芭蕉と門人たち

2017年2月7日(火)

d0170835_11241460.jpg松尾芭蕉の優れた高弟10人を指して蕉門十哲と呼ぶ。ただ江戸時代の諸書ではその顔ぶれが一致しないが、蕪村の選んだ次の10人が一般的である。其角,嵐雪,去来,丈草,支考,許六,杉風,野坡,越人,北枝。

蕉門第一の高弟、江戸座を開くいた宝井其角(1661~1707)、其角とならんで蕉門の双璧をなし、雪門の祖である服部嵐雪(1654~1707)、嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有した向井去来(1651~1704)、義仲寺無名庵に住んだ内藤丈草(ないとうじょうそう1662~1704)、芭蕉の遺吟・遺文を集めて「笈日記」を著した各務支考(かがみしこう1665~1731)、画の名人でもあった森川許六(1656~1715)、芭蕉の経済的支援者であった杉山杉風(すぎやまさんぷう1647~1732)、芭蕉の遺書を代筆したことで知られる志太野坡(しだやば1662~1740)、「更科紀行」の旅に同行した越智越人(1656~没年不詳)そして「奥の細道」の道中に芭蕉と出会い入門した立花北枝(たちばなほくし生年不詳~1718)。もう一人「奥の細道」の旅に同行した河合曾良(1649~1710)を十哲に含めることも多い。
また各務支考は、芭蕉の亡き後、伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡って芭蕉の遺吟・遺文を集めた「笈日記」を著したが、多くの弟子も育成した。そして1719年に加賀千代女に出会い彼女の才能を認める。偶然だが、今日2月7日は支考の命日でもある。


これらの高弟のなかでとくに近江の国にかかわりの深い人がいる。森川許六で、彦根藩の藩士であり、絵師でもあった。他に漢詩を嗜み、武士としては剣術、馬術、に加え槍の名人でもあった。1692年(元禄5)に芭蕉に入門するが、芭蕉より六芸に通じた多芸の才人であったことから「許六」と言う号を授けられることになる。
松尾芭蕉(1644~1694)は「奥の細道」の翌年に初めて近江膳所を訪問し、晩年頻繁に訪れ終の棲家に選び「旧里」と呼ぶほど近江を愛した。彼は生涯980句を残したとされるがそのうち奥の細道では52句、近江湖南では89句を残している。そこでは多くの近江蕉門が輩出し、蕉門十哲の一人とされる森川許六も近江蕉門の一人として名を連ねた。
知られた近江蕉門はほかに、小庵・幻住庵を提供するなどした膳所藩の菅沼曲翠(1659~1717)、同じく膳所藩士で曲水の伯父にあたる水田正秀(1657~1723)、堅田本福寺住職の三上千那(1651~1723)、大津枡屋町の医師江左尚白(1650~1722)、芭蕉の甥とも伝えられ、蕉門十哲の一人として挙げられることもある天野桃隣(1638~1719)、さらには芭蕉の最期を大坂で看取った大津の医者望月木節などがいた。
なかでも菅沼曲翠は芭蕉が最も信頼した門人であったが、1717年藩の悪家老曽我権太夫を槍で刺殺し、自らも責任を取って切腹した。芭蕉は「幻住庵記」に「勇士曲水」と記し、初見の印象を「ただ者に非ず」と称している。 

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d0170835_15374580.jpg1694年、芭蕉は50歳の生涯を終え、近江の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言通り木曾義仲の墓の隣に葬られた。(手前が木曽義仲の墓、その奥隣りが芭蕉の墓である)

木曽殿と背中合せの寒さかな
この句については、最初芭蕉の句と思われていたが、実は門下の島崎又玄(ゆうげん)の句である。


d0170835_16134284.jpg今日、義仲寺を訪れるが、この前の小学校の同級会で出逢ったH君の家がちょうどその西隣にあって、近くまで行くと偶然にも彼が家の前に立っていて、前のガレージに駐車させてもらった。そして彼の口添えで拝観料までまけてもらう。境内奥に義仲寺を復興させた保田與重郎氏の墓と、左奥に小さな菅沼曲翠の墓標があり、その塀の向こうがH君の家である。
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d0170835_193188.jpg境内にひときわ華やかなピンクの花が。。。


叱られて次の間へ出る寒さかな 支考

雁渡る雁風呂時の夜寒かな   許六

時鳥背中見てやる麓かな 曲水


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by kirakuossan | 2017-02-07 11:19 | 文芸 | Trackback

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