2015年 12月 30日
2015年の演奏会を振り返って |
2015年12月30日(水)
今年の演奏会を振り返るとバラエティーに富んでいた。
1月は3日から軽井沢大賀ホールで五輪真弓のコンサートへ出向いた。見た感じ通りの誠実そうな女性で、抜群の歌唱力に魅了された。ステージでの会話が楽しく、立見席だったがあっという間の2時間だった。
2月に入って今年最初のクラシック演奏会はプラハ・フィルハーモニア管弦楽団(8日フェスティバルホール)指揮者はヤクブ・フルシャで聞いたこともなかったが目当ては世界的チェリストのミッシャ・マイスキー。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲をやったが、今年いくつか聴いた同曲のなかではやはり一番音楽性が高かった。ラトヴィア生まれの世界的チェリストは、それこそ鮮やかな碧いウェアを纏って現れた。それは故郷のバルト海を連想させる色なのか。ドヴォルザークのコンチェルトは最初オケの伴奏があって独奏者はしばらく待機することになるが、その間、首を左右に振り、つま先で拍子を取り緊張感を高めていく。中音域から低音域にかけて力強く弦がしなる。フルシャは今季でプラハ・フィルをさるが、「新世界より」ではスケールの大きな演奏を披露した。
3月、マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団の演奏会(21日KOBELCO大ホール)は旧東独の響きを存分に満喫できた。
金管の響きはブルックナー音楽に最適の、日本のどこかの同じような放送局オケみたいに我関せずでただ馬鹿でかいだけの騒音とはえらい違い。懐の深い、ヨーロッパ音楽特有の心地よい野太さをもっていた。木管は小気味よく輝き、弦の美しさは華美過ぎず適度なかげりをみせ、正しく旧東独のオケであることを思い出させてくれた。
4月は二つの東京のオケが聴けた。19日は東京都交響楽団創立50周年記念大阪特別公演(フェスティバルホール)指揮大野和士でチャイコフスキーの交響曲第4番と小山実稚恵のピアノでラフマニノフの3番。
大野和士の指揮は今日で3回目だが、今迄でいちばん生き生きと溌剌としたもので、新しい門出に相応しいものであった。東京都交響楽団はすべての楽器において水準の高さを示し、どのパートも音をしっかり出し切ることに長けており、特に管の響きには安定感がある。
小山実稚恵のピアノは力強く堂々としたピアニズムで、今や、内田光子に継ぐ実力派ピアニストの筆頭だろうと思わせるような確かなピアノ技術と風格を感じさせた。彼女は今年デビュー30周年で、7月11日にはびわ湖ホールでのリサイタルも聴きに行った。3曲目の「ヴァルトシュタイン」のロンドにいたっては、これ一曲聴いただけでも今日のリサイタルに足を運んだ価値がある。偉らそばらず気持ちの良いピアニストだった。
4月もうひとつは東京フィルハーモニー交響楽団の軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会(29日)でチャイコフスキー第5番。ここでの指揮者アンドレア・バッティストーニが抜群に良かった。今年の最良の指揮者の一人であった。まるで若きサイモン・ラトルを彷彿させたその指揮ぶりは、若き肉体の躍動、流麗かつダイナミックであり、アニマル的とまでさえ言える野性味に溢れたものであった。それでいてその卓越したタクトさばき、個性的で、美的で、一方で成熟した匂いも漂わせた。28歳の若き才能の燃焼に魅了された大賀ホールは熱気と歓声に包まれ、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。そして新たな若き指揮者の発見が何よりも有意義であった。
