2016年 10月 05日
加藤周一と信州で出逢った人たち 5 |
2016年10月5日(水)
岩波茂雄(1881~1946)は信州の人である。~
岩波茂雄と親しかった知識人の中には漱石の直接または間接の弟子たちが多い。たとえば教育家の安倍能成、思想家の阿部次郎、小説家の芥川龍之介や野上弥生子など。いわゆる「岩波文化」は第一に漱石周辺の人々と重なり、またそれだけでなく第二に鷗外の弟子たち(荷風や杢太郎や斎藤茂吉)とも重なっていた。吉野作造を中心とする東京大学の自由主義者や西田幾太郎が代表する京都大学の哲学者たちとも密接な関係にあった。「大正教養主義」とか「大正デモクラシー」とかいう言葉は「岩波文化」と切り離して考えることができない。~
岩波茂雄その人と私は会ったことがない。長い外国暮らしから帰り、私が『世界』の吉野源三郎編集長をはじめ書店の編集者たちと親しくつき合うようになった時、彼はもういなかった。
岩波茂雄は長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる。直接は関係ないだろうが、上諏訪温泉に「親湯」という老舗の温泉旅館が(今はホテル)あるが、いつも行く蓼科温泉郷にも同じホテル「親湯」がある。そこのロビーは書籍でいっぱいに埋め尽くされているが、玄関ロビーの右奥には岩波文庫が全巻備え付けてある。全国の温泉でもここだけと思われるが、ひょっとすれば「親湯」の先代か先々代と岩波茂雄は交流があったかもしれない。単なる憶測だが・・・
墓所は昨年11月17日に訪れたが、小林秀雄や野上弥生子、安倍能成らと並んで北鎌倉の尼寺東慶寺にある。
信州人が創立した出版社は岩波書店だけではなかった。古田晁、臼井吉見(1905~87)、唐木順三の松本高等学校卒業三人組は1940年に東京で筑摩書房を始めた。古田さんは経営者、臼井さんは編集者、唐木さんは思想的な顧問という役割だろう。~
私は臼井さんをよく知っていた。それは『展望』を通してのつき合いである。『展望』は宮本百合子や太宰治の小説を載せ、柳田国男や田辺元の文章も載せていた。しかし編集長の臼井さんは、戦後はじめて書きだした著者たち、たとえば大岡昇平や椎名鱗三にも紙面を割いたのである。
そもそも筑摩書房は古田晁(1906~1973)が創業したが、古田の故郷は長野県東筑摩郡筑摩地村、現在の塩尻市である。社名はその地名からとった。2年後に臼井吉見、中村光夫、唐木順三らが顧問として加わった。1946年に雑誌『展望』を創刊、48年に『展望』で太宰治の「人間失格」を連載し、同年 『中島敦全集』を刊行、50年代半ばには『太宰治全集』や『宮沢賢治全集』を刊行し、さらに60年代になって 『定本柳田國男集』や『井伏鱒二全集』を発刊するなど順調に推移した。ただ経営は苦しく、資金不足は古田の故郷の山林などを処分して補った。ところが古田が1973年に亡くなり、ますます業績不振に陥り、1978年7月経営破たんしてしまう。その後、90年代になってちくま学芸文庫やちくま新書を相次いで創刊、再建された。なお、筑摩書房の鷹のマークは青山二郎の作である。
臼井さんには信州の愛着があったのだろうか。東京神田神保町界隈で会った時にも、長野への旅の途中で軽井沢に寄った時にさえも、私たちの話が信州の人と風物に及んだ記憶はない。しかし彼の思いが絶えず故郷へかえっていったことはあきらかである。『蛙のうた』で編集者としての半生を回想した臼井さんは、その後同郷の相馬夫妻(相馬愛蔵と夫人良)の生涯を通して二十世紀の日本社会思想史を描く長大な小説五巻『安曇野』を書いた。
残雪の高い山々がうしろにひかえた、いまごろの安曇野ほど美しいところを良は知らなかった。見渡すかぎり、紫雲英(れんげ)の花で埋もれ、そこかしこに土蔵の白壁がちらほらする。大地主もなく、貧農もない、多くは勤勉な自作農で、家のつくりにも、それらしいおちつきがある。・・・
加藤周一著『高原好日』より。。。
つづく・・・
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岩波茂雄(1881~1946)は信州の人である。~
