2016年 03月 15日
世襲本因坊 -8 |
2016年3月15日(火)
囲碁の対局心理というものは面白いものである。第一局目は相手の様子を見ながら慎重に打つので細碁になり善戦、でも惜敗し、当然もう一局となる。今度は相手の様子もわかったので伸び伸び打ち進めるので良い結果が出ることもあるが得てして大味な碁になってしまい連敗の憂き目に遭うことの方が多い。第一局目の接戦からしてこんなはずではないと、で、もう一局、と三度目の対局となるが、しかし気合いだけが先行して、空回りに終わり凡庸な、最も悪い碁になって敗れ去る。そして次は?といえば、立て続けに3連敗すると、もう戦う気力は完全に萎えてしまっているのである。
まあ、これは小生などのヘボ碁のことなのであまりあてにはならないが、でも人間の心理とは誰でもよく似た、そんなものだと思う。
宝永三年(1706)六月二日に行われた安井仙角と本因坊道知の十番碁の第三局。敗れ去った仙角にすればまさにこのような心境ではなかったかと思う。
安井仙角(1673~1737)は、家元安井家三世安井知哲門下で、19歳で安井知哲の跡目となり、のち家督を継いで四世安井仙角となる。八段準名人とはいえ御城碁でも38局(17勝16敗5ジゴ)を勤めるほどの実力者であった。仙角はこのときまだ六段であったが、道知とすでに2年前の御城碁で対戦しており、その時の手合いは「定先」。ところが今回は道知が四段から六段に昇格したこともあって互先で打つよう申し入れた。これには仙角も納得がいかず、寺社奉行のさばきで争碁となり、手合いはその中間をとって「先相先」ということに決まった。これを「宝永の争碁」とよんだ。
手合割
「互先」・・・2局一組とし、交互に先手を持ち、同一の相手とは偶数局を行う。(差なし)
「先相先」・・・3局一組とし、下位者が3局のうち2局で先番、1局で後手番とする。(1段差)
「定先」・・・下位者が3局のうち3局とも先番とする。(2段差)
「先二先」・・・下位者が3局のうち2局を先手、1局を2子番とする。(3段差)
争碁の第一局は白の仙角が序盤から優勢に立つも、道知がヨセの妙手で逆転、一目勝ちを収めた。第二局も先番は道知で、これも15目勝ちと圧倒した。そして迎えた第三局、今度は黒を持った仙角、断然優位のはずが、道知の伸び伸びとした打ちまわしに翻弄され、白3目の勝ちとなって、道知の3連勝、仙角3連敗。これにより仙角は「互先」の手合を了承して争碁は中止となった。このとき仙角33歳、道知は弱冠16歳であった。
五世本因坊道知(1690~1727)は本因坊道策門下で、師道策から跡目に指名され、師が没した時は、道知13歳であった。この時の後見人は元本因坊門下の、井上家の井上道節因碩であったが、御城碁に初出仕した道知が林玄悦門入に先で7目勝ちすると、翌年には、四段格で安井仙角に挑戦、先で5目勝ち。これで井上道節は道知に六段の力ありとし、先ほどの「宝永の争碁」の活躍までに育て上げ、見事後見人の役目を果たす。ここでの井上道節、ちょうど80年前、一世本因坊算砂から二世本因坊算悦の指導教育を頼まれる中村道碩、のちの井上家名誉一世にだぶる。二度にわたる井上家の援助で本因坊家は生きながらえていくことになる。
ところで道知は強かったのか?御城碁では19局対戦して、11勝7敗1ジゴ。安井仙角とは「互先」になってからは2勝2敗の5分であった。ただ御城碁では四家とのしきたりや決まり事も煩雑で、なかなか思い切った碁が打ちにくい事情もあってか、道知が本気で対局した碁は稀であったさえ言われている。31歳で名人碁所に就くものの、その真の力が発揮されないうち、彼もまた36歳で早世してしまう。
そして本因坊家にとってはさらに試練が打ち寄せる。道知を継いだ六世本因坊知伯(1710~1733)、次の七世本因坊秀伯(1716~1741)、さらに八世本因坊伯元(1726~1754)までもが何れも20歳代で夭折するという不運が続き、3人続けて六段止まりという最大のピンチに本因坊家は立たされた。道知が亡くなってからの数十年間は同時に碁界全体の沈滞期でもあった。
つづく・・・
