2016年 11月 22日
桜田門外ノ変 ⑫ |
2016年11月22日(火)
吉村昭著「桜田門外ノ変」
「決行はいつ?」
関鉄之介は、金子孫二郎の顔に視線を据えた。
「三月三日」
金子が、即座に答えた。
大名の登城日は、年頭と五節句、それに定められた例日で、三月三日は上巳の節句で、井伊大老は必ず登城する。城に入る時刻は、四ツ(午前十時)までとされている。
三月三日といえば、明後日になる。
鉄之介は、大きくうなずき、
「襲撃場所は?」
「桜田門外」
金子が、鉄之介に視線をむけたまま答えた。
登城する大名は大手門または桜田門から入るが、井伊大老がいる彦根藩邸は外桜田にあり、行列は藩邸の門を出ると濠ぞいに東へ進み、桜田門から城内に入る。邸から門までの距離は短く、そこを襲撃場所に決定したという。
「襲撃の指揮は、関、お前がとる」
金子の言葉に、鉄之介は、一瞬、絶句したが、
「承知仕りました」と、張りのある声で答えた。
ここで襲撃について5つの規約が定められた。
一、武監ヲ携へ、諸家ノ道具鑑定ノ体ヲ為スベシ
一、四、五人宛組合、互ニ応援スベシ
一、初メニ先供ニ討掛リ、駕籠脇ノ狼狽スル機ヲ見テ元悪ヲ討取ルベシ
一、元悪ハ十分討留タリトモ、必ズ首級ヲ揚グベシ
一、負傷スル者は自殺、又ハ閣老ニ至テ自訴ス。其余ハ皆京ニ徴行スベシ
一人ずつで斬り合うな、彦根藩士は武芸に長じた者ばかりだから、4~5人が束になって一人を攻める。そしてまず行列の先頭を進む者に突然斬りこめば相手は狼狽して、必ず駕籠から離れて先頭の方へ走るであろうから、この隙に手薄になった駕籠の側面から襲撃する。大老を殺害したあとは必ず首を打ち落とすこと。もし負傷すればその場で自害せよ。また軽傷の者は幕府に自首して、井伊大老討ち取りの意義を述べよ。無傷の者は一人残らず京に向って潜行せよ、といった規約である。ここで面白いのは、一番に挙げた、「武監ヲ携へ」という指示である。
武監とは大名武監で、須原屋などで出版され、各大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、内室、家紋、旗指物などが記されている。
年頭または五節句には各大名が総登城し、その行列が大手門、桜田門にむかう情景は華やかなので、それを眼にしようと門外付近に集る好事家が多い、かれらは、供揃えをくんで近づく行列を、どこの大名かと武監でたしかめ、大名の乗る駕籠や諸道具を見るのを楽しみにしている。
襲撃する同志が武監を手にしていれば、大名行列を見物する者と考えて、井伊大老の従者も警戒しないはずであった。
いつの時代にも、こういったガイドブックみたいのがあって、もの好きな連中はこれを片手に、大名行列を興奮して見ていたのだろう。これには妙案と感心するとともに、思わず笑ってしまった。
そしてさらに具体的に総勢18士の役割分担が、鉄之介から指示が出た。
・大老の死を見届ける検視見届け役・・・岡部三十郎(43歳)
・斬奸趣意書を老中に提出する役・・・斎藤監物(39歳本人が執筆)
・先供に斬りかかる役目・・・森五六郎(剣術に長じた23歳)
・駕籠の両側から急襲する者
右翼(お濠側)・・・佐野竹之助(21歳)、大関和七郎(26歳)、広岡子之次郎(20歳)、稲田重蔵(47歳)、森山繁之介(27歳)、海後磋磯之介(32歳)
左翼(松平邸の塀側)・・・黒澤忠三郎(32歳)、山口辰之介(29歳)、杉山弥一郎(38歳)、増子金八誠(38歳)、蓮田一五郎(29歳)、鯉淵要人(51歳)、広木松之介(25歳)、有村次左衛門(23歳唯一の薩摩藩)
・短銃5挺を持つ者・・・関、斉藤、稲田、森、黒沢
鉄之介は、皆を見まわした。
「これで打ち合わせはすべて終った。明朝、六ツ半(七時)までに愛宕山上に勢揃いする」
緊張がとかれ、酒がはこびこまれた。
襲撃成功後、生きていた者は京へむかう。そのための旅費として、金子孫二郎から三両ずつが支給されていたが、潜伏中にそれに手をつけていた者もいた。
鉄之介は、一人一人に所持金の額をたずね、三両にみたない者には胴巻きの金を手渡した。
風がさらに強くなったらしく、雨戸がしきりに鳴る。
かれは、立ち上って別室に入ると、敷かれたふとんに身を横たえた。妻子の顔が、眼の前にうかぶ。襲撃の手筈は潜伏中にあれこれと練ったので、悔いはない。
かれは、眼をとじた。
この時、関鉄之介、35歳であった。
つづく・・・
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吉村昭著「桜田門外ノ変」