5月に入って、同じく大賀ホールで井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢(2日)、ハイドンの交響曲「奇跡」第三楽章Menuetto: Allegrettoを聴いていて、如何にも”ハイドン的”な心地よい旋律が出て来て、つい、大好きな第102番の第四楽章Menuet - Trio: Allegroを思い出させた。アンサンブル金沢は初めて聴いたが、それこそ”良くまとまったアンサンブル”であった。なかでも加納女史のオーボエが大変良かった。
17日にはアリス=紗良・オットピアノ・リサイタル(大賀ホール)を聴いた。彼女のピアノ協奏曲は幾度も聴いたが、リサイタルは初めてである。ベートーヴェンの第17番「テンペスト」、リスト「愛の夢」第2番、第3番、さらにパガニーニ大練習曲、そしてバッハの幻想曲とフーガとシャコンヌ、といった魅力的なプログラムだった。最初の「テンペスト」は少し硬さもあったのか、演奏自体も雑なところが気になった。一転次のバッハはたいへん良かった。そして後半は得意のリスト、さすがによく鍛錬されていて、リストのピアノ曲を堪能した。アンコールにショパンの「雨だれ」、これもしっとりと聴かせた。終演後はいつものサイン会、相変わらずの人気で長蛇の列を作った。
30日には感動的な音楽に出逢えた。チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ(KOBELCO大ホール)は想像をはるかに超える素晴らしいオーケストラだった。チャイコフスキーの第5番、今迄聴いた中で一番美しいチャイコフスキーだった。何度も接してきたあの咆哮し、地響きする音楽は一体何だったのだろうか。第二楽章、最初の主題のホルンのソロ(奏者アレックス)の卓越さに惚れ惚れし、それを支える弦のまたなんと美しいことよ。それにオケの配置もずいぶん珍しいものであった。ヴァイオリンの左右に分離はともかく、8本のベースは舞台左奥、その手前にチェロが陣取り、管は正面に並ぶも、4本のホルンは他の金管と離れて向かって右手にティンパニの前に並んだ。だから二楽章のホルンが伸びやかな音色を醸し出した時、奏者を捜し出すのに 暫し時間を要したぐらいだ。
指揮者ウラディーミル・フェドセーエフはとても80歳を越えたようには見えず、終始背筋を伸ばし長身から振り降ろされる両手はしなやかな動きを見せ、タフで若々しい。
6月は毎年1度行われる読売日本交響楽団の大阪公演(25日ザ・シンフォニーホール)指揮者フランソワ=グザヴィエ・ロトの幻想交響曲はかなりアレンジされたものだった。特にホルンの使い方に多くの工夫がなされ、最終楽章では繰り返しもみられた。全体を通して統制がよく取られ、流れにも乗っていたが、細部まで入り込んだ精緻さはもう一つであったか。ロトの指揮スタイルは中庸でスマートさには欠けるがわかりやすい。もう一曲のサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番、久々に聴く神尾真由子の技はさらに磨きがかかり成長のあとが伺えた。でも彼女の良さであった天真爛漫さや溌剌さが影を潜めたように感じ取れたのは気がかりではあった。
もう一つ6月は高橋真梨子リサイタルにも足を運んだ(18日びわ湖ホール)会場に入るや驚いた。開演前から煙幕のようなものが会場に充満して、色とりどりのカクテル光線が帯状にホールいっぱいに拡散されている。これがいつものびわ湖ホールかと目を疑った。高橋真梨子はやはり歌がうまかった。
8月は草津温泉で、2年続けて草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルを聴きに行く。オープニング・コンサート(17日草津音楽の森国際コンサートホール)はアントニ・ヴィット指揮の群馬交響楽団にクラリネットのカール・ライスター。ベートーヴェンの「田園」、ヴィットの指揮は”はったり”のない真摯な演奏を聴かせる。群馬交響楽団のどこか野性味あふれた音色は好きだ。とくに弦が良い。一方で、ホルンの音が幾度となく裏返るのはせっかくの好演に水をさした。またカール・ライスターのモーツァルトの協奏曲は、正直期待外れに終わった。
9月は秋の京響。京都市交響楽団第594回定期演奏会に指揮ジャン=クロード・カサドシュと期待のピアニスト萩原麻未が登場。