岩波茂雄と親しかった知識人の中には漱石の直接または間接の弟子たちが多い。たとえば教育家の安倍能成、思想家の阿部次郎、小説家の芥川龍之介や野上弥生子など。いわゆる「岩波文化」は第一に漱石周辺の人々と重なり、またそれだけでなく第二に鷗外の弟子たち(荷風や杢太郎や斎藤茂吉)とも重なっていた。吉野作造を中心とする東京大学の自由主義者や西田幾太郎が代表する京都大学の哲学者たちとも密接な関係にあった。「大正教養主義」とか「大正デモクラシー」とかいう言葉は「岩波文化」と切り離して考えることができない。~
岩波茂雄その人と私は会ったことがない。長い外国暮らしから帰り、私が『世界』の吉野源三郎編集長をはじめ書店の編集者たちと親しくつき合うようになった時、彼はもういなかった。
岩波茂雄は長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる。直接は関係ないだろうが、上諏訪温泉に「親湯」という老舗の温泉旅館が(今はホテル)あるが、いつも行く蓼科温泉郷にも同じホテル「親湯」がある。そこのロビーは書籍でいっぱいに埋め尽くされているが、玄関ロビーの右奥には岩波文庫が全巻備え付けてある。全国の温泉でもここだけと思われるが、ひょっとすれば「親湯」の先代か先々代と岩波茂雄は交流があったかもしれない。単なる憶測だが・・・
墓所は昨年11月17日に訪れたが、小林秀雄や野上弥生子、安倍能成らと並んで北鎌倉の尼寺東慶寺にある。
信州人が創立した出版社は岩波書店だけではなかった。古田晁、臼井吉見(1905~87)、唐木順三の松本高等学校卒業三人組は1940年に東京で筑摩書房を始めた。古田さんは経営者、臼井さんは編集者、唐木さんは思想的な顧問という役割だろう。~
私は臼井さんをよく知っていた。それは『展望』を通してのつき合いである。『展望』は宮本百合子や太宰治の小説を載せ、柳田国男や田辺元の文章も載せていた。しかし編集長の臼井さんは、戦後はじめて書きだした著者たち、たとえば大岡昇平や椎名鱗三にも紙面を割いたのである。
そもそも筑摩書房は古田晁(1906~1973)が創業したが、古田の故郷は長野県東筑摩郡筑摩地村、現在の塩尻市である。社名はその地名からとった。2年後に臼井吉見、中村光夫、唐木順三らが顧問として加わった。1946年に雑誌『展望』を創刊、48年に『展望』で太宰治の「人間失格」を連載し、同年 『中島敦全集』を刊行、50年代半ばには『太宰治全集』や『宮沢賢治全集』を刊行し、さらに60年代になって 『定本柳田國男集』や『井伏鱒二全集』を発刊するなど順調に推移した。ただ経営は苦しく、資金不足は古田の故郷の山林などを処分して補った。ところが古田が1973年に亡くなり、ますます業績不振に陥り、1978年7月経営破たんしてしまう。その後、90年代になってちくま学芸文庫やちくま新書を相次いで創刊、再建された。なお、筑摩書房の鷹のマークは青山二郎の作である。
臼井さんには信州の愛着があったのだろうか。東京神田神保町界隈で会った時にも、長野への旅の途中で軽井沢に寄った時にさえも、私たちの話が信州の人と風物に及んだ記憶はない。しかし彼の思いが絶えず故郷へかえっていったことはあきらかである。『蛙のうた』で編集者としての半生を回想した臼井さんは、その後同郷の相馬夫妻(相馬愛蔵と夫人良)の生涯を通して二十世紀の日本社会思想史を描く長大な小説五巻『安曇野』を書いた。
残雪の高い山々がうしろにひかえた、いまごろの安曇野ほど美しいところを良は知らなかった。見渡すかぎり、紫雲英(れんげ)の花で埋もれ、そこかしこに土蔵の白壁がちらほらする。大地主もなく、貧農もない、多くは勤勉な自作農で、家のつくりにも、それらしいおちつきがある。・・・
加藤周一著『高原好日』より。。。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-10-05 19:29
| 文芸
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