2016年 11月 12日
桜田門外ノ変 ⑤ |
2016年11月12日(土)
吉村昭著「桜田門外ノ変」
日米修好通商条約締結には裏話がある。彦根藩邸に戻った井伊直弼(1815~1860)は、朝廷の認許を待たずに調印したことは、責任重大で、お家の一大事である、と側近の家臣からきびしく問いただされる。これに対して井伊は答えた。
「危急のこと故、朝廷の許可を待つ余裕はない。海外の情勢を冷静に考えると、異国は国富み、兵は強く、そのもとめを拒絶すれば必ず戦争となる。わが国の武備は貧しく、到底、勝利はおぼつかない。国敗れて土地を異国に割くとすれば、国辱これより大なるはなし。今、要求をこばんで国を不幸におとしいれるか、それとも勅許を得ずして国を救うか。朝廷から政治をまかされている幕府としては、臨機応変、よしと思う道を勇気を持って進まねばならない。朝廷の許可を待たずに条約を締結することは重罪であるが、それは私が甘んじて一身に負う覚悟だ」
と、決意の光を眼にうかべて言った。
通商条約の調印が井伊直弼により朝廷に無断で行われたことに孝明天皇は激怒する。強い反感を示したのは、薩摩藩主の島津斉彬であり、西郷吉兵衛(隆盛)も同様であった。孝明天皇は幕府に厳しく詰問することになる。その勅命書は朝廷から幕府のみならず井伊直弼が日ごろより遠ざけていた水戸藩にも直接下ることになる。
勅命書の内容は、
一、日米修好通商条約が勅命を得ずして調印されたことは、まことに不都合であること
二、水戸、尾張、越前家への処罰は、どのような罪によるものか甚だ理解しがたいこと
三、大老、老中は、御三家、諸大名の意見を十分に尊重し、朝廷と連携して国内をおさめ、外国の侮りをうけぬこと
などであった。また、勅令の趣旨を御三家、御三卿をはじめ諸大名にももれなくつたえるようにという副書も添えられていた。
幕府と水戸藩への勅令書降下を知った日下部をはじめ梁川星巌、梅田雲浜らは、井伊大老の幕府政策に大きな衝撃をあたえることができる、喜び合った。
「水戸藩に勅命書が?」
鉄之介は、驚きの声をあげた。
幕府に勅命書がくだされるのは理解できるが、それと同じ内容のものが水戸藩に下賜されることは全く異例のことである。それは、朝廷が、幕府を改革するには水戸藩の力にたよるいがいにないと確信したことをしめすもので、同時に井伊大老の幕府政治に強い不信感をいだいているあらわれでもある。
鉄之介は、朝廷が水戸藩に深い信頼を寄せていることに胸が熱くなるのを感じた。
ところがこの勅命書に書かれた内容を井伊は無視する行動を取り、幕府と水戸藩は完全に対立し、次々と水戸藩の重臣の更迭を命じ、あるいはたとえ御三家でも機に応じては処置をするという強硬手段にでる。
井伊大老は、反対勢力の根絶をくわだて、多くの尊王攘夷の志士を捕らえたが、それ以外に幕政を批判する有力公卿の近臣を捕らえたことは、朝廷を少しも恐れぬ意思を公然としめしたものであった。
そこで水戸藩は協議を重ね、今の幕府政治をくつがえすのには大老を倒すしかなく、尊王攘夷を支持する諸藩が一同に兵をあげ、朝廷を守護する以外にはないという結論に達する。このことは会沢正志斉も賛意をしめし、そのためにも水戸藩単独では難しく、親交のある越前、鳥取、長州、薩摩、土佐、宇和島の諸藩の支援を仰ぐことになる。そしてその各藩に送る使者として、水原村で喜三郎を待つこと3か月、遅々として進まない蝦夷地への視察を切り上げ戻って来た関鉄之介も指名され、矢野長九郎とともに、越前、鳥取、長州にあたることになった。また、薩摩以下は、住谷寅之介、大胡聿蔵があたることになった。
つづく・・・
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吉村昭著「桜田門外ノ変」