期待して聴いた萩原麻未のピアノは満足のいく演奏であった。ラベルのピアノ協奏曲ト長調は難曲だが、大人になった彼女の確かな成長の跡をみたし、アンコールのドビュッシー「月の光」でのあのピアニシモはいっそうの磨きがかかっていたのには嬉しい思いがした。そんな彼女も演奏が終わった後の表情は前と同じようなあどけなさが残っていた。京響の管セクションはかなりのレベルということを再認識したが、弦パートは相変わらず力不足? とくに第一ヴァイオリンが弱い。カサドシュはフランスの著名なピアニストであるロベール・カサドシュの甥。演奏会前に彼のトークショウがあったが、高く良く響く声で、若々しく、とても今年80歳には見えなかった。
そして10月、いよいよ待ちに待った今年最大の演奏会が3日に訪れた。 ロンドン交響楽団演奏会(京都コンサートホール)
指揮者ベルナルト・ハイティンクの来日は今回で実に12度目、最高のブルックナー(第7番)を体験でき、86歳になったハイティンク健在なりを見た。京都に7年ぶりに登場のロンドン交響楽団は至高のアンサンブル。ワーグナーの葬送ではチューバがもう一つ加わって五本での野太い響きを演出した。イギリスのオケはフィルハーモニア管といい、今日のLSOといい、安定感は抜群で最弱音でも最強音でも一糸乱れないのはさすがである。それにどこにもわざとらしさは見られず”誠意”と”献身”の精神が聴くものに伝わってくるから感動が倍加するのである。前半のマレイ・ペライアも良かった。モーツァルトの協奏曲K491は珍しく短調で書かれた作品だが、過度に陰影を追い求めるのではなく余分な飾りつけなども施さず、聴くものにストレートに入ってくる気持ちの良い音楽であった。弾く姿なり、音の端々にこの人の”誠実さ”がにじみ出ていて好感が持てた。
もう一つ31日にびわ湖ホールで椿佳美ピアノリサイタルでオールシューマンプロ。今年は女性音楽家によるピアノリサイタルやコンサートが6本と例年になく多かった。
そして音楽の秋11月、今年はまた凄かった。まず兵庫芸術文化センター管弦楽団定期演奏会(1日KOBELCO大ホール)ベルリオーズ「幻想交響曲」をダニエル・ハーディングの指揮で聴いた。この人は2回目だが、溌剌としてイイ。兵庫県民は幸せだ。こんな素晴らしいオーケストラを持っていて、しかも低料金で聴きたい時にいつでも聴ける。今回の定期演奏会も三日にわたり行われ、今日がその最終日だったが会場は満員だった。ここの聴衆は京都や大阪にはないわが街の音楽会といった気さくな雰囲気がとても印象的だった。
そして舞台はついに東京へ。待望のサントリーホールでの演奏会はアンドレス・オロスコ=エストラーダが指揮するフランクフルト放送交響楽団演奏会、共演者はまたしてもアリス=紗良・オットであった。アリスは聴くごとに確実に成長している。今夜のチャイコフスキー、実に力強く、しかも歌心を忘れない演奏は彼女自身のピアニズムを築きつつある。赤のドレスが今宵も映えた。オロスコ=エストラーダはいかにも若さ溢れる溌剌さは買えるが、少し動き過ぎでかえって集中が途切れる。「幻想」の最初の楽章ははやり過ぎて完全に空回り、明らかに音楽に乗れなかった。少し期待外れに終わった。またサントリーホールはロビーからして意外と手狭で、ホール内も狭く感じた。
21日には念願のエリソ・ヴィルサラーゼピアノ・リサイタル(すみだトリフォニーホール)に。この夜の印象は次のように綴った・・・
今までにこれほど自然でこんなに優しいモーツァルトを耳にしたことがあっただろうか?どう表現すればよいのだろう。例えばわかりやすく言えば、すみださんっちの前を通りかかったら心地よいピアノの音色が聴こえてきて思わず立ち止まりうっとりと聴き惚れたような、そんなモーツァルトであった。何も演奏会だからと言って特別なよそいきの音楽はホンマものではなく聴衆も感動することができないものだ。そんなことを教えられたような気がした。二曲のモーツァルトのソナタがそれぞれベートーベンとシューマンを導き出す音楽でもあったのだ。ヴィルサラーぜのピアノはどこまでも優しい。それはなにも溺愛のような愛情ではない。心の奥底から湧き出ずる人間愛である。ベートーヴェンの「熱情」もメリハリの効いた素晴らしい演奏であった。彼女のフォルテはかなりの音量を発するが決して音が割れないし、聞き苦しさを感じさせない。どこがどう違うのだろう? でもシューマンは正直僕にはまだ本当の良さが理解できるまで時間がかかりそうだ。
