2015年 09月 09日
もう一つの「幕末史」 (二) |
2015年9月9日(水)
半藤一利著『幕末史』
幕臣のなかでもいち早く大政奉還を論じていた人に大久保一翁(幕1818~1888)がいた。開国論者である勝海舟(1823~1899)より5歳年長で、彼を推挙した人物でもあるが、それ以降二人は行動を共にする。
「攘夷は不可能であり、日本国のためにはならない。それを禁裏(天皇家)があくまでも聞き入れないならば、このさい幕府は政権を朝廷に返還し、徳川は駿河・遠江・三河の一大名になればよろしい。そして攘夷実行の際は、一方の備をうけたまわる。薩摩も長州も同じように一方の防衛を固め、朝廷の指導を受けるのがいちばんよろしい。徳川家に代わってだれが総大将になって国政を担当しようとも、もともと同じ日本人であるから一向にかまわないではないか。異国人に支配されるよりはよっぽどいい。幕政などというカビの生えた古店はさっさと譲ったほうがよい。そのほうが誰をも苦しめることなく国政がさきに進む。それが仁かつ智あるやり方である」
もちろん勝麟太郎は大賛成です。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に大政奉還という手段を坂本龍馬が「とっさにひらめいた」と書いてある。でもその先を読んでいくと種明かしがかいてあると著者は紹介する。
司馬さんは作り話の上手な人で、いったんそう書いておいて、十頁ほど先に「どなたの創見です」と問われた龍馬に、「かの字とおの字さ」と答えさせているんですね。この案が大久保一翁と勝海舟であることをそれとなく書き込んでいるいるわけです。のち大政奉還は、坂本龍馬の意見を聞いて山内容堂さんが正式に持ち出しますが、実は先に大久保さんと勝さんの二人が提案していたことが記録にのこっているわけです。
尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流であって、坂本龍馬(1836~1867)も当初は攘夷論者であった。ある日千葉重太郎と開国論者の勝海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれ、龍馬は大いに感服し、その場で海舟の弟子になったという話が広く知られている。この話は海舟が『追賛一話』で語ったものだが少し誇張されているとうのが現在での定説になっている。しかし確かに龍馬が海舟に心服していたことは姉への手紙で「日本第一の人物」と称賛していることからもわかるのである。
そこから龍馬は大政奉還にも理解を示し、さらには皮肉にも彼の開国支持やもう内紛などをしている場合ではないといった姿勢が結果として近江屋において暗殺されることにつながる。それは倒幕をどうしても実力行使で成し遂げたい武闘派の薩摩にとって弁舌達者で、影響力のある龍馬の存在が目障りになったからにほかならない。
西郷隆盛(1828~1877)と海舟、さらには龍馬と西郷が面会したことを著書では触れている。時期は元治元年の秋、長州征伐の準備をしているころ。
最初は「このやろう」と頭から叩いてへこましてやるつもりで会いにいったところ、論破するなんてとても無理で頭を下げた。佐久間象山など問題にならない、はるかにできた人間である。佐久間も学問と見識は立派であるが、実際の政治的危機などに直面した時には勝先生しかいない。・・・それくらい西郷さんは勝にほれたわけです。
その頃、神戸操練場の塾頭だったのが坂本龍馬です。勝さんは龍馬に「西郷さんに会ったよ、なかなかの人物だよ」というふうに言ったのでしょう。~
龍馬は西郷に会いにいったようです。有名な話ですが、龍馬が帰ってきて西郷の印象を述べたくだりが、勝の『氷川清話』にあります。
「成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうといったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶとことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ」
この時に、後の幕末を動かす三人が会い、肚の底を割って話し、互いの人間を理解したわけです。どうも歴史には「こういう大事な時にこの人とこの人とを会わせておきたい」といった”意志”があるのではないか、私はときどきそう思うのです。~
大きなことをやるために必要な三人がこの時にここで会ったのは、歴史のおもしろさといいますか、ともかく誠に見事な出会いであったと思います。
つづく・・・
半藤一利著『幕末史』
