「若き鷗外」

2017年2月17日(金)
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若き鷗外
                                唐木順三

鷗外は明治十七年(1884年)にドイツにゆき、二十一年(1888年)まで、四年滞留した。その当時ドイツはどのような状態にあったか。プロシャ・フランス戦争に勝って、ウィルヘルム一世が統一ドイツの皇帝になったのが1871年である。ドイツの資本主義化、工業化はそれいらい急激に進展した。1830年には住民の五分の四が農民であったのにたいし、六〇年は五分の三となり、八〇年には約五分の二となった。そして、商工業者はそれと逆比例して増加し、四三年には四分の一であったものが、九五年には二分の一となった。「十九世紀初頭の農業植民地ドイツは、膨大な資本主義都市となりつつある」とフランスの史家リシュタンベルジェは書いている。しかしもしそれだけであうならば、イギリスがやったことを百年か五十年遅れてやっただけのことである。ドイツがイギリスと違ふのは、自国の資本主義化、市民化にたいし両手をあげて賛成しない保守的な地盤が残存し、それが歴史の上でものをいってゐることである。


d0170835_1002319.jpg森 鷗外(1862~1922)は東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで軍医として4年(1884~88年)を過ごした。最初の1年はライプツィヒで過ごし、次にドレスデンに半年滞在、ここで王室関係者や軍人との交際が多く、舞踏会や宮廷劇場などに多く出入りする。次の1年はミュンヘンに留まり、そして最後にベルリンで1年3か月の最長を費やし北里柴三郎、コッホに会い、コッホの衛生試験所にはいることとなる。帰国後、陸軍軍医学舎の教官に、2か月後には陸軍大学校教官の職にも就くことになる。例の「舞姫」の題材にもなったドイツ人女性が鷗外にこがれて来日する出来事が起きたのもこのころである。
帰国後年が明けて、1889年1月、「小説論」を発表、このとき徳富蘇峰が鷗外を高く評価し、訳詩編「於母影」を蘇峰が主筆を務める『国民之友』に掲載する。続けて小説「舞姫」も同誌に掲載、さらに翻訳「即興詩人」などと初期の代表作品を次々と発表する。鷗外27歳のときである。


小泉信三が最近雑誌に発表した「森鷗外」はべルツが小倉時代の鷗外を人に語って次のごとくほめたといふ山田弘倫の著書からの言葉を引用してゐる。「今一つ余の忘れることのできぬ日本人が一人ある。それは君達の先輩のドクトル森のことだよ。あの顔は〇〇中佐と同じくやっぱりドイツ型だね。その物言ひから、動作までドイツ人そっくりだよ。森といふ男は実に智慧の満ちた立派な頭をもってゐる。どうしても唯の日本人ではないね」(『文藝春秋』昭和二十三年五月号)鷗外の気質の中にもドイツ的なものがあった上、長いドイツ留学、しかも人生のもっとも決定的な年齢である二十三歳からの四年が、その気質を性格にまで仕上げたといふべきであらう。~


ここでのベルツとは明治時代に日本に招かれ、医学界の発展に大いに尽くしたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)であって、彼も26歳で来日した。そして「ベルツ日記」を書き、当時の日本の姿をありのままに紹介した貴重な文献として知られる。草津温泉を全国に広めたのもベルツの功績とされている。草津温泉に行けばわかるがメインストリートをベルツ通りと呼ぶぐらいだ。


鷗外がペッテンコオフェルについて学んでゐたとき、たまたま紹介されたブレスラウの教授ゲシャインデレンが「日本人は勉励の民なり」といったのに答へて、「勉励にして摸倣せり。未だ勉励にして創作せず」といった。語気に自信と負けじ魂が充ちている。有名な鷗外のナウマン駁論はナウマンが日本人をもって智能劣等にしてただ摸倣の才に長ずるのみといふことへの憤慨からくるものであった。鴎外はいった。若き日本はまだ経験をつまない小童であるかもしれぬ。だが、小童もやがては成長するのだ。勉励する小童が幾分の失敗はしても他日有為有能な大人になりうるといふことは自明ではないかと。それは鷗外が二十六歳のとき「アルゲマイネ・ツァイトゥンク」に発表したものである。
日本人を模倣の民、受売の民でなく、創造の民、研究の、探究、の民とすることは、またそれになりうる可能性をもったものであるといふことは、若い鷗外がドイツの学人にも一般人にも固く約束したことである。これを果さなければならぬ約束である。鷗外が『医事新論』において、吾志を奪ふべからずといひ『傍観機関』において壮士のヒ首にかかっても鮮血を惜しむものではないといひ、医学唯一論は死すとも更らず、といったのは、見栄でも誇張でもないのである。鷗外の西洋人ととりかわした証文なのである。
(筑摩書房刊「新選現代日本文學全集」より、唐木順三「若き鷗外」昭和24年4月)


今日は森鷗外155歳の誕生日である。



d0170835_1110219.jpg哲学者で思想家の唐木順三(1904~80)は、『芥川論』『森鴎外』『夏目漱石』『千利休』『三木清』『良寛』『鴨長明』『道元』など、人物論に関する作品も多く遺した。この全集の後記では逆に、「私の唐木順三論」として友人でもあった西洋史学者の鈴木成高(1907~88)が唐木の人となりを紹介している。


唐木順三というひとはいつでも、自分のもとめている以外のものには目もくれないという癖がある。京都にいたころ彼が何を考えていたかは知らないが、とにかく、京都どころではなかったのである。満州にいるころ、彼は満州どころではなかった。瀬戸内海を通っても。彼は瀬戸内海どこれではなかった。国をあげての戦争になっても、彼は戦争どころではなかった。やがて世は滔々として近代化ということになっても、彼は近代どころではなかった。そして中世の文学となり、『無用者の系譜』となってしまったのである。~
三木は最後まで哲学者であったが、唐木は卒業と同時に哲学を棄ててしまった。なぜ哲学を棄てたか。私は彼自身の口からそれを聞いたことがない。だが聞かなくとも、それはわかりきったことである。カントやヘーゲルに彼がいつまでも辛抱していられる筈がないではないか。


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by kirakuossan | 2017-02-17 09:08 | 文芸 | Trackback

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