2015年 11月 27日
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2015年11月27日(金)
河上徹太郎は文芸評論家であるが、音楽評論家でもある。そもそもこの人の存在を知ったのは3年前に手にしたある音楽史の書物からである。音楽史の名著復活と銘打って2011年11月に河出文庫から再販されたパウル・ベッカー著の『西洋音楽史』、この訳者が河上徹太郎であった。”今もって新鮮で斬新な音楽史”というだけあって、過去いくつかの音楽史を読んだが、本著は面白さのあまりに一気に読み上げた。それは著者の手腕は勿論だが、河上氏の優れた読解力と、専門的な音楽知識の上に立った卓越した文章力のためでもあった。その後、大阪梅田の古書街で、新潮社から昭和47年3月発刊された同書の単行本を見つけ、これも買うことに。今では好きで大事にしている蔵書の一冊である。
たとえば同書で、モーツァルトについてはこんな風な記述である・・・
以前には、モーツァルトはロココ風な芸術家であると考えられていた。いうまでもなくロココという概念は単に繊細で優美な装飾的な意味を持っているのである。つまり、モーツァルトを優美な、完全な均斉を持った、洗練された古典の作曲者として讃美していたのである。そしてその余りの明澄さの故に、彼の音楽はあらゆる現世臭いものの彼方に漂い、あらゆる懐疑や、闘争やファウスト的なものなどには縁のない、太陽と花と香気の中に生まれた掛替えのない幸福な微笑のようなものであると考えられたのである。<略>
いうまでもなく、モーツァルトはベートーヴェンのような反抗的な、プロメトイス風な巨人の風貌を持ってはいない。しかしそれは個性の相違であって根本的に違った存在であることではない。ベートーヴェンにあっては闘争そのものが音楽的表現の対象であり、従ってそういうものがダイナミックな起伏となって直接観照の世界に躍り上がっている。ところがモーツァルトにとってはそういう闘争などということは音楽の埒外にあり、いわば芸術以前の問題であった。つまりそういうものは彼の創作の土台にはなっているが、それはあくまでモーツァルトの仕事の踏台であったに過ぎない。彼の印象の完璧さはその克服の結果である。この完璧さを神業と呼ぶもいいが、その根底にはベートーヴェンが強烈に表現したあの個性の内面的な闘争があったことを忘れてはならない。・・・
この文脈や文章の面白さ、今までの音楽史ではなかったような一味違う著述が随所に出てくる。しかも河上徹太郎の巧みな表現は冴えに冴えわたる。(翻訳は1941年)
閑話休題、河上徹太郎著『読書論』では、盟友小林秀雄の『モオツアルト』に関してこのように単純明快に語っている。
「モツァルト」
小林秀雄は終戦後頑強に依頼原稿を断ってこの「モツァルト」を書いた。彼がその厖大な文献的渉獵と、能う限りのレコードやスコアによる鑑賞の揚句、この文章で表現したかったものは何か?それはモツァルトの音楽を、その流動する持続において何とかして文章で捕えたかったのだ。ただそれだけである。これを読んで一番感じることは、小林君がその得意の才能を駆使して人物を語り、ふんだんの考証を惜しげもなく取捨して肖像を書いている点であり、その成功は見るべきものがあるが、その意図する所は、この人物論が如何にその音楽観と一致するかを示すにある。人物が正しく書ければ音楽が流れ出す。この確信がこの文章を貫いている。そしてすべてがモツァルトの好きなト短調の音論を出すために、専ら濫費されている。
思えば世の音楽評論家は何と例外なく「人と作品」という題目の音楽書を書いていることか!そして精妙な音楽と多くの場合エクセントリックな性格とを、感傷と観念で無理に結びつけた、チグハグな二元論に陥っていることか!