幕臣のなかでもいち早く大政奉還を論じていた人に大久保一翁(幕1818~1888)がいた。開国論者である勝海舟(1823~1899)より5歳年長で、彼を推挙した人物でもあるが、それ以降二人は行動を共にする。
「攘夷は不可能であり、日本国のためにはならない。それを禁裏(天皇家)があくまでも聞き入れないならば、このさい幕府は政権を朝廷に返還し、徳川は駿河・遠江・三河の一大名になればよろしい。そして攘夷実行の際は、一方の備をうけたまわる。薩摩も長州も同じように一方の防衛を固め、朝廷の指導を受けるのがいちばんよろしい。徳川家に代わってだれが総大将になって国政を担当しようとも、もともと同じ日本人であるから一向にかまわないではないか。異国人に支配されるよりはよっぽどいい。幕政などというカビの生えた古店はさっさと譲ったほうがよい。そのほうが誰をも苦しめることなく国政がさきに進む。それが仁かつ智あるやり方である」
もちろん勝麟太郎は大賛成です。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に大政奉還という手段を坂本龍馬が「とっさにひらめいた」と書いてある。でもその先を読んでいくと種明かしがかいてあると著者は紹介する。
司馬さんは作り話の上手な人で、いったんそう書いておいて、十頁ほど先に「どなたの創見です」と問われた龍馬に、「かの字とおの字さ」と答えさせているんですね。この案が大久保一翁と勝海舟であることをそれとなく書き込んでいるいるわけです。のち大政奉還は、坂本龍馬の意見を聞いて山内容堂さんが正式に持ち出しますが、実は先に大久保さんと勝さんの二人が提案していたことが記録にのこっているわけです。
尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流であって、坂本龍馬(1836~1867)も当初は攘夷論者であった。ある日千葉重太郎と開国論者の勝海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれ、龍馬は大いに感服し、その場で海舟の弟子になったという話が広く知られている。この話は海舟が『追賛一話』で語ったものだが少し誇張されているとうのが現在での定説になっている。しかし確かに龍馬が海舟に心服していたことは姉への手紙で「日本第一の人物」と称賛していることからもわかるのである。
そこから龍馬は大政奉還にも理解を示し、さらには皮肉にも彼の開国支持やもう内紛などをしている場合ではないといった姿勢が結果として近江屋において暗殺されることにつながる。それは倒幕をどうしても実力行使で成し遂げたい武闘派の薩摩にとって弁舌達者で、影響力のある龍馬の存在が目障りになったからにほかならない。
西郷隆盛(1828~1877)と海舟、さらには龍馬と西郷が面会したことを著書では触れている。時期は元治元年の秋、長州征伐の準備をしているころ。
最初は「このやろう」と頭から叩いてへこましてやるつもりで会いにいったところ、論破するなんてとても無理で頭を下げた。佐久間象山など問題にならない、はるかにできた人間である。佐久間も学問と見識は立派であるが、実際の政治的危機などに直面した時には勝先生しかいない。・・・それくらい西郷さんは勝にほれたわけです。
その頃、神戸操練場の塾頭だったのが坂本龍馬です。勝さんは龍馬に「西郷さんに会ったよ、なかなかの人物だよ」というふうに言ったのでしょう。~
龍馬は西郷に会いにいったようです。有名な話ですが、龍馬が帰ってきて西郷の印象を述べたくだりが、勝の『氷川清話』にあります。
「成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうといったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶとことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ」
この時に、後の幕末を動かす三人が会い、肚の底を割って話し、互いの人間を理解したわけです。どうも歴史には「こういう大事な時にこの人とこの人とを会わせておきたい」といった”意志”があるのではないか、私はときどきそう思うのです。~
大きなことをやるために必要な三人がこの時にここで会ったのは、歴史のおもしろさといいますか、ともかく誠に見事な出会いであったと思います。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2015-09-09 16:25
| ヒストリー
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