そして演奏会後のサイン会で「あなたのCDはほとんど持っているよ」と通訳を通じて話しながら手をさしのべると彼女は笑顔で握手をしてくれた。大きなふくよかな暖かい手であった。
立命館大学交響楽団の創立60周年記念演奏会がびわ湖ホール(28日)であった。チャイコフスキーの交響曲第5番は学生オケとしては最上の演奏であって、特に管楽器の活躍が目立ち、弦をも上回る出来栄えであった。よほど良かったのか指揮者阪哲朗も終始ご機嫌、アンコールも一工夫あって”立響なかなかヤルヤン”であった。ただ前半のヘーデンボルク・直樹とのドヴォルザークのチェロ協奏曲は、オケと独奏者との息が今一歩だったのが惜しまれた。
そして12月、今年の「第九」は尾高忠明指揮の京都市立芸術大学のオケで聴いた(18日京都コンサートホール)1年前に聴いた「幻想交響曲」があまりにも感動的だったので、期待が大きすぎたのか、無難な演奏ではあったが単調に走り”音楽心”が少し足りなかったような気がした。相変わらず弦は力強いが、管が今一歩安定感に欠いた。チャイコフスキーやベルリオーズと違い、強奏するだけではベートーヴェンはだめで、全体のバランスが大切になってくる。そう考えてみるとやはりベートーヴェンを演奏するのは難しいのか、とも思った。
今年最後は、ビートルズコピーバンドのパロッツクリスマスライブショー(23日ロイヤルオークホテル)、大いに盛り上がって1年を締めくくった。
2015年も有意義な1年だった、来年はどんな演奏会に出逢えるだろう。。。
今年の演奏会を振り返るとバラエティーに富んでいた。
1月は3日から軽井沢大賀ホールで五輪真弓のコンサートへ出向いた。見た感じ通りの誠実そうな女性で、抜群の歌唱力に魅了された。ステージでの会話が楽しく、立見席だったがあっという間の2時間だった。
2月に入って今年最初のクラシック演奏会はプラハ・フィルハーモニア管弦楽団(8日フェスティバルホール)指揮者はヤクブ・フルシャで聞いたこともなかったが目当ては世界的チェリストのミッシャ・マイスキー。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲をやったが、今年いくつか聴いた同曲のなかではやはり一番音楽性が高かった。ラトヴィア生まれの世界的チェリストは、それこそ鮮やかな碧いウェアを纏って現れた。それは故郷のバルト海を連想させる色なのか。ドヴォルザークのコンチェルトは最初オケの伴奏があって独奏者はしばらく待機することになるが、その間、首を左右に振り、つま先で拍子を取り緊張感を高めていく。中音域から低音域にかけて力強く弦がしなる。フルシャは今季でプラハ・フィルをさるが、「新世界より」ではスケールの大きな演奏を披露した。
3月、マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団の演奏会(21日KOBELCO大ホール)は旧東独の響きを存分に満喫できた。
金管の響きはブルックナー音楽に最適の、日本のどこかの同じような放送局オケみたいに我関せずでただ馬鹿でかいだけの騒音とはえらい違い。懐の深い、ヨーロッパ音楽特有の心地よい野太さをもっていた。木管は小気味よく輝き、弦の美しさは華美過ぎず適度なかげりをみせ、正しく旧東独のオケであることを思い出させてくれた。
4月は二つの東京のオケが聴けた。19日は東京都交響楽団創立50周年記念大阪特別公演(フェスティバルホール)指揮大野和士でチャイコフスキーの交響曲第4番と小山実稚恵のピアノでラフマニノフの3番。
