2015年 06月 28日
著者はすべてを”影絵”のごとくに見事に映して見せた。 |
2015年6月28日(日)
「はい、ほんの気持ち鎌倉。あ、過ぎた。ちょい東京へ戻して。うん、少し駅よりかな。いや山だ。山側へ一センチ動かして」
小津組の前後左右には撮影所の立地条件に合わせた独特な呼び方がある。その指示に従って画面の中の小道具を動かしていれば一日が終わる。小津組の助監督とは、奇妙な無生物になることに似ていた。
小津安二郎と高橋治の間には26歳の年齢差がある。明治生まれと昭和生まれの開きがある。たった一度の監督と助監督の立場で映画を撮ることになった。若い映画助監督の高橋にとっては大船撮影所の大監督小津の存在価値を到底理解できるものではなかった。敬服はしても親しみを覚えることに憚りを覚えた。それがやがて時が経つにつれ高橋の気持ちも変化していった。
高橋治の著書『絢爛たる影絵ー小津安二郎』は単なる一監督の史伝ではない。小津安二郎を通して自らの生きざまを語り、自らを語りながら人間小津安二郎を追い続け、さらに小津を通して多くの人々の生きざまを投影した。それは小津と高橋自身、さらには当時の映画人すべてを”影絵”のごとくに見事に映して見せた。
高橋は昭和28年、松竹の助監督として入社する。当時の小津は戦前のサイレント映画に始まり、「戸田家の兄妹」「父ありき」、戦後になって「晩春」「麦秋」などを撮り終え、松竹ではすでに不動の地位にあった。高橋が唯一小津の下で撮ったのが入社したての年の「東京物語」である。小津監督の最大の傑作とされるが、高橋は右も左もわからない生意気盛りの頃である。彼の偽らざる心境は次のようなものであった。
小津の芸に近づくことは放棄するにしても、作家としての小津の価値を認めるのか。作られたものには確かに惹かれる。この事実をどう処理するのか。それが最も切実な命題であった。技量未熟な人間としては、敬して遠ざける以外になかった。とり敢えず興味を持たぬ顔をしてみせる。背を向けた大船調一色の中に、ついでのことに巨峰も塗りこめて振り返らない。つまり、私は当面の問題を誤魔化して眼を閉じることにしたのだ。
7年後、高橋は1年後輩の大島渚と同時期に初めての作品を世に出し、「彼女だけが知っている」という作品で監督デビューを果すことになる。そのころ小津映画の過渡期を迎え、春から秋へと映画は移り行き、昭和35年に「秋日和」を発表、翌年に「小早川家の秋」、そして次の年に最後の作品「秋刀魚の味」を撮り終え、昭和38年12月12日、小津安二郎は満60歳の誕生日に人生を終える。そしてその2年後の昭和40年に高橋は映画界から足を洗い、作家としての道を歩むことになる。近い同じ環境下に居ながら、二人の接点はそう多くはなかった。
その小津のことを高橋の内側で再びむっくりと起き直ったのは昭和48年、小津の死後10年が経ったときで、それはパリで「東京物語」を久々に見たことからだ。
自分でも意外なほど素直に見たい気持ちが湧いた。それだけ私は澄んでいたのだろう。松竹大船の伝統と自分、権威である小津に対する若年監督としての立場、そのような嘗て自分にとって切実だった問題は一切頭に浮いてこなかった。
そして高橋は今さらながらに懐かしく、しかも尊敬の念を抱きながら小津のことを思い出すのである。
小津を思う時、私たちにとってひどく痛烈なことがある。小津の大船撮影所に入ったのだという篠田(正浩)は勿論、木下(恵介)の大船撮影所に入ったのだという大島(渚)も吉田(喜重)も、小津のある一点に関しては、全面的に意見が一致する。文句なしに小津に敬服させられるというものだ。
それは、近年、とみにその考え方が顕著になったフィルモグラフィー、つまり、映画作家として生きたその作品歴の問題なのだ。同時代人の誰もが、フィルモグラフィーの点では、到底、小津に比肩し得ない。多くの人が、どこかでなにかに妥協した駄作を残している。小津にはそれが極度に少ない。これは、日本だけに限ったことではない。世界に視野をひろげても、小津ほどの人は少ない。この事実の前には、頭を深くたれるより他になす術もない。
