2016年 01月 24日
「主題と変奏」 -❶ |
2016年1月24日(日)
その夜、僕はバッハの『半音階的幻想曲とフーガ』とシューマンの『交響的練習曲』を、はじめてきいた。名人はほかにショパンやなにかをひいたと思う。しかし、バッハとシューマンをならべてひいてくれたことを、僕は生涯での最も幸福な偶然に数えいれたい。
この、ふつう非常にちがっているものとしてきかれている二つの音楽に同時にふれているうちに、はじめて、僕は、ある動かしがたい何かに出あったと感じた。僕は考えた。
「これが<物>だ。こうしてきいている僕らのほうは、明日になれば、何をどう考えはじめるか、わかったものじゃない。だが、今こうして、僕らのあやふやな心をしっかりとにぎっている、こいつは、何としっかり存在していることだろう。こいつは明日になっても、やはり同じ姿でいるのだ。ああ、僕ら、人間という、この奇妙な、ふわふわした<精神的存在>もまた、確然として現存する<物>にならなければならない」
よく考えてみると吉田秀和の一番最初の著作で最高の音楽書とでもいえる『主題と変奏』を最後まで読み通したのは今回が初めてではなかったか。ページ数にして100ページあまり、この中に凝縮されたものは限りなく奥深く、我々に示唆するものが数多く含まれている。やはり吉田秀和は只者ではなかったことをこれ一冊で確信できる最上の書物である。
そして2節の冒頭からして、普段から抱くもやもやとしたはっきりしない疑問に結論から提示する。
多くの人のいうように、ベートーヴェンは音楽のロマン化への水門をきりおとした人であるにせよ、彼にはどうしても越すにこされぬ一線があった。彼は、ロマン主義の世界を予覚し、予言さえしたが、ついに古典主義の此岸にとどまった。
この一線を、最も明確にこえた人、それがローベルト・シューマンである。
ベートーヴェンの音楽的思考は主題の吟味が慎重に行われ、ひとたび主題が決まれば、水の流れを導くように音のおのずからな動きを正確に進めていけばよかった、と言い、これらが顕著に現れた絶頂の曲が、「ヴァルトシュタイン」、「熱情ソナタ」であり、「エロイカ交響曲」を生んだ時期と著者は指摘したうえで・・・
音のおのずからな流れ、といったが、それを清潔に、的確につかむには、天才の直観と、厳密な音楽的思考の訓練が必要だ。しかしそのうえ、あらゆる天才が、みな同じ方向の必然性を、音の流れに洞察し、つかみだすとは限らない。
ベートーヴェンはいわば、音の物理的必然と、創造する主体の生理的必然とが、バランスする一点で、それをとらえた。
このベートーヴェンを中央において、彼以前と、以後との音楽を考え、前者では概して音の物理が支配し、後者では音楽家の生理と心理とが支配的になったとするのが、しばらく前からの近代音楽史家の定説らしい。
ベートーヴェンに直接つづく音楽、つまりロマン主義音楽では、この音楽の主観性が、強調された。そのはては、音楽の内的なものの表現としての価値、いってみれば、音楽のVieを反映する働きが、音楽的思考のなかで、非常に重要な位置を占めてきた点である。
一気にベートーヴェンからシューマンまでに飛ぶが、僕にはメンデルスゾーンやシューベルトはどの位置にいるのかといった素朴な疑問が湧いて来る。メンデルスゾーンはともかくとしても、少なくともシューベルトはどうなのか、この一線を越えたのか越えなかったのか・・・
つづく・・・
その夜、僕はバッハの『半音階的幻想曲とフーガ』とシューマンの『交響的練習曲』を、はじめてきいた。名人はほかにショパンやなにかをひいたと思う。しかし、バッハとシューマンをならべてひいてくれたことを、僕は生涯での最も幸福な偶然に数えいれたい。
この、ふつう非常にちがっているものとしてきかれている二つの音楽に同時にふれているうちに、はじめて、僕は、ある動かしがたい何かに出あったと感じた。僕は考えた。
「これが<物>だ。こうしてきいている僕らのほうは、明日になれば、何をどう考えはじめるか、わかったものじゃない。だが、今こうして、僕らのあやふやな心をしっかりとにぎっている、こいつは、何としっかり存在していることだろう。こいつは明日になっても、やはり同じ姿でいるのだ。ああ、僕ら、人間という、この奇妙な、ふわふわした<精神的存在>もまた、確然として現存する<物>にならなければならない」
よく考えてみると吉田秀和の一番最初の著作で最高の音楽書とでもいえる『主題と変奏』を最後まで読み通したのは今回が初めてではなかったか。ページ数にして100ページあまり、この中に凝縮されたものは限りなく奥深く、我々に示唆するものが数多く含まれている。やはり吉田秀和は只者ではなかったことをこれ一冊で確信できる最上の書物である。
そして2節の冒頭からして、普段から抱くもやもやとしたはっきりしない疑問に結論から提示する。
多くの人のいうように、ベートーヴェンは音楽のロマン化への水門をきりおとした人であるにせよ、彼にはどうしても越すにこされぬ一線があった。彼は、ロマン主義の世界を予覚し、予言さえしたが、ついに古典主義の此岸にとどまった。
この一線を、最も明確にこえた人、それがローベルト・シューマンである。
ベートーヴェンの音楽的思考は主題の吟味が慎重に行われ、ひとたび主題が決まれば、水の流れを導くように音のおのずからな動きを正確に進めていけばよかった、と言い、これらが顕著に現れた絶頂の曲が、「ヴァルトシュタイン」、「熱情ソナタ」であり、「エロイカ交響曲」を生んだ時期と著者は指摘したうえで・・・
音のおのずからな流れ、といったが、それを清潔に、的確につかむには、天才の直観と、厳密な音楽的思考の訓練が必要だ。しかしそのうえ、あらゆる天才が、みな同じ方向の必然性を、音の流れに洞察し、つかみだすとは限らない。
ベートーヴェンはいわば、音の物理的必然と、創造する主体の生理的必然とが、バランスする一点で、それをとらえた。
このベートーヴェンを中央において、彼以前と、以後との音楽を考え、前者では概して音の物理が支配し、後者では音楽家の生理と心理とが支配的になったとするのが、しばらく前からの近代音楽史家の定説らしい。
ベートーヴェンに直接つづく音楽、つまりロマン主義音楽では、この音楽の主観性が、強調された。そのはては、音楽の内的なものの表現としての価値、いってみれば、音楽のVieを反映する働きが、音楽的思考のなかで、非常に重要な位置を占めてきた点である。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2016-01-24 20:30
| クラシック
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