大野和士の指揮は今日で3回目だが、今迄でいちばん生き生きと溌剌としたもので、新しい門出に相応しいものであった。東京都交響楽団はすべての楽器において水準の高さを示し、どのパートも音をしっかり出し切ることに長けており、特に管の響きには安定感がある。
小山実稚恵のピアノは力強く堂々としたピアニズムで、今や、内田光子に継ぐ実力派ピアニストの筆頭だろうと思わせるような確かなピアノ技術と風格を感じさせた。彼女は今年デビュー30周年で、7月11日にはびわ湖ホールでのリサイタルも聴きに行った。3曲目の「ヴァルトシュタイン」のロンドにいたっては、これ一曲聴いただけでも今日のリサイタルに足を運んだ価値がある。偉らそばらず気持ちの良いピアニストだった。
4月もうひとつは東京フィルハーモニー交響楽団の軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会(29日)でチャイコフスキー第5番。ここでの指揮者アンドレア・バッティストーニが抜群に良かった。今年の最良の指揮者の一人であった。まるで若きサイモン・ラトルを彷彿させたその指揮ぶりは、若き肉体の躍動、流麗かつダイナミックであり、アニマル的とまでさえ言える野性味に溢れたものであった。それでいてその卓越したタクトさばき、個性的で、美的で、一方で成熟した匂いも漂わせた。28歳の若き才能の燃焼に魅了された大賀ホールは熱気と歓声に包まれ、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。そして新たな若き指揮者の発見が何よりも有意義であった。
5月に入って、同じく大賀ホールで井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢(2日)、ハイドンの交響曲「奇跡」第三楽章Menuetto: Allegrettoを聴いていて、如何にも”ハイドン的”な心地よい旋律が出て来て、つい、大好きな第102番の第四楽章Menuet - Trio: Allegroを思い出させた。アンサンブル金沢は初めて聴いたが、それこそ”良くまとまったアンサンブル”であった。なかでも加納女史のオーボエが大変良かった。
17日にはアリス=紗良・オットピアノ・リサイタル(大賀ホール)を聴いた。彼女のピアノ協奏曲は幾度も聴いたが、リサイタルは初めてである。ベートーヴェンの第17番「テンペスト」、リスト「愛の夢」第2番、第3番、さらにパガニーニ大練習曲、そしてバッハの幻想曲とフーガとシャコンヌ、といった魅力的なプログラムだった。最初の「テンペスト」は少し硬さもあったのか、演奏自体も雑なところが気になった。一転次のバッハはたいへん良かった。そして後半は得意のリスト、さすがによく鍛錬されていて、リストのピアノ曲を堪能した。アンコールにショパンの「雨だれ」、これもしっとりと聴かせた。終演後はいつものサイン会、相変わらずの人気で長蛇の列を作った。
30日には感動的な音楽に出逢えた。チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ(KOBELCO大ホール)は想像をはるかに超える素晴らしいオーケストラだった。チャイコフスキーの第5番、今迄聴いた中で一番美しいチャイコフスキーだった。何度も接してきたあの咆哮し、地響きする音楽は一体何だったのだろうか。第二楽章、最初の主題のホルンのソロ(奏者アレックス)の卓越さに惚れ惚れし、それを支える弦のまたなんと美しいことよ。それにオケの配置もずいぶん珍しいものであった。ヴァイオリンの左右に分離はともかく、8本のベースは舞台左奥、その手前にチェロが陣取り、管は正面に並ぶも、4本のホルンは他の金管と離れて向かって右手にティンパニの前に並んだ。だから二楽章のホルンが伸びやかな音色を醸し出した時、奏者を捜し出すのに 暫し時間を要したぐらいだ。
指揮者ウラディーミル・フェドセーエフはとても80歳を越えたようには見えず、終始背筋を伸ばし長身から振り降ろされる両手はしなやかな動きを見せ、タフで若々しい。