更に、小津に関してあれだけはと思わず感歎することがもうひとつある。それは、小津が常に自分と同年齢の観客の鑑賞にたえる作品を作ったことなのだ。映画産業の衰微と共に、客の年齢層は次第に低下した。苦悩しつつ、作品の深みを犠牲にし、若い観客を意識した映画を作らざるを得なくなった人が多い。中で、小津だけがそれをしなかった。優れた作家が、決して厚化粧で媚を売ろうとしないように、小津は四十代、五十代の自分をそのまま作品に投影して見せたのだ。しかも、小津はそれを自覚していた。
小津は生涯独身だった。それでも彼の取り巻きには幾人かの女性が出て来る。照れも含めて婆婆呼ばわりしながらも最愛したのは気丈な母であった。そしてひとりは一緒に映画を撮り続けた運命共同体のような存在であった原節子であり、ひとりは親子ほどの年の差があったが後の佐田啓二の妻になる「月ヶ瀬」の娘中井益子であり、ひとりは、「日本の男どもは一体なにをしてるんだ、ラムネの球みたいな目玉をした男に取られて」といった岸恵子であり、そしてもうひとりは小田原の「清風」にいた横笛の上手な森栄、栄とは東京で一緒に住むべく住居まで確保しながら結実しなかった。結局それらはすべて小津にすれば脚本のなかやメガホンの下で結実していたのかもしれない。
また、小津は弟の信三とうまが合った。信三は兄ほどの巨体ではないが、微笑、ゆったりとした物言い、眼鼻立ちまでが小津に生き写しであるという。信三はその兄安二郎を敬慕してやまない。
小津の死後、北鎌倉の家を小津記念館として永久保存しようという話があった。信三はこの話を礼を尽くして断っている。
「あれは買った家で、兄のものではありません。これが兄を象徴したものだと思われるのは嫌だったのです。で、処分しました。兄の美意識と思われることは困ります。それよりも未練が残るのは、蓼科に建てるつもりで土地も設計の下絵も用意していた家の方です。あれが建っていたらなあと思うことがあります」
この蓼科の建設予定地は先月初めに小津の散歩道を散策した時に発見した。小津の大好きな一本桜の丘を下りて小川を渡ったところに今も空き地で存在していた。
高橋治はこの小説で直木賞候補に挙げられ、その翌年1983年『秘伝』で直木賞を受賞、その後に出した『風の盆恋歌』でベストセラー作家へとなっていった。
小津組の前後左右には撮影所の立地条件に合わせた独特な呼び方がある。その指示に従って画面の中の小道具を動かしていれば一日が終わる。小津組の助監督とは、奇妙な無生物になることに似ていた。
小津安二郎と高橋治の間には26歳の年齢差がある。明治生まれと昭和生まれの開きがある。たった一度の監督と助監督の立場で映画を撮ることになった。若い映画助監督の高橋にとっては大船撮影所の大監督小津の存在価値を到底理解できるものではなかった。敬服はしても親しみを覚えることに憚りを覚えた。それがやがて時が経つにつれ高橋の気持ちも変化していった。
高橋治の著書『絢爛たる影絵ー小津安二郎』は単なる一監督の史伝ではない。小津安二郎を通して自らの生きざまを語り、自らを語りながら人間小津安二郎を追い続け、さらに小津を通して多くの人々の生きざまを投影した。それは小津と高橋自身、さらには当時の映画人すべてを”影絵”のごとくに見事に映して見せた。
高橋は昭和28年、松竹の助監督として入社する。当時の小津は戦前のサイレント映画に始まり、「戸田家の兄妹」「父ありき」、戦後になって「晩春」「麦秋」などを撮り終え、松竹ではすでに不動の地位にあった。高橋が唯一小津の下で撮ったのが入社したての年の「東京物語」である。小津監督の最大の傑作とされるが、高橋は右も左もわからない生意気盛りの頃である。彼の偽らざる心境は次のようなものであった。
小津の芸に近づくことは放棄するにしても、作家としての小津の価値を認めるのか。作られたものには確かに惹かれる。この事実をどう処理するのか。それが最も切実な命題であった。技量未熟な人間としては、敬して遠ざける以外になかった。とり敢えず興味を持たぬ顔をしてみせる。背を向けた大船調一色の中に、ついでのことに巨峰も塗りこめて振り返らない。つまり、私は当面の問題を誤魔化して眼を閉じることにしたのだ。
