2018年 03月 09日
「レイニー河で」 その2 |
2018年3月9日(金)
レイニー川 (Rainy River)
ティム・オブライエン著『本当の戦争の話をしよう』から「レイニー河で」より(村上春樹訳)
我々は六日間ティップトップ・ロッジで共に過ごした。我々二人きりでだ。観光シーズンはもう終わっていたし、河には船は一隻も浮かんでいなかった。まわりの原野は大いなる悠久の静寂の中に戻ってしまいそうに見えた。その六日のあいだずっと、エルロイ・バーダールと私はほとんどの食事を二人で一緒に食べた。午前中にときどき、我々は一緒に森の中に長いハイキングに行った。夜には彼の大きな石造りの暖炉の前でスクラブル・ゲームをやったり、レコードを聴いたり、本を読んだりした。時には私はなんだか自分が侵入者であるかのような居心地の悪さを感じた。しかしエルロイは彼の静かな日常生活の中に、何の混乱もなく何の儀式もなしに、私を受け入れてくれた。彼は私の存在を当たり前のこととして扱った。まるで野良猫の面倒でもみるみたいに。やれやれと溜め息をつくでもなく、妙に情けをかけるでもなく。そしてそれについてとくに何かを言うわけでもなかった。それどころではない。私が何にもましてよく覚えているのは、その男の、激しいと言ってもいいくらいの、実にきっぱりとした沈黙なのだ。一緒にいるあいだ、始めから終りまで、彼は私に対して、質問らしい質問は一切しなかった。どうしてここに来たのか?どうして一人きりなのか?どうしてそんなに考え込んでいるのか?もし仮にエルロイがそれを知りたがっていたとしても、彼はそういうことは注意して口には出さないようにしていた。
若きオブライエンの心は揺れ動いていた。それは一種の分裂症状で、心が二つに割れたようだった。戦争は怖い、でも国外に逃げることも怖い。それに、彼の家族や友人達、自分の経歴、それらをすべて捨て去ることも怖かった。そしてさらに怖いのは、「あの息子は腰抜けでカナダへ逃げた」と自分が生れた小さな保守的な町の人々からあざけ笑われ、非難され、両親をがっかりさせたり、することだった。
どのようにしてその六日間をもちこたえたのか、私にはわからない。私にはほとんど何も思い出せないのだ。どうせやることもなかったし、ニ三日、私はエルロイがロッジの冬支度をするのを午後に何度か手伝った。キャビンの大掃除をしたり、ボートをしまいこんだり、そういう体をこまめに動かせる雑用をやった。昼間は天気が良くて、ひやりとしていた。夜になるとあたりは真っ暗になった。ある朝、老人は私に薪を割って積みかさねるやり方を教えてくれた。そして我々は何時間か、家の裏手で何も言わずに黙々と作業を続けた。そのうちにエルロイは楔を打つ大木槌をふと下に置いて、私のことをじっと見た。彼の唇はあたかも何か難しい質問をするかのように開きかけた。でもそれから彼は首を振って作業に戻った。
夕食を済ませオブライエンは勘定のことをエルロイに尋ねた。一晩50ドルのところ40ドルでいい、だからそれに食事代をプラスして、ざっと260ドルほどかな、と言い、さらに付け加えた。ただ、雑用を手伝ってくれたので、これの日当を払わなけりゃいけない。あんたは25時間働いてくれたから、全部で375ドルだ。だから私の方がまだあんたに115ドルの借りということになると言って、50ドル札を4枚テーブルに置き、「これで貸し借りなしだな」 翌朝になって現金の入った封筒がドアに止めてあった。そこには「非常用資金」と書かれていた。老人はちゃんとわかっていたのだ。
最後の一日、六日めの日に、老人は釣りをしようといって私をレイニー河に連れ出した。よく晴れた肌寒い午後だった。北の方からはひやっとした微風が吹いてきた。桟橋を押して離れるときに十四フィートのその小さなボートが小刻みにかたかたと揺れていたことを私は覚えている。~
それからふとこう思った。我々はこうしているうちにカナダの水域に入っているはずなんだなと。二つの世界を隔てる水上に引かれた点線を越えて、顔を上げて、こちらに近づいてくる対岸をじっと見つめているうちに、私の胸は突然ぎゅっと締めつけられた。これは白日夢なんかじゃないんだ。これは紛れもない現実なんだ。岸に近づくと、エルロイはエンジンを切って、岸から二十ヤードほどのところでボートがゆらゆらと軽く揺れるにまかせた。老人は私の方も見なかったし、何も言わなかった。彼は身をかがめて釣りの道具箱の蓋を開け、下を向いて鼻唄を歌いながら、熱心に浮きと針金の先に糸を結びつけていた。
彼はこれを意図的に計画していたのに違いないという考えが私の頭に浮かんだ。もちろん確証はない。でも彼は私を現実というものに直面させようとしたのだと思う。河を越えて、私をぎりぎりの縁まで連れていって、私が私の人生を選択するのにつき添っていてやろうと思ったのだろう。
つづく・・・
アメリカ合衆国のミネソタ州とカナダのオンタリオ州との間の国境となっている川で、レイニー湖西部から流れ出しウッズ湖へと注ぐ。全長約137km。川沿いにはインタナショナルフォールズ、フォートフランシス、ボーデット、レイニーリバーなどの集落がある。
by kirakuossan
| 2018-03-09 07:36
| 文芸
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