6月は毎年1度行われる読売日本交響楽団の大阪公演(25日ザ・シンフォニーホール)指揮者フランソワ=グザヴィエ・ロトの幻想交響曲はかなりアレンジされたものだった。特にホルンの使い方に多くの工夫がなされ、最終楽章では繰り返しもみられた。全体を通して統制がよく取られ、流れにも乗っていたが、細部まで入り込んだ精緻さはもう一つであったか。ロトの指揮スタイルは中庸でスマートさには欠けるがわかりやすい。もう一曲のサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番、久々に聴く神尾真由子の技はさらに磨きがかかり成長のあとが伺えた。でも彼女の良さであった天真爛漫さや溌剌さが影を潜めたように感じ取れたのは気がかりではあった。
もう一つ6月は高橋真梨子リサイタルにも足を運んだ(18日びわ湖ホール)会場に入るや驚いた。開演前から煙幕のようなものが会場に充満して、色とりどりのカクテル光線が帯状にホールいっぱいに拡散されている。これがいつものびわ湖ホールかと目を疑った。高橋真梨子はやはり歌がうまかった。
8月は草津温泉で、2年続けて草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルを聴きに行く。オープニング・コンサート(17日草津音楽の森国際コンサートホール)はアントニ・ヴィット指揮の群馬交響楽団にクラリネットのカール・ライスター。ベートーヴェンの「田園」、ヴィットの指揮は”はったり”のない真摯な演奏を聴かせる。群馬交響楽団のどこか野性味あふれた音色は好きだ。とくに弦が良い。一方で、ホルンの音が幾度となく裏返るのはせっかくの好演に水をさした。またカール・ライスターのモーツァルトの協奏曲は、正直期待外れに終わった。
9月は秋の京響。京都市交響楽団第594回定期演奏会に指揮ジャン=クロード・カサドシュと期待のピアニスト萩原麻未が登場。
期待して聴いた萩原麻未のピアノは満足のいく演奏であった。ラベルのピアノ協奏曲ト長調は難曲だが、大人になった彼女の確かな成長の跡をみたし、アンコールのドビュッシー「月の光」でのあのピアニシモはいっそうの磨きがかかっていたのには嬉しい思いがした。そんな彼女も演奏が終わった後の表情は前と同じようなあどけなさが残っていた。京響の管セクションはかなりのレベルということを再認識したが、弦パートは相変わらず力不足? とくに第一ヴァイオリンが弱い。カサドシュはフランスの著名なピアニストであるロベール・カサドシュの甥。演奏会前に彼のトークショウがあったが、高く良く響く声で、若々しく、とても今年80歳には見えなかった。
そして10月、いよいよ待ちに待った今年最大の演奏会が3日に訪れた。
指揮者ベルナルト・ハイティンクの来日は今回で実に12度目、最高のブルックナー(第7番)を体験でき、86歳になったハイティンク健在なりを見た。京都に7年ぶりに登場のロンドン交響楽団は至高のアンサンブル。ワーグナーの葬送ではチューバがもう一つ加わって五本での野太い響きを演出した。イギリスのオケはフィルハーモニア管といい、今日のLSOといい、安定感は抜群で最弱音でも最強音でも一糸乱れないのはさすがである。それにどこにもわざとらしさは見られず”誠意”と”献身”の精神が聴くものに伝わってくるから感動が倍加するのである。前半のマレイ・ペライアも良かった。モーツァルトの協奏曲K491は珍しく短調で書かれた作品だが、過度に陰影を追い求めるのではなく余分な飾りつけなども施さず、聴くものにストレートに入ってくる気持ちの良い音楽であった。弾く姿なり、音の端々にこの人の”誠実さ”がにじみ出ていて好感が持てた。
もう一つ31日にびわ湖ホールで椿佳美ピアノリサイタルでオールシューマンプロ。今年は女性音楽家によるピアノリサイタルやコンサートが6本と例年になく多かった。
