深志という名

2017年2月16日(木)
d0170835_22305031.png文藝春秋の先月号で「同級生交歓」登場高校ベスト30なる特集に触れたことがあったが、そのなかで堂々の10位に長野県の松本深志が入り、14回登場していることも書いた。松本深志高校は長野県下でも長野高校と一二を争う名門進学校である。その歴史は古く、1876年、明治9年の第十七番中学変則学校の創立まで遡る。その後幾度か校名は変わり、1899年(明治32)長野県尋常中学校から分離独立して長野県松本中学校に、1904年(明治37)長野県立松本中学校に、さらに1920年(大正9)に元の長野県松本中学校に、そして学制改革で1948年(昭和23)に現在の松本深志高校となる。現校名に変る1年前の夏の高校野球に松本中学として出場、これが春夏合わせて唯一の甲子園出場であった。
校名の変遷をみてもわかるように「深志」と名がつくのは学制改革以降であった。なお、松本深志高の校歌も岡野貞一が作曲した。


深志城下の青春
唐木順三

もういっぺん生まれ変わってきて小学校を卒業し、どこかの中学へ入らなければならないとしたら、ためらうことなく松本中学へ志願するだろう、とそんなことを私はひとに話したことがある。
いまでは学制が変わってしまい、深志という名だけはなつかしいが、高校という呼び名(深志高校)にはまだ心がなじまない。赤い線や緑の線を帽子にくっつけるのも、いまでは、てれくさいものとなってしまったろう。よし、てれくさくとも、どうしてもつけなくてはいけないものなら、それをつけて、小林校長の胸像の立っている校門の前で、帽子をぬいで、古びた校舎へ、よろこんでかけこむだろう。
ほほのやせこけた黒い服の小使いが、赤いふさをつけたシンチュウのラッパを、天上天下唯我独尊とばかりに、吹きならしている。コス先生が特務曹長の肩章ながら、陸軍少将のイゲンをもって、天守閣の下で生徒の出欠をとっている。西洋史の意地の悪い教師の意地の悪い難問につぎつぎに討死し、あわや総なめになるところで、いまは深志の校長となっている岡田甫君がやっとくいとめている。放課後には全生徒がきたない雨天体操場に立ちならんで、さしせまった遠足の目的地を討議している。鉢伏とか、美ヶ原とか、山清路とかが、その土地出身者によって美辞麗句をつなぎ合わせて各々紹介される。いまは京大社会学の教授となっている臼井二尚君が、相談会長として壇上に左の肩をつきだして司会している。ひやひやの声の多いところへ遠足ということになるわけである。~
六九にあった大和屋という古本屋のオヤジの赤くてまるい顔には相当におせわになった。私はたしか大正六年の入学生である。

(長野県文学全集より、「深志城下の青春」唐木順三)


深志は長野県松本市の中心部にある町名である。松本市の交通の中枢を担っている。松本駅があり、深志神社があり、サイトウキネン・フェスティバルの会場にもなるまつもと市民芸術館がある中心街だが、なぜか松本深志高校はそれよりだいぶ離れ蟻ケ崎という所に位置し、松本城の北、旧開智学校のさらに北にある。東へ約800mのところに信州大学がある。また旧制松本高校あとは深志のまつもと市民芸術館から東へ400mにある。
哲学者で思想家のd0170835_2158324.jpg唐木順三(1904~1980)は、長野県上伊那郡宮田村に生まれ、旧制松本中学を卒業の後、旧制松本高等学校(現信州大学)を卒業、さらに京都帝国大学哲学科に進み、西田幾太郎や田辺元の指導の影響を大きく受けた。1940年、同郷の古田晁、臼井吉見と共に筑摩書房を設立した。この人の書物も一度読んでみたいと思っている。
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こちらは旧制松本高校(現信州大学)の方。(2011年6月10日撮影)


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by kirakuossan | 2017-02-16 20:26 | 文芸 | Trackback

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