「決行はいつ?」
関鉄之介は、金子孫二郎の顔に視線を据えた。
「三月三日」
金子が、即座に答えた。
大名の登城日は、年頭と五節句、それに定められた例日で、三月三日は上巳の節句で、井伊大老は必ず登城する。城に入る時刻は、四ツ(午前十時)までとされている。
三月三日といえば、明後日になる。
鉄之介は、大きくうなずき、
「襲撃場所は?」
「桜田門外」
金子が、鉄之介に視線をむけたまま答えた。
登城する大名は大手門または桜田門から入るが、井伊大老がいる彦根藩邸は外桜田にあり、行列は藩邸の門を出ると濠ぞいに東へ進み、桜田門から城内に入る。邸から門までの距離は短く、そこを襲撃場所に決定したという。
「襲撃の指揮は、関、お前がとる」
金子の言葉に、鉄之介は、一瞬、絶句したが、
「承知仕りました」と、張りのある声で答えた。
ここで襲撃について5つの規約が定められた。
一、武監ヲ携へ、諸家ノ道具鑑定ノ体ヲ為スベシ
一、四、五人宛組合、互ニ応援スベシ
一、初メニ先供ニ討掛リ、駕籠脇ノ狼狽スル機ヲ見テ元悪ヲ討取ルベシ
一、元悪ハ十分討留タリトモ、必ズ首級ヲ揚グベシ
一、負傷スル者は自殺、又ハ閣老ニ至テ自訴ス。其余ハ皆京ニ徴行スベシ
一人ずつで斬り合うな、彦根藩士は武芸に長じた者ばかりだから、4~5人が束になって一人を攻める。そしてまず行列の先頭を進む者に突然斬りこめば相手は狼狽して、必ず駕籠から離れて先頭の方へ走るであろうから、この隙に手薄になった駕籠の側面から襲撃する。大老を殺害したあとは必ず首を打ち落とすこと。もし負傷すればその場で自害せよ。また軽傷の者は幕府に自首して、井伊大老討ち取りの意義を述べよ。無傷の者は一人残らず京に向って潜行せよ、といった規約である。ここで面白いのは、一番に挙げた、「武監ヲ携へ」という指示である。
武監とは大名武監で、須原屋などで出版され、各大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、内室、家紋、旗指物などが記されている。
年頭または五節句には各大名が総登城し、その行列が大手門、桜田門にむかう情景は華やかなので、それを眼にしようと門外付近に集る好事家が多い、かれらは、供揃えをくんで近づく行列を、どこの大名かと武監でたしかめ、大名の乗る駕籠や諸道具を見るのを楽しみにしている。
襲撃する同志が武監を手にしていれば、大名行列を見物する者と考えて、井伊大老の従者も警戒しないはずであった。
いつの時代にも、こういったガイドブックみたいのがあって、もの好きな連中はこれを片手に、大名行列を興奮して見ていたのだろう。これには妙案と感心するとともに、思わず笑ってしまった。
そしてさらに具体的に総勢18士の役割分担が、鉄之介から指示が出た。
・大老の死を見届ける検視見届け役・・・岡部三十郎(43歳)
・斬奸趣意書を老中に提出する役・・・斎藤監物(39歳本人が執筆)
・先供に斬りかかる役目・・・森五六郎(剣術に長じた23歳)
・駕籠の両側から急襲する者
右翼(お濠側)・・・佐野竹之助(21歳)、大関和七郎(26歳)、広岡子之次郎(20歳)、稲田重蔵(47歳)、森山繁之介(27歳)、海後磋磯之介(32歳)
左翼(松平邸の塀側)・・・黒澤忠三郎(32歳)、山口辰之介(29歳)、杉山弥一郎(38歳)、増子金八誠(38歳)、蓮田一五郎(29歳)、鯉淵要人(51歳)、広木松之介(25歳)、有村次左衛門(23歳唯一の薩摩藩)
・短銃5挺を持つ者・・・関、斉藤、稲田、森、黒沢
鉄之介は、皆を見まわした。
「これで打ち合わせはすべて終った。明朝、六ツ半(七時)までに愛宕山上に勢揃いする」
緊張がとかれ、酒がはこびこまれた。
襲撃成功後、生きていた者は京へむかう。そのための旅費として、金子孫二郎から三両ずつが支給されていたが、潜伏中にそれに手をつけていた者もいた。
鉄之介は、一人一人に所持金の額をたずね、三両にみたない者には胴巻きの金を手渡した。
風がさらに強くなったらしく、雨戸がしきりに鳴る。
かれは、立ち上って別室に入ると、敷かれたふとんに身を横たえた。妻子の顔が、眼の前にうかぶ。襲撃の手筈は潜伏中にあれこれと練ったので、悔いはない。
かれは、眼をとじた。
この時、関鉄之介、35歳であった。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-11-22 15:47
| ヒストリー
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