2015年 12月 18日
近衛秀麿が遺したもの |
2015年12月18日(金)
シューベルトは弦楽四重奏曲を15曲書いたが、五重奏曲はハ長調の1曲だけである。その五重奏曲をオーケストラ曲に編曲したのが、弦楽五重奏曲ハ長調<近衛版>である。
作曲家で指揮者の近衛秀麿が若いころ、ヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて恩師山田耕筰がそうしたように彼も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇いヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。当時はどの楽団も財政難にあって、こうして資金を確保していた。帰国後日本でもオーケストラを作ろうということで彼が中心となって動き、新交響楽団が生まれる。10年後、近衛秀麿が再度ベルリン・フィルの指揮台に立った時は世に認められる指揮者になっていた。
その時のプログラムにシューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調Op.163,D.956を演奏し、リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」を披露した。客席にいたシュトラウスがこれを聴いていて絶賛したという。その後彼は世界各国の90にも及ぶオーケストラを指揮し続けた。
BS1スペシャル「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」
第二次大戦中、ナチス政権下のドイツで活動していた日本人指揮者・近衛秀麿。実は水面下でユダヤ人演奏家たちの亡命を助けていた事実が明らかになった。その活動に迫る。
という番組を観た。
純然たる音楽だけではなく、人道的な活動もしていた大人物であったのだ。そんな彼は戦後、自らが主催するオーケストラを結成するが成功せず消滅するが、後フリーの指揮者として活躍。読売日本交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くのオーケストラを指揮した。
そしてこの近衛秀麿(1898~1973)が遺したものの一つに立命館大学校歌がある。
シューベルトは弦楽四重奏曲を15曲書いたが、五重奏曲はハ長調の1曲だけである。その五重奏曲をオーケストラ曲に編曲したのが、弦楽五重奏曲ハ長調<近衛版>である。
作曲家で指揮者の近衛秀麿が若いころ、ヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて恩師山田耕筰がそうしたように彼も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇いヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。当時はどの楽団も財政難にあって、こうして資金を確保していた。帰国後日本でもオーケストラを作ろうということで彼が中心となって動き、新交響楽団が生まれる。10年後、近衛秀麿が再度ベルリン・フィルの指揮台に立った時は世に認められる指揮者になっていた。
その時のプログラムにシューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調Op.163,D.956を演奏し、リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」を披露した。客席にいたシュトラウスがこれを聴いていて絶賛したという。その後彼は世界各国の90にも及ぶオーケストラを指揮し続けた。
BS1スペシャル「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」
第二次大戦中、ナチス政権下のドイツで活動していた日本人指揮者・近衛秀麿。実は水面下でユダヤ人演奏家たちの亡命を助けていた事実が明らかになった。その活動に迫る。
という番組を観た。
純然たる音楽だけではなく、人道的な活動もしていた大人物であったのだ。そんな彼は戦後、自らが主催するオーケストラを結成するが成功せず消滅するが、後フリーの指揮者として活躍。読売日本交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くのオーケストラを指揮した。
そしてこの近衛秀麿(1898~1973)が遺したものの一つに立命館大学校歌がある。
by kirakuossan
| 2015-12-18 11:16
| クラシック
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