2015年 09月 23日
天下で恐ろしい人物二人 |
2015年9月22日(火)
おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。
横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教へてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったヨ。おれはひそかに思ったのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。~
おれは、横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ。
これは勝海舟の著した『氷川清話』にでてくる有名な一説であるが、勝は横井小楠と西郷隆盛の二人を早くから気に留め、恐ろしい人物という表現で高く評価していた。西郷隆盛はあまりにも有名だが、横井小楠を知る人は少ない。ここで勝ははっきりと語る。横井の頭をもって、西郷ほどの実行力のある人が行えばこれは凄いことになると。横井小楠(1809~1869)は熊本藩士で儒学者、「維新の十傑」のひとりに挙げられた人物である。
天保14年(1843年)、私塾「小楠堂」を開き、小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬とは徳富蘇峰と蘆花の父親にあたる。他に多くの門弟を輩出した。また、安政2年(1855年)には、熊本に転居、自宅を「四時軒」と名づけ、多くの要人たちと国家論、国際論をたたかわす。吉田松陰、坂本龍馬、井上毅など、明治維新の立役者や新政府の中枢の多くがここを訪問した記録が残っている。
それほどの識者であったが、明治2年(1869年)に、十津川郷士らにより、京都寺町通で暗殺された。それは「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根によるものであった。
余談だが、酒に酔って起こした喧嘩で藩にお咎めの処分を受けたこともあって、酒癖は悪かったと記録には残っている。
9月22日は横井小楠の生誕日である。
それにしても勝海舟の『氷川清話』は当時の日本を動かした人物評が多く出てきて面白い読み物である。
おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。
横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教へてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったヨ。おれはひそかに思ったのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。~
おれは、横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ。
これは勝海舟の著した『氷川清話』にでてくる有名な一説であるが、勝は横井小楠と西郷隆盛の二人を早くから気に留め、恐ろしい人物という表現で高く評価していた。西郷隆盛はあまりにも有名だが、横井小楠を知る人は少ない。ここで勝ははっきりと語る。横井の頭をもって、西郷ほどの実行力のある人が行えばこれは凄いことになると。横井小楠(1809~1869)は熊本藩士で儒学者、「維新の十傑」のひとりに挙げられた人物である。
天保14年(1843年)、私塾「小楠堂」を開き、小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬とは徳富蘇峰と蘆花の父親にあたる。他に多くの門弟を輩出した。また、安政2年(1855年)には、熊本に転居、自宅を「四時軒」と名づけ、多くの要人たちと国家論、国際論をたたかわす。吉田松陰、坂本龍馬、井上毅など、明治維新の立役者や新政府の中枢の多くがここを訪問した記録が残っている。
それほどの識者であったが、明治2年(1869年)に、十津川郷士らにより、京都寺町通で暗殺された。それは「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根によるものであった。
余談だが、酒に酔って起こした喧嘩で藩にお咎めの処分を受けたこともあって、酒癖は悪かったと記録には残っている。
9月22日は横井小楠の生誕日である。
それにしても勝海舟の『氷川清話』は当時の日本を動かした人物評が多く出てきて面白い読み物である。
by kirakuossan
| 2015-09-23 05:57
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