2016年 01月 23日
「全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く」 |
2016年1月23日(土)
気に入った音楽はせっせと自作CDを作るのに余念がないのに、撮り終えた画像はHDに放置したままで溜まる一方だ。
そろそろ貴重な画像はDVDに移行作業しなくてはいけない。
ということで今朝から整理しようと取り掛かったが、その一枚目からして手が止った。
「言葉で奏でる音楽」~吉田秀和の軌跡~(2007年7月放送)の画像をついつい見ながらまたぞろ彼の書いたものが無性に読みたくなって来た。
戦後しばらくしてから、N響を指揮するために音楽の本場オーストリアからクルト・ヴェスという人がやって来た。ところが彼の指揮する演奏に対して日本の批評家はあーだこーだと批判する。そこでヴェスが言った。「どうして日本の批評家は欧米の交響楽団の立派な演奏を聞いたこともないのに我々の演奏を批判するのか、どこに基準を持ってそのように批評するのか?」これを受けて吉田秀和はもっともだと思い、彼は40歳の時、1953年暮れから1年ほどかけて欧米を旅する。トスカニーニやフルトヴェングラーの19世紀の流れを汲む巨匠たちが表舞台から去る直前に生の演奏を聴くなど、ここで貴重な体験をする。
書棚から『音楽紀行』を取り出してきて少し読み直してみよう。この書物が彼が欧米を旅した時の体験を語ったものである。
たしか神田の古書街かどっかで手に入れた本で、状態が良く、しかもわずか300円という信じられない安価の掘り出し物だった。
~ぼくのこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた”トリスタンとイゾルデの前奏曲”と”イゾルデの愛の死”だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものでなく、もうそういう風に生まれついて来ているみたいだだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を掲げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く。それにベルリン・フィルハルモニカのフォルテとピアノとの対比の美しさは、全くすばらしい。ことに、ピアニッシモの美しさはほかで絶対にきいたことのないものだった。オーケストラが完全に鳴っていて然もあんなに静かで、あんなに表情にとんでいる、こんな小さな音!
気に入った音楽はせっせと自作CDを作るのに余念がないのに、撮り終えた画像はHDに放置したままで溜まる一方だ。
そろそろ貴重な画像はDVDに移行作業しなくてはいけない。
ということで今朝から整理しようと取り掛かったが、その一枚目からして手が止った。
「言葉で奏でる音楽」~吉田秀和の軌跡~(2007年7月放送)の画像をついつい見ながらまたぞろ彼の書いたものが無性に読みたくなって来た。
戦後しばらくしてから、N響を指揮するために音楽の本場オーストリアからクルト・ヴェスという人がやって来た。ところが彼の指揮する演奏に対して日本の批評家はあーだこーだと批判する。そこでヴェスが言った。「どうして日本の批評家は欧米の交響楽団の立派な演奏を聞いたこともないのに我々の演奏を批判するのか、どこに基準を持ってそのように批評するのか?」これを受けて吉田秀和はもっともだと思い、彼は40歳の時、1953年暮れから1年ほどかけて欧米を旅する。トスカニーニやフルトヴェングラーの19世紀の流れを汲む巨匠たちが表舞台から去る直前に生の演奏を聴くなど、ここで貴重な体験をする。
書棚から『音楽紀行』を取り出してきて少し読み直してみよう。この書物が彼が欧米を旅した時の体験を語ったものである。
たしか神田の古書街かどっかで手に入れた本で、状態が良く、しかもわずか300円という信じられない安価の掘り出し物だった。
~ぼくのこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた”トリスタンとイゾルデの前奏曲”と”イゾルデの愛の死”だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものでなく、もうそういう風に生まれついて来ているみたいだだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を掲げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く。それにベルリン・フィルハルモニカのフォルテとピアノとの対比の美しさは、全くすばらしい。ことに、ピアニッシモの美しさはほかで絶対にきいたことのないものだった。オーケストラが完全に鳴っていて然もあんなに静かで、あんなに表情にとんでいる、こんな小さな音!
by kirakuossan
| 2016-01-23 14:21
| クラシック
|
Trackback