その点この論文はモツァルトの深く透んだ単純性に肉迫した、文学者ならでは書けぬ傑作である。いつか山根銀二君が東京新聞でこれを評して、モツァルトの古典性を浪漫派的観念で装飾しているが文学者にしてはよく書けている、といったが、事実は共にその反対である。(昭和二十二年三月)
(文字は現在に直した)
つづく・・・
河上徹太郎は文芸評論家であるが、音楽評論家でもある。そもそもこの人の存在を知ったのは3年前に手にしたある音楽史の書物からである。音楽史の名著復活と銘打って2011年11月に河出文庫から再販されたパウル・ベッカー著の『西洋音楽史』、この訳者が河上徹太郎であった。”今もって新鮮で斬新な音楽史”というだけあって、過去いくつかの音楽史を読んだが、本著は面白さのあまりに一気に読み上げた。それは著者の手腕は勿論だが、河上氏の優れた読解力と、専門的な音楽知識の上に立った卓越した文章力のためでもあった。その後、大阪梅田の古書街で、新潮社から昭和47年3月発刊された同書の単行本を見つけ、これも買うことに。今では好きで大事にしている蔵書の一冊である。
たとえば同書で、モーツァルトについてはこんな風な記述である・・・
以前には、モーツァルトはロココ風な芸術家であると考えられていた。いうまでもなくロココという概念は単に繊細で優美な装飾的な意味を持っているのである。つまり、モーツァルトを優美な、完全な均斉を持った、洗練された古典の作曲者として讃美していたのである。そしてその余りの明澄さの故に、彼の音楽はあらゆる現世臭いものの彼方に漂い、あらゆる懐疑や、闘争やファウスト的なものなどには縁のない、太陽と花と香気の中に生まれた掛替えのない幸福な微笑のようなものであると考えられたのである。<略>
いうまでもなく、モーツァルトはベートーヴェンのような反抗的な、プロメトイス風な巨人の風貌を持ってはいない。しかしそれは個性の相違であって根本的に違った存在であることではない。ベートーヴェンにあっては闘争そのものが音楽的表現の対象であり、従ってそういうものがダイナミックな起伏となって直接観照の世界に躍り上がっている。ところがモーツァルトにとってはそういう闘争などということは音楽の埒外にあり、いわば芸術以前の問題であった。つまりそういうものは彼の創作の土台にはなっているが、それはあくまでモーツァルトの仕事の踏台であったに過ぎない。彼の印象の完璧さはその克服の結果である。この完璧さを神業と呼ぶもいいが、その根底にはベートーヴェンが強烈に表現したあの個性の内面的な闘争があったことを忘れてはならない。・・・
この文脈や文章の面白さ、今までの音楽史ではなかったような一味違う著述が随所に出てくる。しかも河上徹太郎の巧みな表現は冴えに冴えわたる。(翻訳は1941年)
閑話休題、河上徹太郎著『読書論』では、盟友小林秀雄の『モオツアルト』に関してこのように単純明快に語っている。
「モツァルト」
小林秀雄は終戦後頑強に依頼原稿を断ってこの「モツァルト」を書いた。彼がその厖大な文献的渉獵と、能う限りのレコードやスコアによる鑑賞の揚句、この文章で表現したかったものは何か?それはモツァルトの音楽を、その流動する持続において何とかして文章で捕えたかったのだ。ただそれだけである。これを読んで一番感じることは、小林君がその得意の才能を駆使して人物を語り、ふんだんの考証を惜しげもなく取捨して肖像を書いている点であり、その成功は見るべきものがあるが、その意図する所は、この人物論が如何にその音楽観と一致するかを示すにある。人物が正しく書ければ音楽が流れ出す。この確信がこの文章を貫いている。そしてすべてがモツァルトの好きなト短調の音論を出すために、専ら濫費されている。
思えば世の音楽評論家は何と例外なく「人と作品」という題目の音楽書を書いていることか!そして精妙な音楽と多くの場合エクセントリックな性格とを、感傷と観念で無理に結びつけた、チグハグな二元論に陥っていることか!
その点この論文はモツァルトの深く透んだ単純性に肉迫した、文学者ならでは書けぬ傑作である。いつか山根銀二君が東京新聞でこれを評して、モツァルトの古典性を浪漫派的観念で装飾しているが文学者にしてはよく書けている、といったが、事実は共にその反対である。(昭和二十二年三月)
(文字は現在に直した)
つづく・・・
by kirakuossan
| 2015-11-27 08:43
| 文芸
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