2015年 05月 21日
指揮者100選☆62 バレンボイム |
2015年5月21日(木)
今月号の『レコード芸術』で指揮者ダニエル・バレンボイムを大々的に特集している。「現代の”超”カリスマ」と題して、”超”とまで表現して・・・
ダニエル・バレンボイム。こと「音楽的才能」にかけて、この名前を凌駕する他の名を挙げることは長いクラシック音楽の歴史の中においても、極めて難しいのではないか。幼き頃より神童の名を欲しいままにし、若くしてピアニスト・デヴュー。本格的に指揮者としての活動を始めてからもまさに順風満帆、数々の世界のオーケストラ、歌劇場の音楽監督を歴任し、レコーディングも多い。しかし、ではとりわけ日本における「人気」という点では、どうか?これほどの音楽家に相応しい賞賛と評価、そして支持を受けているだろうか?「否」とあえて言いたい。
冒頭の書き出しの持ち上げ方などはあまりにも過大評価すぎて、読んでいて眉をひそめたくなるほどだが、後半の日本での評価を読むにいたって、「その通り」だと、そこで変に安堵したりするのである。
僕にとっては、あの50~60年代の若きピアニスト・バレンボイム、夭折の”超”天才女流チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレのパートナー、それも彼女に仕えたひとりのピアニストといった、イメージがいまだもって真っ先に浮かび上がってくる。21歳ですでにベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音するぐらいだから、神童には違いなかったのだが、そんな彼と、今の”現代最高のドイツ音楽”指揮者(僕は決してそうは思わないが・・・)とが同一人物とはなかなか結びつかないのである。
ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, アルゼンチン 1942~)はユダヤ人ピアニスト・指揮者で、現在はイスラエル国籍をもつ。
☆演奏スタイルは・・・
評論家喜多尾道冬氏のバレンボイム評がとても斬新で解りやすい。
クラシック音楽の演奏は、20世紀から現代まで、この19世紀の理念は手を変え品を変え、膨大なヴァリエーションで咀嚼、消化、反芻を繰り返されてきた。そのあまりほとんど同語反復に近づき、飽和状態に陥りかけている。バレンボイムの演奏に感じとれるのは、この理念のハレーション状態に達した色づけや味つけの放棄である。彼は19世紀の音楽を21世紀にまで延命させるには、フマニスムスの約束事を反故にし、そのコントロールの効かないアンティ・ヒューマンな領域に大胆に移行しなければならぬと言いたげだ。~
バレンボイムの演奏はよく「雲」のようにつかみどころがないと言われる。ところが現代ではこの「クラウド」こそ情報の巨大な源泉になりつつある。
彼の音楽について昔から語られる「人工的」といった比喩は、こんなところにその原因がひとつあるのかもしれないと思ったりもする。
☆録音は・・・
ここではピアニストとしての録音を除いても、実に膨大な録音がある。交響曲はもちろん、管弦楽曲、オペラに至るまでその領域は広い。とくにオペラにおいて彼は『トリスタンとイゾルデ』を4度録音しており、83年、94年(2度)、07年と、それは彼のキャリアの積み重ねを理解する上において、的確な道しるべとされる。
ワーグナー:
歌劇『トリスタンとイゾルデ』より第一幕前奏曲
彼は、同じ作曲家の、同じ曲目を何度も録音する傾向にある。ピアノなら、ベートーヴェンの協奏曲やソナタであり、指揮においては、この『トリスタンとイゾルデ』以外にも、ベートーヴェン交響曲全集(99年ベルリン国立管、11年WEDオーケストラ)、ブルックナー全集(70年代シカゴ響、90年代ベルリン・フィル)のそれぞれの2度の録音がある。
☆私見・・・
もちろん人の好みはあるが、好みだけでその音楽家の演奏に必要以上に近づいたり、逆に遠ざけたりするのは良くない。また極端には偏見視したりするのはもってのほかである。でも我々のような素人の聴き手にはそんな落とし穴があるのも事実である。これを機会に、自分勝手に築いたような色んなわだかまりを捨て、バレンボイムと真正面に向かい合って、彼の音楽を聴き直す必要があるかもしれない。
☆Myライブラリーより・・・
ベートーヴェン:
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.73「皇帝」
ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ダニエル・バレンボイム
録音:1975年3月10&11日、ロンドン、キングスウェイ・ホール
