2018年 02月 16日
第九伝説 その5 グラズノフの9番 |
2018年2月16日(金)
ロシアの作曲家アレクサンドル・グラズノフ(1865~1936)はサンクトペテルブルクの富裕な出版業者の家庭に生まれた。神童と騒がれ、作曲家としてその名は若くして世に出た。作曲以外にも音楽教師や指揮者として多忙な日々を送る。
ウオッカを飲みだすと止まらなかったグラズノフだがどことなく愛せる人物である。30歳半ばでペテルブルク音楽院の教授に就くが、骨身惜しまず教職に専念した。学生思いで、時には生活に困窮した学生をみれば援助したりするほどであった。その彼の作品が最近とみに好きになってきた。あの民族主義派の音楽がどことなく素直に心地よく感じられ、一面オリエンタル風なところもあって日本人の琴線に触れるのかもしれない。彼もまた交響曲を9曲書いた。いや正確に言えば9曲書こうとした。でも第9番はほとんど形跡もなく未完に終わった。これには訳がある。
交響曲は、15歳で1番を書きあげ、2番は敬愛したリストに、3番はチャイコフスキーに献呈している。最もロシア的旋律の生かされた4番に続き、5番は堂々としたシンフォニーで、6番は彼の代表作となった。さらにベートーヴェンの「田園」を思わせる7番を書き、そして8番が1906年、41歳の作品であるが、続く9番はその4年後に書き出されたが、ふとその手が止まった。ここでベートーヴェンやブルックナーのような「9番の呪い」が頭をよぎったのである。その思いは、ひょっとしてマーラー以上であったかも知れない。その証拠に、第一楽章をすこし書きはじめてプツリとペンを置いたのだから。
グラズノフの交響曲第9番は、だから存在しないのである。
門下生にはショスタコーヴィチもいた。やがてグラズノフは音楽院の院長をつとめるが、彼の保守主義に対する批判は日増しに高まり、教授陣からだけでなく学生たちからも非難されることになる。断乎意思を貫こうとするが疲れはて、1928年国を離れ、二度と母国には戻らなかった。グラズノフが70歳でパリに客死すると、その訃報を知った多くの母国の人びとは驚いた。彼がまだ生存していたとは思わなかったのである。
交響曲のペンを置いた1910年以降は、主に室内楽や協奏曲の作曲に移っていく。そして最後の作品となった「サクソフォーン協奏曲」が1934年の作品だから、その後無事に24年間の長きにわたり作曲活動を展開することが出来たことになる。
交響曲のペンを置いた1910年以降は、主に室内楽や協奏曲の作曲に移っていく。そして最後の作品となった「サクソフォーン協奏曲」が1934年の作品だから、その後無事に24年間の長きにわたり作曲活動を展開することが出来たことになる。
それも9番を中断しておいたおかげかもしれない?
グラズノフは、ラフマニノフと同様、「時代遅れ」の音楽と看做されることがある。そうだろうか、決してそうは思わない。祖国に根差した愛すべき民族主義の音色が滔々と音楽性を貫き、聴くものの心底に染み渡る。それは異国の我々が耳にしても感じるものだ。そのことはロシアの先輩作曲家グリンカにも言えることである。ここでは第9番のかわりに、彼の交響曲の中でもっとも完成度が高い第5番を挙げる。この作品はロシア国民楽派の伝統と西欧的な作曲技法の融合が図れたものと評されている。
ソビエト国立文化省交響楽団 - USSR Ministry of Culture Symphony Orchestra
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー - Gennady Rozhdestvensky (指揮)
by kirakuossan
| 2018-02-16 08:39
| クラシック
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