そして音楽の秋11月、今年はまた凄かった。まず兵庫芸術文化センター管弦楽団定期演奏会(1日KOBELCO大ホール)ベルリオーズ「幻想交響曲」をダニエル・ハーディングの指揮で聴いた。この人は2回目だが、溌剌としてイイ。兵庫県民は幸せだ。こんな素晴らしいオーケストラを持っていて、しかも低料金で聴きたい時にいつでも聴ける。今回の定期演奏会も三日にわたり行われ、今日がその最終日だったが会場は満員だった。ここの聴衆は京都や大阪にはないわが街の音楽会といった気さくな雰囲気がとても印象的だった。
そして舞台はついに東京へ。待望のサントリーホールでの演奏会はアンドレス・オロスコ=エストラーダが指揮するフランクフルト放送交響楽団演奏会、共演者はまたしてもアリス=紗良・オットであった。アリスは聴くごとに確実に成長している。今夜のチャイコフスキー、実に力強く、しかも歌心を忘れない演奏は彼女自身のピアニズムを築きつつある。赤のドレスが今宵も映えた。オロスコ=エストラーダはいかにも若さ溢れる溌剌さは買えるが、少し動き過ぎでかえって集中が途切れる。「幻想」の最初の楽章ははやり過ぎて完全に空回り、明らかに音楽に乗れなかった。少し期待外れに終わった。またサントリーホールはロビーからして意外と手狭で、ホール内も狭く感じた。
21日には念願のエリソ・ヴィルサラーゼピアノ・リサイタル(すみだトリフォニーホール)に。この夜の印象は次のように綴った・・・
今までにこれほど自然でこんなに優しいモーツァルトを耳にしたことがあっただろうか?どう表現すればよいのだろう。例えばわかりやすく言えば、すみださんっちの前を通りかかったら心地よいピアノの音色が聴こえてきて思わず立ち止まりうっとりと聴き惚れたような、そんなモーツァルトであった。何も演奏会だからと言って特別なよそいきの音楽はホンマものではなく聴衆も感動することができないものだ。そんなことを教えられたような気がした。二曲のモーツァルトのソナタがそれぞれベートーベンとシューマンを導き出す音楽でもあったのだ。ヴィルサラーぜのピアノはどこまでも優しい。それはなにも溺愛のような愛情ではない。心の奥底から湧き出ずる人間愛である。ベートーヴェンの「熱情」もメリハリの効いた素晴らしい演奏であった。彼女のフォルテはかなりの音量を発するが決して音が割れないし、聞き苦しさを感じさせない。どこがどう違うのだろう? でもシューマンは正直僕にはまだ本当の良さが理解できるまで時間がかかりそうだ。
そして演奏会後のサイン会で「あなたのCDはほとんど持っているよ」と通訳を通じて話しながら手をさしのべると彼女は笑顔で握手をしてくれた。大きなふくよかな暖かい手であった。
立命館大学交響楽団の創立60周年記念演奏会がびわ湖ホール(28日)であった。チャイコフスキーの交響曲第5番は学生オケとしては最上の演奏であって、特に管楽器の活躍が目立ち、弦をも上回る出来栄えであった。よほど良かったのか指揮者阪哲朗も終始ご機嫌、アンコールも一工夫あって”立響なかなかヤルヤン”であった。ただ前半のヘーデンボルク・直樹とのドヴォルザークのチェロ協奏曲は、オケと独奏者との息が今一歩だったのが惜しまれた。
そして12月、今年の「第九」は尾高忠明指揮の京都市立芸術大学のオケで聴いた(18日京都コンサートホール)1年前に聴いた「幻想交響曲」があまりにも感動的だったので、期待が大きすぎたのか、無難な演奏ではあったが単調に走り”音楽心”が少し足りなかったような気がした。相変わらず弦は力強いが、管が今一歩安定感に欠いた。チャイコフスキーやベルリオーズと違い、強奏するだけではベートーヴェンはだめで、全体のバランスが大切になってくる。そう考えてみるとやはりベートーヴェンを演奏するのは難しいのか、とも思った。
今年最後は、ビートルズコピーバンドのパロッツクリスマスライブショー(23日ロイヤルオークホテル)、大いに盛り上がって1年を締めくくった。
2015年も有意義な1年だった、来年はどんな演奏会に出逢えるだろう。。。
by kirakuossan
| 2015-12-30 08:12
| クラシック
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