7年後、高橋は1年後輩の大島渚と同時期に初めての作品を世に出し、「彼女だけが知っている」という作品で監督デビューを果すことになる。そのころ小津映画の過渡期を迎え、春から秋へと映画は移り行き、昭和35年に「秋日和」を発表、翌年に「小早川家の秋」、そして次の年に最後の作品「秋刀魚の味」を撮り終え、昭和38年12月12日、小津安二郎は満60歳の誕生日に人生を終える。そしてその2年後の昭和40年に高橋は映画界から足を洗い、作家としての道を歩むことになる。近い同じ環境下に居ながら、二人の接点はそう多くはなかった。
その小津のことを高橋の内側で再びむっくりと起き直ったのは昭和48年、小津の死後10年が経ったときで、それはパリで「東京物語」を久々に見たことからだ。
自分でも意外なほど素直に見たい気持ちが湧いた。それだけ私は澄んでいたのだろう。松竹大船の伝統と自分、権威である小津に対する若年監督としての立場、そのような嘗て自分にとって切実だった問題は一切頭に浮いてこなかった。
そして高橋は今さらながらに懐かしく、しかも尊敬の念を抱きながら小津のことを思い出すのである。
小津を思う時、私たちにとってひどく痛烈なことがある。小津の大船撮影所に入ったのだという篠田(正浩)は勿論、木下(恵介)の大船撮影所に入ったのだという大島(渚)も吉田(喜重)も、小津のある一点に関しては、全面的に意見が一致する。文句なしに小津に敬服させられるというものだ。
それは、近年、とみにその考え方が顕著になったフィルモグラフィー、つまり、映画作家として生きたその作品歴の問題なのだ。同時代人の誰もが、フィルモグラフィーの点では、到底、小津に比肩し得ない。多くの人が、どこかでなにかに妥協した駄作を残している。小津にはそれが極度に少ない。これは、日本だけに限ったことではない。世界に視野をひろげても、小津ほどの人は少ない。この事実の前には、頭を深くたれるより他になす術もない。
更に、小津に関してあれだけはと思わず感歎することがもうひとつある。それは、小津が常に自分と同年齢の観客の鑑賞にたえる作品を作ったことなのだ。映画産業の衰微と共に、客の年齢層は次第に低下した。苦悩しつつ、作品の深みを犠牲にし、若い観客を意識した映画を作らざるを得なくなった人が多い。中で、小津だけがそれをしなかった。優れた作家が、決して厚化粧で媚を売ろうとしないように、小津は四十代、五十代の自分をそのまま作品に投影して見せたのだ。しかも、小津はそれを自覚していた。
小津は生涯独身だった。それでも彼の取り巻きには幾人かの女性が出て来る。照れも含めて婆婆呼ばわりしながらも最愛したのは気丈な母であった。そしてひとりは一緒に映画を撮り続けた運命共同体のような存在であった原節子であり、ひとりは親子ほどの年の差があったが後の佐田啓二の妻になる「月ヶ瀬」の娘中井益子であり、ひとりは、「日本の男どもは一体なにをしてるんだ、ラムネの球みたいな目玉をした男に取られて」といった岸恵子であり、そしてもうひとりは小田原の「清風」にいた横笛の上手な森栄、栄とは東京で一緒に住むべく住居まで確保しながら結実しなかった。結局それらはすべて小津にすれば脚本のなかやメガホンの下で結実していたのかもしれない。
また、小津は弟の信三とうまが合った。信三は兄ほどの巨体ではないが、微笑、ゆったりとした物言い、眼鼻立ちまでが小津に生き写しであるという。信三はその兄安二郎を敬慕してやまない。
小津の死後、北鎌倉の家を小津記念館として永久保存しようという話があった。信三はこの話を礼を尽くして断っている。
「あれは買った家で、兄のものではありません。これが兄を象徴したものだと思われるのは嫌だったのです。で、処分しました。兄の美意識と思われることは困ります。それよりも未練が残るのは、蓼科に建てるつもりで土地も設計の下絵も用意していた家の方です。あれが建っていたらなあと思うことがあります」
この蓼科の建設予定地は先月初めに小津の散歩道を散策した時に発見した。小津の大好きな一本桜の丘を下りて小川を渡ったところに今も空き地で存在していた。
高橋治はこの小説で直木賞候補に挙げられ、その翌年1983年『秘伝』で直木賞を受賞、その後に出した『風の盆恋歌』でベストセラー作家へとなっていった。
by kirakuossan
| 2015-06-28 22:10
| 文芸
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