った。そしてまた故郷に戻ってきた。私は生き延びることができた。でもそれはハッピー・エンディングではなかった。私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ」にほろりとさせられた。
by kirakuossan
| 2018-03-09 12:12
| 文芸
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