2017年 08月 24日
不遇な二人の無名指揮者 |
2017年8月24日(木)
ユーゴスラビア出身の指揮者ロヴロ・フォン・マタチッチは日本では絶大な人気を博したが、欧米においてはそれほどでもなかったように思われる。肩書と言えば、フランクフルト市立歌劇場(1961~66)とモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団(1972~79)の音楽監督に就いたぐらいで、これは知らなかったが、これら二つの音楽監督の前に1956年から58年にかけて超名門シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者でもあったのだ。それからすれば50歳代半ばの若くして重要なポストに就いてから以降は常任オーケストラに恵まれなかったと言えるだろう。
モーツァルト:
シュターツカペレ・ドレスデンの歴代音楽監督(戦後以降)
1945-1950 ヨーゼフ・カイルベルト1949-1953 ルドルフ・ケンペ
1953-1955 フランツ・コンヴィチュニー
1956-1958 ロヴロ・フォン・マタチッチ
1960-1964 オトマール・スウィトナー
1964-1967 クルト・ザンデルリング
1966-1968 マルティン・トゥルノフスキー
1975-1985 ヘルベルト・ブロムシュテット
1985-1990 ハンス・フォンク
1992-2001 ジュゼッペ・シノーポリ
2002-2004 ベルナルト・ハイティンク
2007-2010 ファビオ・ルイージ
2012- クリスティアン・ティーレマン
こうして一連の豪華な顔ぶれを見ていてさすがドレスデンだなと思う反面、よく見るとふと気がついた。無名の二人の指揮者が名を連ねている。マルティン・トゥルノフスキー(1928~)とハンス・フォンク(1942~2004)である。
フォンクは89年に神経を冒される難病を発症し、やむなく降板、のち回復してケルンWDR交響楽団の首席に、さらにはセントルイス交響楽団の指揮者にも就任するが、それも束の間、新たな難病によって断念する。これらの病に冒されなかったら恐らく名の通った指揮者になっていたであろう。ようやく名が知られ始めたその道半ばで世を去った。
一方のトゥルノフスキーは38歳の若さでザンデルリンクからバトンを引き継ぎ、大いに嘱望されたが、彼もまた、1968年8月におきたチェコ事件によりドレスデンでの職を辞さざるを得なくなった。その後、母国チェコに戻り、だいぶたってからプラハ交響楽団の首席指揮者に就くが、すでに60歳代半ばになっていた。今も健在で、1998年から群馬交響楽団首席客演指揮者の地位にある。当時から力強いスケールの大きな音楽を聴かせることで知られ、ドイツ=オーストリアものを得意とし、隠れた大指揮者と謳われた。もし、あの政争がなければ彼もドレスデンを皮切りに大指揮者になっていたかも知れない。
ハンス・ガンシュ - Hans Gansch (ポストホルン)カペラ・イストロポリターナ - Capella Istropolitana
マルティン・トゥルノフスキー - Martin Turnovský (指揮)
(録音時期:1989年3月)
不幸と言えば、ジュゼッペ・シノーポリ(1946~2001)にも言える事だろ。ドレスデンでは普通3~5年で首席の職を降りるが、彼は、古くはカール・マリア・フォン・ウェーバー、戦前のフリッツ・ブッシュ、 カール・ベームらと肩を並べるほどの就任10年にさしかかっていた。しかし、ベルリン・ドイツ・オペラで歌劇「アイーダ」を指揮中、第3幕の所で倒れ、急逝するという悲運にあう。彼も生存していたら、当時から並び称されていたリッカルド・シャイーや小澤征爾より恐らく上を行っていたであろう。
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by kirakuossan
| 2017-08-24 08:29
| クラシック
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