2017年 04月 01日
中也の日記 |
2017年4月1日(土)
日記
1936年(抜粋)
中原中也
一月六日
馬鹿者どもというものは、相手がしょんぼりしていると、張合いがないようなことを云うけれど、それでて、相手がしょんぼりしてれば自己満足しているものなんだ。フランス語。ルナアルの日記。
一月二十五日
ワイニンゲル「性と性格」読了。
二月二十日
カロッサ作「ドクトル・ビュルゲルの運命」読了。
三月五日
植田壽蔵著「芸術哲学」半分。
六月二十日
涼しい宵。空は雲っているが、所々星も見える。~
日本人。学校を出ると勉強はせぬ。
文壇人。文壇に出ると文学の勉強をやめて「文壇の勉強?」をはじめる。~
単なる詩的描写を詩と銘打ったものが多すぎる。
リルケにしろそうだ。
然しリルケを悪くいうとなると日本詩人の大方をなんと云ってよいかわからなくなる。それにしてもリルケが駄詩人だということくらいは分る方がよいのだ。
吉井勇は面白い。
六月二十一日
チエホフの「手帖」(神西訳)を読む。
六月二十三日
現今東京に於ける我々一般民の生活心象をすっかり肯定するとなったら、詩にもなんにもなりはしまい。青山二郎は俺が逃避する逃避するというけれど、俺自身にとっては逃避でも何でもない。多分は俺の本能が俺を守るに過ぎないのだ。
六月二十六日
詩の本質は、丁寧に云えば、心の陶酔である情熱からも、精神の糧である真実からも、全く独立したものである。ーエドガア・ポオ
七月十二日
熊岡を訪ね、夜十時半までいる。お母さんが出て来て、息子が果して文筆で立てるやどうかと心配そうに云うから、俺としたことが甚だ正直に答えたら結局俺を馬鹿にしはじめた。
熊岡にしたっておなじだ。「自分はニセモノであるまいか」なぞと弱音を吹きながら、而も何か俺より偉い気がするのだ。凡ゆる無能の青年がやることは次の形式にまとめることが出来る。
一、俺は文学をやろう。
二、然し俺には出来ないのかしら?
三、―文学なんて大したものではない!・・・
そこで文学をやっている奴を見ると偉いような馬鹿なような気がして来る。傲慢なのだか謙遜なのだか分らない人間が斯くして出来る。
七月十九日
嬉々として生きることは依然私に於いても理想である。然し、嬉々として生きられることは馬鹿でなければ可能ではない。(但、気質の陽気と陰気とはまた別のことだ。)
七月二十日
暑いということはやりきれない。
山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝える。三好達治の所へ寄る。一寸散歩に出ている、じきに帰るとのことであったがすぐに帰る。
シュアレスのドストエフスキー論を読む。漠然と感嘆。チエホフの「燈火」を読む。シュアレスを読んでの読後感をチエホフを参照して慥かめるつもりであったのが如何にも益々五里霧中な気持ちになる。
七月二十六日
あんまり安物を喜び過ぎる、もっと自分である方がいい。つまりもっと今としたら蟄居する方がよいのだ。決して決して、自分から外出しないこと。自分から出掛けたなら、一人で遊ぶこと。
八月四日
仏蘭西短篇集(河出書房)読了。但、ジイドのものだけ読まず。
個性のない人は、心理的なことしかどうしても解さない。それどころか、個性のある人間の個性の故の話をも、心理的に解釈するのだからたまったものではない。
八月十四日
石坂洋次郎の「麦死なず」を読む。面白いけれど、縹渺たるものがない点が惜しい。後で、スタンダールの「カストロの尼」を読み出すと、益々その感が深い。蓋し造型性の欠乏であろうか?否!よく見えていないからだ。造型性というものも畢竟、よく見えていれば出て来るものに過ぎまい。
文也漸く舌が廻り出す。一ヶ月に二つ位ずつ単語が増える。来年の春頃には、簡単な話が出来るであろう。
九月二十三日
ラジオ修繕。リーグ戦を聞く。夜ベートーヴェン第三シンフォニー「ハ」短調をきく。面白かった。数日来出掛けようと思っている旅行、あまり出掛けたくなくなった。ツルゲネフの「娘への手紙」(山本文庫)を読む。
一〇月十五日
朝起きたらば、とにかくその日の前半を読書に、後半を書くことにきめた。朝から書こうとしていると、書けない日は遂に読書も出来ない。
恐らく右の掟は、あらゆる創造的な性質の人間には有益なことであろう。
一〇月十八日
文也の誕生日。雨天なので、動物園行きをやめる。
フランソワ・コッペの「悲哀の娘」を読了。
一〇月三十日
先達から読んだ本。リッケルト「認識の対象」。コフマンの「世界人類史物語」。「三富朽葉全集」。「パスカル随想録(抄訳)」。「小林秀雄文学読本」。「深淵の諸相」。「芭蕉の紀行」少し。
いよいよ今日からまた語学に入る。来春頃からフランスの詩集が自在に読めるように、神に祈る。次第に、詩一点張に勉強していればよいという気持ちになる。
モーツァルト、ヴァイオリン・コンチェルト第五番イ長調をラジオで聴いて感銘す。
十一月十日
午前九時二十分文也逝去。
ひのへ申一白おさん大安翼文空童子
十二月十五日
午後〇時五十分(かのと。未。八白)愛雅生る。此の日半晴。
戯歌
降る雪は
いつまで振るか
中原中也、翌1937年10月22日、満30歳没。
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日記
1936年(抜粋)
中原中也
一月六日