今月号の『レコード芸術』で指揮者ダニエル・バレンボイムを大々的に特集している。「現代の”超”カリスマ」と題して、”超”とまで表現して・・・
ダニエル・バレンボイム。こと「音楽的才能」にかけて、この名前を凌駕する他の名を挙げることは長いクラシック音楽の歴史の中においても、極めて難しいのではないか。幼き頃より神童の名を欲しいままにし、若くしてピアニスト・デヴュー。本格的に指揮者としての活動を始めてからもまさに順風満帆、数々の世界のオーケストラ、歌劇場の音楽監督を歴任し、レコーディングも多い。しかし、ではとりわけ日本における「人気」という点では、どうか?これほどの音楽家に相応しい賞賛と評価、そして支持を受けているだろうか?「否」とあえて言いたい。
冒頭の書き出しの持ち上げ方などはあまりにも過大評価すぎて、読んでいて眉をひそめたくなるほどだが、後半の日本での評価を読むにいたって、「その通り」だと、そこで変に安堵したりするのである。
僕にとっては、あの50~60年代の若きピアニスト・バレンボイム、夭折の”超”天才女流チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレのパートナー、それも彼女に仕えたひとりのピアニストといった、イメージがいまだもって真っ先に浮かび上がってくる。21歳ですでにベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音するぐらいだから、神童には違いなかったのだが、そんな彼と、今の”現代最高のドイツ音楽”指揮者(僕は決してそうは思わないが・・・)とが同一人物とはなかなか結びつかないのである。
ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, アルゼンチン 1942~)はユダヤ人ピアニスト・指揮者で、現在はイスラエル国籍をもつ。
☆演奏スタイルは・・・
評論家喜多尾道冬氏のバレンボイム評がとても斬新で解りやすい。
クラシック音楽の演奏は、20世紀から現代まで、この19世紀の理念は手を変え品を変え、膨大なヴァリエーションで咀嚼、消化、反芻を繰り返されてきた。そのあまりほとんど同語反復に近づき、飽和状態に陥りかけている。バレンボイムの演奏に感じとれるのは、この理念のハレーション状態に達した色づけや味つけの放棄である。彼は19世紀の音楽を21世紀にまで延命させるには、フマニスムスの約束事を反故にし、そのコントロールの効かないアンティ・ヒューマンな領域に大胆に移行しなければならぬと言いたげだ。~
バレンボイムの演奏はよく「雲」のようにつかみどころがないと言われる。ところが現代ではこの「クラウド」こそ情報の巨大な源泉になりつつある。
彼の音楽について昔から語られる「人工的」といった比喩は、こんなところにその原因がひとつあるのかもしれないと思ったりもする。
☆録音は・・・
ここではピアニストとしての録音を除いても、実に膨大な録音がある。交響曲はもちろん、管弦楽曲、オペラに至るまでその領域は広い。とくにオペラにおいて彼は『トリスタンとイゾルデ』を4度録音しており、83年、94年(2度)、07年と、それは彼のキャリアの積み重ねを理解する上において、的確な道しるべとされる。
ワーグナー:
歌劇『トリスタンとイゾルデ』より第一幕前奏曲
彼は、同じ作曲家の、同じ曲目を何度も録音する傾向にある。ピアノなら、ベートーヴェンの協奏曲やソナタであり、指揮においては、この『トリスタンとイゾルデ』以外にも、ベートーヴェン交響曲全集(99年ベルリン国立管、11年WEDオーケストラ)、ブルックナー全集(70年代シカゴ響、90年代ベルリン・フィル)のそれぞれの2度の録音がある。
☆私見・・・
もちろん人の好みはあるが、好みだけでその音楽家の演奏に必要以上に近づいたり、逆に遠ざけたりするのは良くない。また極端には偏見視したりするのはもってのほかである。でも我々のような素人の聴き手にはそんな落とし穴があるのも事実である。これを機会に、自分勝手に築いたような色んなわだかまりを捨て、バレンボイムと真正面に向かい合って、彼の音楽を聴き直す必要があるかもしれない。
☆Myライブラリーより・・・
ベートーヴェン:
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.73「皇帝」
ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ダニエル・バレンボイム
録音:1975年3月10&11日、ロンドン、キングスウェイ・ホール
by kirakuossan
| 2015-05-21 07:39
| 指揮者100選(完)
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