2017年 01月 15日
紫式部、藤村も愛した観音信仰の聖地・石山寺 |
2017年1月15日(日)
石山寺密蔵院の庭も雪景色。
島崎藤村は20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。その傍ら、透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加、劇詩や随筆を発表する。一方で、教え子の佐藤輔子との愛の苦悩に陥り、教師として自責のため辞職する。その後、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をするという名目で関西に漂泊、ここ石山寺茶丈・東池坊密蔵院で約2か月を過ごしたとある。明治26年5月、藤村22歳のときである。密蔵院は昭和44年に現在の場所に移築されたが、当時は石山寺山門前の隣接する公園辺りに建っていた。
ここ密蔵院で今、紫式部特別企画が催されており、室町時代の紫式部聖像、狩野孝信筆、土佐光起筆のそれぞれ「紫式部図」などが公開されている。石山寺をいっそう有名にしたのは紫式部といえるが、当寺が古くから女性を受け入れることに寛容で、都に近いということもあって、平安時代の女官たちはこぞって石山寺詣でをした。紫式部もその一人であった。
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島崎藤村は20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。その傍ら、透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加、劇詩や随筆を発表する。一方で、教え子の佐藤輔子との愛の苦悩に陥り、教師として自責のため辞職する。その後、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をするという名目で関西に漂泊、ここ石山寺茶丈・東池坊密蔵院で約2か月を過ごしたとある。明治26年5月、藤村22歳のときである。密蔵院は昭和44年に現在の場所に移築されたが、当時は石山寺山門前の隣接する公園辺りに建っていた。
ここ密蔵院で今、紫式部特別企画が催されており、室町時代の紫式部聖像、狩野孝信筆、土佐光起筆のそれぞれ「紫式部図」などが公開されている。石山寺をいっそう有名にしたのは紫式部といえるが、当寺が古くから女性を受け入れることに寛容で、都に近いということもあって、平安時代の女官たちはこぞって石山寺詣でをした。紫式部もその一人であった。
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by kirakuossan
| 2017-01-15 14:00
| 偶感
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