2017年 01月 10日
☆秀盤 -34 若きプレートルの「新世界」 |
2017年1月10日(火)

ウィーン交響楽団とシュトゥットガルト放送交響楽団の名誉指揮者で、俄かに2008年のニューイヤーコンサートに登場、これを機会により名が知られるようになったフランスの名指揮者ジョルジュ・プレートル(1924~2017)が1月4日に亡くなった。ニューイヤーコンサートの成功を受けて、2年後再び招聘された。このときプレートルは86歳の高齢でニューイヤーコンサートの最高齢指揮者となった。
昨年8月14日に弊ブログ「指揮者100選」で採りあげたが、ここで☆Myライブラリーのなかで、ドヴォルザークの 「新世界より」のレコードについて書いているが、昨年手に入れたこの演奏は、とくに気に入っていて、今、偲んで聴き直しているが、実にゆったりとして情感に富んだ名演奏である。
ドヴォルザーク:
交響曲第9番 ホ短調 「新世界より」 Op. 95
パリ管弦楽団
ジョルジュ・プレートル(指揮)
1968年シャルル・ミュンシュが亡くなったあとパリ管弦楽団の後任問題が話題となったが、結局はカラヤンが音楽顧問に就いて決着した。このとき後任にジョルジュ・プレートルという名も含まれていた。藤田由之がライナーノーツでプレートルについて述べている。
それは、フランス政府が本格的にとりくんだ最初の国立オーケストラとして、初代の音楽監督にミュンシュを選んだように、フランスの指揮者をその常任とするにちがいないという見方からであって、第1候補とみなされていたジャン・マルティノンが、シカゴ交響楽団を離れて、フランス国立放送交響楽団の音楽監督に就任して間もない時点であったため、多少自由な立場にあったジャン・フルネやこのプレートルに眼が向けられたのは、むしろ必然的な結果でもあった。~
そうした経緯を裏書きするかのように、1970年に実現されたパリ管弦楽団の最初の来日では、このオーケストラ設立当初から指揮者であったセルジュ・ボードとともに、プレートルも同行し、きわめて個性的な演奏を展開していたのである。
この大阪万博1970年来日時、プレートルは5公演を受け持ったが、フェスティバル・ホールでの初日マーラーの第1番の後、3日目にこのドヴォルザークの交響曲第9番を演奏した。このレコードの演奏もちょうどその頃のもので、プレートル40代半ばであった。
当時、 FM放送で来日公演の演奏を聴いたことを記憶している。確か、ムスルグスキーの「展覧会の絵」ではなかったか、初めて聞いて、こんな音楽もあるんだ、といった思いであった。


昨年8月14日に弊ブログ「指揮者100選」で採りあげたが、ここで☆Myライブラリーのなかで、ドヴォルザークの 「新世界より」のレコードについて書いているが、昨年手に入れたこの演奏は、とくに気に入っていて、今、偲んで聴き直しているが、実にゆったりとして情感に富んだ名演奏である。
ドヴォルザーク:
交響曲第9番 ホ短調 「新世界より」 Op. 95
パリ管弦楽団
ジョルジュ・プレートル(指揮)
1968年シャルル・ミュンシュが亡くなったあとパリ管弦楽団の後任問題が話題となったが、結局はカラヤンが音楽顧問に就いて決着した。このとき後任にジョルジュ・プレートルという名も含まれていた。藤田由之がライナーノーツでプレートルについて述べている。
それは、フランス政府が本格的にとりくんだ最初の国立オーケストラとして、初代の音楽監督にミュンシュを選んだように、フランスの指揮者をその常任とするにちがいないという見方からであって、第1候補とみなされていたジャン・マルティノンが、シカゴ交響楽団を離れて、フランス国立放送交響楽団の音楽監督に就任して間もない時点であったため、多少自由な立場にあったジャン・フルネやこのプレートルに眼が向けられたのは、むしろ必然的な結果でもあった。~
そうした経緯を裏書きするかのように、1970年に実現されたパリ管弦楽団の最初の来日では、このオーケストラ設立当初から指揮者であったセルジュ・ボードとともに、プレートルも同行し、きわめて個性的な演奏を展開していたのである。

当時、 FM放送で来日公演の演奏を聴いたことを記憶している。確か、ムスルグスキーの「展覧会の絵」ではなかったか、初めて聞いて、こんな音楽もあるんだ、といった思いであった。
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by kirakuossan
| 2017-01-10 16:33
| 注目盤◎
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