2016年 05月 14日
前島密から大久保利通へ、そして味噌カツサンド |
2016年5月14日(土)
先日10日にかみさんと娘と3人で鎌倉方面へドライブに出かけた。とくにこれと言ったあてもなく車を東へ走らせた。湘南海岸沿いにある有名なカレー店「珊瑚礁」の前を通りかかるが、昼食にはまだ早いのでと、通りすごし、少し行って、鎌倉方面と三浦半島への分岐点にさしかかる。うっかりして右に真っ直ぐ走行、三浦半島へと向かうことになった。こうなったら城ケ島まで出て、三崎の鮪丼でも、と以前食べた豪快な美味さを思い出したが、すぐさま二人から反対意見が出て、結局、コメダコーヒーでサンドイッチをパクつくというごくありきたりのひるめしとなった。ところがこの味噌カツサンドが実に美味かった。しかもボリューム満点。萩ヤンに言わせれば「お前、食い過ぎや!」とまた云われかねないほどで、おかげで夕食時もまだ満腹状態だった。
まあそんなことは余談として、途中道路沿いに大きな看板を目にした。前島密翁の墓所とあった。そうか、三浦の人か、と思いながら直進する。前島密は越後の生まれだが、晩年は三浦半島西海岸にあるここ浄楽寺境内の別荘「如々山荘」で過ごした。その前島密が大久保利通から悪夢の話を聞かされた逸話がある。「西郷と口論して、俺は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」
その数日後の1878年(明治11)5月14日、「紀尾井坂の変」が起きた。紀尾井ホールや上智大学のキャンバスがある、そうあの急な上り坂のあるふもとでの出来事だ。
同じ薩摩同士、のちに所謂”征韓論”の意見相違で袂を分けてしまうが、どうしても西郷隆盛と比較されると、人気面で大久保利通が不利であり、誤解もあって評判の方も芳しくはない。当時、時代を先読みして将来の日本が進むべき道を最も明確にとらえていたのは大久保に他ならない。片方で公金で私服を肥やしたという間違った見方があったが、実際は金銭に潔白な政治家で、公共事業などに、逆に私財を投げ打ったぐらいであった。そのため大久保の死後、多額の借金が残ったといわれているが、政府はあまりにも気の毒だということで、大久保が生前、鹿児島県に寄付した全額を遺族のためにと返還した。当時の政府は粋な計らいをしたもんだ。
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まあそんなことは余談として、途中道路沿いに大きな看板を目にした。前島密翁の墓所とあった。そうか、三浦の人か、と思いながら直進する。前島密は越後の生まれだが、晩年は三浦半島西海岸にあるここ浄楽寺境内の別荘「如々山荘」で過ごした。その前島密が大久保利通から悪夢の話を聞かされた逸話がある。「西郷と口論して、俺は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」
その数日後の1878年(明治11)5月14日、「紀尾井坂の変」が起きた。紀尾井ホールや上智大学のキャンバスがある、そうあの急な上り坂のあるふもとでの出来事だ。
同じ薩摩同士、のちに所謂”征韓論”の意見相違で袂を分けてしまうが、どうしても西郷隆盛と比較されると、人気面で大久保利通が不利であり、誤解もあって評判の方も芳しくはない。当時、時代を先読みして将来の日本が進むべき道を最も明確にとらえていたのは大久保に他ならない。片方で公金で私服を肥やしたという間違った見方があったが、実際は金銭に潔白な政治家で、公共事業などに、逆に私財を投げ打ったぐらいであった。そのため大久保の死後、多額の借金が残ったといわれているが、政府はあまりにも気の毒だということで、大久保が生前、鹿児島県に寄付した全額を遺族のためにと返還した。当時の政府は粋な計らいをしたもんだ。
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by kirakuossan
| 2016-05-14 10:40
| 偶感
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