2017年 04月 25日
「五月の緑」と「八月の青」 |
2017年4月25日(火) 昨日、サンタナのリサイタルに出かけるとき、石山寺の前を歩いていると、八重桜が満開だった。ソメイヨシノはもうすっかりなくなり、そのあとの青々とした鮮やかな緑が一層美しく目に映った。もう「五月の緑」である。
冬と夏の間を行きつ戻りつしているうちに、冬は去って夏がもうすぐそこまで来ているのに気づくのが、英国の春というものである。雪解けと風と、雨と泥の季節とも言えるだろうか。そうするとその点でも、もし英国の春の詩を一篇挙げることになったら、それはエリオットの「荒地」だということになるかも知れない。
ここで些細なことだが一つの間違いに気づく。吉田健一がオォガスタ・ジョンと言ったのは、どうもヘンリー・スコット・テュークの勘違いのようである。
(2017年4月24日)
オォガスタ・ジョンという画家の作品に「八月の青」という題で紺碧の海にボオトを浮べて一群の裸体の少年が泳いでいるところを描いた油絵がある。いかにもその題通りの明るい感じがする絵であるが、こういう絵が出来るのも、一つには英国の夏が決して長くはなくて、そして冬が英国では半年以上も続いているからである。日本の北国に似ていて、冬が明けて春になると、それが早足で夏に変っていく。そうなることを待っていた自然が緑を拡げ、花を咲かせるのを急ぐのと同じ具合に、人間も一斉に外に出て来て、長い冬の間に不足していた太陽の光と熱を取り戻すのが仕事にも、夏の喜びにもなる。~
その昔、
また夏の期限が余りにも短いのをどうしたらいいか。
というシェイクスピアの詩を引用して、こう書いたことがある。
この詩を読む時、西に傾いた太陽の、いつかは終るとも見えない絢爛な光線が大気に金粉を舞わせている英国の夏の黄昏を思わざるを得ない。我々東洋人はこういう濃厚で、そしてそれでいて生のままの美しさを持った現実を、西洋の詩や音楽、或は絵画を通してしか知らない。それは英国の冬がどの位陰惨かを知らないのと同じである。例えば、英国の秋は木が紅葉すると言っても、その色は赤と黄に限られているのではなくて、紫、茶、黄、赤などの色がまだ紅葉していない緑と混じって何れがより鮮明であるかを秋空の下に競うのであり、英国の夏の緑もそれに劣らず、何か現実とは思えない光沢を持っている。
(吉田健一『英国に就いて』から「英国の四季」より)
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by kirakuossan
| 2017-04-25 10:59
| 文芸
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