馬鹿者どもというものは、相手がしょんぼりしていると、張合いがないようなことを云うけれど、それでて、相手がしょんぼりしてれば自己満足しているものなんだ。フランス語。ルナアルの日記。
一月二十五日
ワイニンゲル「性と性格」読了。
二月二十日
カロッサ作「ドクトル・ビュルゲルの運命」読了。
三月五日
植田壽蔵著「芸術哲学」半分。
六月二十日
涼しい宵。空は雲っているが、所々星も見える。~
日本人。学校を出ると勉強はせぬ。
文壇人。文壇に出ると文学の勉強をやめて「文壇の勉強?」をはじめる。~
単なる詩的描写を詩と銘打ったものが多すぎる。
リルケにしろそうだ。
然しリルケを悪くいうとなると日本詩人の大方をなんと云ってよいかわからなくなる。それにしてもリルケが駄詩人だということくらいは分る方がよいのだ。
吉井勇は面白い。
六月二十一日
チエホフの「手帖」(神西訳)を読む。
六月二十三日
現今東京に於ける我々一般民の生活心象をすっかり肯定するとなったら、詩にもなんにもなりはしまい。青山二郎は俺が逃避する逃避するというけれど、俺自身にとっては逃避でも何でもない。多分は俺の本能が俺を守るに過ぎないのだ。
六月二十六日
詩の本質は、丁寧に云えば、心の陶酔である情熱からも、精神の糧である真実からも、全く独立したものである。ーエドガア・ポオ
七月十二日
熊岡を訪ね、夜十時半までいる。お母さんが出て来て、息子が果して文筆で立てるやどうかと心配そうに云うから、俺としたことが甚だ正直に答えたら結局俺を馬鹿にしはじめた。
熊岡にしたっておなじだ。「自分はニセモノであるまいか」なぞと弱音を吹きながら、而も何か俺より偉い気がするのだ。凡ゆる無能の青年がやることは次の形式にまとめることが出来る。
一、俺は文学をやろう。
二、然し俺には出来ないのかしら?
三、―文学なんて大したものではない!・・・
そこで文学をやっている奴を見ると偉いような馬鹿なような気がして来る。傲慢なのだか謙遜なのだか分らない人間が斯くして出来る。
七月十九日
嬉々として生きることは依然私に於いても理想である。然し、嬉々として生きられることは馬鹿でなければ可能ではない。(但、気質の陽気と陰気とはまた別のことだ。)
七月二十日
暑いということはやりきれない。
山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝える。三好達治の所へ寄る。一寸散歩に出ている、じきに帰るとのことであったがすぐに帰る。
シュアレスのドストエフスキー論を読む。漠然と感嘆。チエホフの「燈火」を読む。シュアレスを読んでの読後感をチエホフを参照して慥かめるつもりであったのが如何にも益々五里霧中な気持ちになる。
七月二十六日
あんまり安物を喜び過ぎる、もっと自分である方がいい。つまりもっと今としたら蟄居する方がよいのだ。決して決して、自分から外出しないこと。自分から出掛けたなら、一人で遊ぶこと。
八月四日
仏蘭西短篇集(河出書房)読了。但、ジイドのものだけ読まず。
個性のない人は、心理的なことしかどうしても解さない。それどころか、個性のある人間の個性の故の話をも、心理的に解釈するのだからたまったものではない。
八月十四日
石坂洋次郎の「麦死なず」を読む。面白いけれど、縹渺たるものがない点が惜しい。後で、スタンダールの「カストロの尼」を読み出すと、益々その感が深い。蓋し造型性の欠乏であろうか?否!よく見えていないからだ。造型性というものも畢竟、よく見えていれば出て来るものに過ぎまい。
文也漸く舌が廻り出す。一ヶ月に二つ位ずつ単語が増える。来年の春頃には、簡単な話が出来るであろう。
九月二十三日
ラジオ修繕。リーグ戦を聞く。夜ベートーヴェン第三シンフォニー「ハ」短調をきく。面白かった。数日来出掛けようと思っている旅行、あまり出掛けたくなくなった。ツルゲネフの「娘への手紙」(山本文庫)を読む。
一〇月十五日
朝起きたらば、とにかくその日の前半を読書に、後半を書くことにきめた。朝から書こうとしていると、書けない日は遂に読書も出来ない。
恐らく右の掟は、あらゆる創造的な性質の人間には有益なことであろう。
一〇月十八日
文也の誕生日。雨天なので、動物園行きをやめる。
フランソワ・コッペの「悲哀の娘」を読了。
一〇月三十日
先達から読んだ本。リッケルト「認識の対象」。コフマンの「世界人類史物語」。「三富朽葉全集」。「パスカル随想録(抄訳)」。「小林秀雄文学読本」。「深淵の諸相」。「芭蕉の紀行」少し。
いよいよ今日からまた語学に入る。来春頃からフランスの詩集が自在に読めるように、神に祈る。次第に、詩一点張に勉強していればよいという気持ちになる。
モーツァルト、ヴァイオリン・コンチェルト第五番イ長調をラジオで聴いて感銘す。
十一月十日
午前九時二十分文也逝去。
ひのへ申一白おさん大安翼文空童子
十二月十五日
午後〇時五十分(かのと。未。八白)愛雅生る。此の日半晴。
戯歌
降る雪は
いつまで振るか
中原中也、翌1937年10月22日、満30歳没。
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by kirakuossan
| 2017-04-01 14:53
| 文芸
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