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囲碁の対局心理というものは面白いものである。第一局目は相手の様子を見ながら慎重に打つので細碁になり善戦、でも惜敗し、当然もう一局となる。今度は相手の様子もわかったので伸び伸び打ち進めるので良い結果が出ることもあるが得てして大味な碁になってしまい連敗の憂き目に遭うことの方が多い。第一局目の接戦からしてこんなはずではないと、で、もう一局、と三度目の対局となるが、しかし気合いだけが先行して、空回りに終わり凡庸な、最も悪い碁になって敗れ去る。そして次は?といえば、立て続けに3連敗すると、もう戦う気力は完全に萎えてしまっているのである。
まあ、これは小生などのヘボ碁のことなのであまりあてにはならないが、でも人間の心理とは誰でもよく似た、そんなものだと思う。
安井仙角(1673~1737)は、家元安井家三世安井知哲門下で、19歳で安井知哲の跡目となり、のち家督を継いで四世安井仙角となる。八段準名人とはいえ御城碁でも38局(17勝16敗5ジゴ)を勤めるほどの実力者であった。仙角はこのときまだ六段であったが、道知とすでに2年前の御城碁で対戦しており、その時の手合いは「定先」。ところが今回は道知が四段から六段に昇格したこともあって互先で打つよう申し入れた。これには仙角も納得がいかず、寺社奉行のさばきで争碁となり、手合いはその中間をとって「先相先」ということに決まった。これを「宝永の争碁」とよんだ。
手合割
「互先」・・・2局一組とし、交互に先手を持ち、同一の相手とは偶数局を行う。(差なし)
「先相先」・・・3局一組とし、下位者が3局のうち2局で先番、1局で後手番とする。(1段差)
「定先」・・・下位者が3局のうち3局とも先番とする。(2段差)
「先二先」・・・下位者が3局のうち2局を先手、1局を2子番とする。(3段差)
争碁の第一局は白の仙角が序盤から優勢に立つも、道知がヨセの妙手で逆転、一目勝ちを収めた。第二局も先番は道知で、これも15目勝ちと圧倒した。そして迎えた第三局、今度は黒を持った仙角、断然優位のはずが、道知の伸び伸びとした打ちまわしに翻弄され、白3目の勝ちとなって、道知の3連勝、仙角3連敗。これにより仙角は「互先」の手合を了承して争碁は中止となった。このとき仙角33歳、道知は弱冠16歳であった。
五世本因坊道知(1690~1727)は本因坊道策門下で、師道策から跡目に指名され、師が没した時は、道知13歳であった。この時の後見人は元本因坊門下の、井上家の井上道節因碩であったが、御城碁に初出仕した道知が林玄悦門入に先で7目勝ちすると、翌年には、四段格で安井仙角に挑戦、先で5目勝ち。これで井上道節は道知に六段の力ありとし、先ほどの「宝永の争碁」の活躍までに育て上げ、見事後見人の役目を果たす。ここでの井上道節、ちょうど80年前、一世本因坊算砂から二世本因坊算悦の指導教育を頼まれる中村道碩、のちの井上家名誉一世にだぶる。二度にわたる井上家の援助で本因坊家は生きながらえていくことになる。
ところで道知は強かったのか?御城碁では19局対戦して、11勝7敗1ジゴ。安井仙角とは「互先」になってからは2勝2敗の5分であった。ただ御城碁では四家とのしきたりや決まり事も煩雑で、なかなか思い切った碁が打ちにくい事情もあってか、道知が本気で対局した碁は稀であったさえ言われている。31歳で名人碁所に就くものの、その真の力が発揮されないうち、彼もまた36歳で早世してしまう。
そして本因坊家にとってはさらに試練が打ち寄せる。道知を継いだ六世本因坊知伯(1710~1733)、次の七世本因坊秀伯(1716~1741)、さらに八世本因坊伯元(1726~1754)までもが何れも20歳代で夭折するという不運が続き、3人続けて六段止まりという最大のピンチに本因坊家は立たされた。道知が亡くなってからの数十年間は同時に碁界全体の沈滞期でもあった。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-03-15 11:34
| 囲碁
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