日米修好通商条約締結には裏話がある。彦根藩邸に戻った井伊直弼(1815~1860)は、朝廷の認許を待たずに調印したことは、責任重大で、お家の一大事である、と側近の家臣からきびしく問いただされる。これに対して井伊は答えた。
「危急のこと故、朝廷の許可を待つ余裕はない。海外の情勢を冷静に考えると、異国は国富み、兵は強く、そのもとめを拒絶すれば必ず戦争となる。わが国の武備は貧しく、到底、勝利はおぼつかない。国敗れて土地を異国に割くとすれば、国辱これより大なるはなし。今、要求をこばんで国を不幸におとしいれるか、それとも勅許を得ずして国を救うか。朝廷から政治をまかされている幕府としては、臨機応変、よしと思う道を勇気を持って進まねばならない。朝廷の許可を待たずに条約を締結することは重罪であるが、それは私が甘んじて一身に負う覚悟だ」
と、決意の光を眼にうかべて言った。
通商条約の調印が井伊直弼により朝廷に無断で行われたことに孝明天皇は激怒する。強い反感を示したのは、薩摩藩主の島津斉彬であり、西郷吉兵衛(隆盛)も同様であった。孝明天皇は幕府に厳しく詰問することになる。その勅命書は朝廷から幕府のみならず井伊直弼が日ごろより遠ざけていた水戸藩にも直接下ることになる。
勅命書の内容は、
一、日米修好通商条約が勅命を得ずして調印されたことは、まことに不都合であること
二、水戸、尾張、越前家への処罰は、どのような罪によるものか甚だ理解しがたいこと
三、大老、老中は、御三家、諸大名の意見を十分に尊重し、朝廷と連携して国内をおさめ、外国の侮りをうけぬこと
などであった。また、勅令の趣旨を御三家、御三卿をはじめ諸大名にももれなくつたえるようにという副書も添えられていた。
幕府と水戸藩への勅令書降下を知った日下部をはじめ梁川星巌、梅田雲浜らは、井伊大老の幕府政策に大きな衝撃をあたえることができる、喜び合った。
「水戸藩に勅命書が?」
鉄之介は、驚きの声をあげた。
幕府に勅命書がくだされるのは理解できるが、それと同じ内容のものが水戸藩に下賜されることは全く異例のことである。それは、朝廷が、幕府を改革するには水戸藩の力にたよるいがいにないと確信したことをしめすもので、同時に井伊大老の幕府政治に強い不信感をいだいているあらわれでもある。
鉄之介は、朝廷が水戸藩に深い信頼を寄せていることに胸が熱くなるのを感じた。
ところがこの勅命書に書かれた内容を井伊は無視する行動を取り、幕府と水戸藩は完全に対立し、次々と水戸藩の重臣の更迭を命じ、あるいはたとえ御三家でも機に応じては処置をするという強硬手段にでる。
井伊大老は、反対勢力の根絶をくわだて、多くの尊王攘夷の志士を捕らえたが、それ以外に幕政を批判する有力公卿の近臣を捕らえたことは、朝廷を少しも恐れぬ意思を公然としめしたものであった。
そこで水戸藩は協議を重ね、今の幕府政治をくつがえすのには大老を倒すしかなく、尊王攘夷を支持する諸藩が一同に兵をあげ、朝廷を守護する以外にはないという結論に達する。このことは会沢正志斉も賛意をしめし、そのためにも水戸藩単独では難しく、親交のある越前、鳥取、長州、薩摩、土佐、宇和島の諸藩の支援を仰ぐことになる。そしてその各藩に送る使者として、水原村で喜三郎を待つこと3か月、遅々として進まない蝦夷地への視察を切り上げ戻って来た関鉄之介も指名され、矢野長九郎とともに、越前、鳥取、長州にあたることになった。また、薩摩以下は、住谷寅之介、大胡聿蔵があたることになった。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-11-12 19:03
| ヒストリー
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