2016年 06月 13日
『小説家の休暇』 ~三島文学の核心が見えてくる。 ⑥ |
2016年6月13日(月)
八月四日(木)(昭和30年)
昨日につづき涼し。
今までつけてきた私の日記のさまざまな題目は、私が気随気儘に書いて来たものであるが、意地悪な人から見れば、現代日本の文化的混乱の好個の見本と見えるであろう。私は全く自分の趣味に従ったのに、個人的趣味のなかにさえ、このような混乱と矛盾撞着が渦巻いている。単なる社会現象に興味のない私は、マンボ風俗なるものにも、スマートボールがパチンコに変った現象にも、一切触れないで了ったが、それでも混乱はかように露呈され、何人もそれを覆うことはできない。私は「アドルフ」を読み、その足で文楽の出開帳をききに行く。時には、フランス美術展を見た足で、プロ・レスリングの試合を見に行ったり、マンボを踊って帰って、昆布の茶漬を喰ったりしかねない。
ために社会的矛盾も単なる矛盾の一種と思われかねないほど、われわれの家常茶飯はありとあらゆる矛盾のなかに繰り返される。そしてこういうことは、気むずかしい社会評論家も、夙うに語り飽きた問題である。
三島由紀夫『小説家の休暇』より
日記は日々あらゆる題目で書かれてあったが、自分にとっては難しすぎて理解できないことや、全く世界が違うな、と思うことは挙げてこなかった。ただこの短い日記を追ってきただけで、なにか三島由紀夫の知らなかった、あるいは隠された片鱗が垣間見れた気がした。
川端康成を師と仰いだことは意外であったが、また別の機会に彼の書いた川端康成像をみてみたい。愛情と畏敬に満ちた文章で、川端の全貌をこれ以上適確に描き表わしたものはないだろう。この文章を通してまた三島の義理堅さ、誠実さが浮き彫りになるのである。
「本当の美とは人を黙らせるものであります」
「世の中って、真面目にしたことは大抵失敗するし、不真面目にしたことはうまくいく」
「人間はあやまちを犯してはじめて真理を知る」
「死は行為だが、これほど一回的な究極的行為はない」
妹はきれいなパラソルもらつたが雨降りつづきで気の毒だな (小 8.12)
散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐 (45.11.23)
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八月四日(木)(昭和30年)
昨日につづき涼し。
今までつけてきた私の日記のさまざまな題目は、私が気随気儘に書いて来たものであるが、意地悪な人から見れば、現代日本の文化的混乱の好個の見本と見えるであろう。私は全く自分の趣味に従ったのに、個人的趣味のなかにさえ、このような混乱と矛盾撞着が渦巻いている。単なる社会現象に興味のない私は、マンボ風俗なるものにも、スマートボールがパチンコに変った現象にも、一切触れないで了ったが、それでも混乱はかように露呈され、何人もそれを覆うことはできない。私は「アドルフ」を読み、その足で文楽の出開帳をききに行く。時には、フランス美術展を見た足で、プロ・レスリングの試合を見に行ったり、マンボを踊って帰って、昆布の茶漬を喰ったりしかねない。
ために社会的矛盾も単なる矛盾の一種と思われかねないほど、われわれの家常茶飯はありとあらゆる矛盾のなかに繰り返される。そしてこういうことは、気むずかしい社会評論家も、夙うに語り飽きた問題である。
三島由紀夫『小説家の休暇』より
日記は日々あらゆる題目で書かれてあったが、自分にとっては難しすぎて理解できないことや、全く世界が違うな、と思うことは挙げてこなかった。ただこの短い日記を追ってきただけで、なにか三島由紀夫の知らなかった、あるいは隠された片鱗が垣間見れた気がした。
川端康成を師と仰いだことは意外であったが、また別の機会に彼の書いた川端康成像をみてみたい。愛情と畏敬に満ちた文章で、川端の全貌をこれ以上適確に描き表わしたものはないだろう。この文章を通してまた三島の義理堅さ、誠実さが浮き彫りになるのである。
「本当の美とは人を黙らせるものであります」
「世の中って、真面目にしたことは大抵失敗するし、不真面目にしたことはうまくいく」
「人間はあやまちを犯してはじめて真理を知る」
「死は行為だが、これほど一回的な究極的行為はない」
妹はきれいなパラソルもらつたが雨降りつづきで気の毒だな (小 8.12)
散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐 (45.11.23)
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by kirakuossan
| 2016-06-13 15:29
| 文芸
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