2015年 03月 30日
史伝『澁江抽齋』 -2 |
2015年3月30日(月)
史伝『澁江抽齋』 森鷗外
十月二日は地震の日である。空は陰って雨が降ったり歇んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連にも逐次に人の交迭があって、豊芥子や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸く勢を増した。
寝間にどてらを著て臥していた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜ちた。抽斎はその間に介まって動くことが出来なくなった。
五百(いお)は起きて夫の後に続こうとしたがこれはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う暇もなく、馳せて隠居信順を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅が破損したので、後に浜町の中屋敷に移った。当主順承は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野貞固(さだかた)に会って、救恤の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨を承くるに遑あらず、直ちに廩米二万五千俵を発して、本所の窮民を賑すことを令した。勘定奉行平川半治はこの議に与らなかった。平川は後に藩士が悉く津軽に遷るに及んで、独り永の暇を願って、深川に米店を開いた人である。
ここに出てくる地震の話は、安政江戸地震と呼ばれる大地震のことで、安政2年10月2日午後10時ごろ、関東地方南部で発生したマグニチュード7クラスの大地震である。特に強い揺れを示したのは隅田川東側で、隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられるている。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られるが、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及んだ。渋江抽斎は、幕府が古医書「医心方」を遺すため、校刻を命じていたが、その校正役13人の一人として任を負うていたころである。
地震より遡ること2年、嘉永6年にはさらに世の中を騒然とさせる出来事が起きていた。
米艦が浦賀に入ったのは、二年前の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。
幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備のない軍隊の腑甲斐なさが覗われる。新将軍家定の下にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年に入ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至ってやや風潮の化誘する所となった。それには当時産蓐にいた女丈夫五百(いお)の啓沃も与って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
地震といい、黒船来航といい、当時の混乱の様子が手に取るように感じ取れる。無味乾燥な歴史書より、よほどドラマティックであり、登場人物を通して目に浮かぶ出来事は生々しく、
自らの身をその時代におくような錯覚にとらわれる。
多紀氏ではこの年(安政四年)二月十四日に、矢の倉の末家茝庭(さいてい)が六十三歳で歿し、十一月に向柳原の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくし(鴎外)の所蔵の安政四年「武鑑」は、茝庭が既に逝いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、茝庭の子安琢が多紀安琢二百俵、父楽春院として載せてあり、暁湖は旧に依って多紀安良法眼二百俵、
父安元として載せてある。茝庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何の故なるを詳にしない。
茝庭、名は元堅(げんけん)、字は亦柔(えきじゅう)、一に三松(さんしょう)と号す。通称は安叔(あんしゅく)、後楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山の次男に生れた。幼時犬を闘わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若かずというを以て責めると、
「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾もなくして節を折って書を読み、精力衆に踰え、識見人を驚かした。分家した初は本石町に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄は宗家と同じく二百俵三十人扶持である。
茝庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌を給するのみでなく、夏は蚊幮を貽り、冬は布団を遣った。また三両から五両までの金を、貧窶の度に従って与えたこともある。
茝庭は抽斎の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁であった。しかし当時法印の位は太だ貴いもので、茝庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋のある茶碗に注ぎ、菓子は高坏に盛って出した。この器は大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限って用いたそうである。茝庭の後は安琢が嗣ついだ。
読んでいてふと思う、ほんの一例だが・・・
物事をより詳細に調べることを <掘り下げる>とか<突き詰める>という。また、隅々まで調べ尽くして明らかにすることを<全容を明らかにする>とか<徹底分析する>、少しはしたないが<丸裸にする>とかいう。でもこれらの意味合いをすべて含めて、すっきりと品よくいう言い方がある。in detail、すなわち、詳らかにする、つまびらかにする、である。審(つまび)らかにする、とも書く。
鴎外の文章表現は実に巧みである。現代に忘れ去られているような言葉や、言い回し方、あるいは事柄を呼び覚ましてくれる、読んでいてそんな楽しみがそこにはある。
普く(あまねく)、頗る(すこぶる)、美丈夫、年歯、念晴らし、井然、反駁、徒(いたずら)に、従学、相貌、文人墨客、自弁、傍輩、饗応、殊遇、巷説、股栗(こりつ・股慄)、遊印、愛惜、愛重、御新造、合口(相性のよいこと)、截然、騒擾、食客、規矩(きく)・・・いざとなると思い出せなかったり、なかなか上手く使いこなせないような表現が出てくるわ出てくるわ。。。
つづく・・・
史伝『澁江抽齋』 森鷗外
十月二日は地震の日である。空は陰って雨が降ったり歇んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連にも逐次に人の交迭があって、豊芥子や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸く勢を増した。
寝間にどてらを著て臥していた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜ちた。抽斎はその間に介まって動くことが出来なくなった。
五百(いお)は起きて夫の後に続こうとしたがこれはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う暇もなく、馳せて隠居信順を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅が破損したので、後に浜町の中屋敷に移った。当主順承は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野貞固(さだかた)に会って、救恤の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨を承くるに遑あらず、直ちに廩米二万五千俵を発して、本所の窮民を賑すことを令した。勘定奉行平川半治はこの議に与らなかった。平川は後に藩士が悉く津軽に遷るに及んで、独り永の暇を願って、深川に米店を開いた人である。
ここに出てくる地震の話は、安政江戸地震と呼ばれる大地震のことで、安政2年10月2日午後10時ごろ、関東地方南部で発生したマグニチュード7クラスの大地震である。特に強い揺れを示したのは隅田川東側で、隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられるている。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られるが、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及んだ。渋江抽斎は、幕府が古医書「医心方」を遺すため、校刻を命じていたが、その校正役13人の一人として任を負うていたころである。
地震より遡ること2年、嘉永6年にはさらに世の中を騒然とさせる出来事が起きていた。
米艦が浦賀に入ったのは、二年前の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。
幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備のない軍隊の腑甲斐なさが覗われる。新将軍家定の下にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年に入ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至ってやや風潮の化誘する所となった。それには当時産蓐にいた女丈夫五百(いお)の啓沃も与って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
自らの身をその時代におくような錯覚にとらわれる。
多紀氏ではこの年(安政四年)二月十四日に、矢の倉の末家茝庭(さいてい)が六十三歳で歿し、十一月に向柳原の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくし(鴎外)の所蔵の安政四年「武鑑」は、茝庭が既に逝いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、茝庭の子安琢が多紀安琢二百俵、父楽春院として載せてあり、暁湖は旧に依って多紀安良法眼二百俵、
父安元として載せてある。茝庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何の故なるを詳にしない。
茝庭、名は元堅(げんけん)、字は亦柔(えきじゅう)、一に三松(さんしょう)と号す。通称は安叔(あんしゅく)、後楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山の次男に生れた。幼時犬を闘わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若かずというを以て責めると、
「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾もなくして節を折って書を読み、精力衆に踰え、識見人を驚かした。分家した初は本石町に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄は宗家と同じく二百俵三十人扶持である。
茝庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌を給するのみでなく、夏は蚊幮を貽り、冬は布団を遣った。また三両から五両までの金を、貧窶の度に従って与えたこともある。
茝庭は抽斎の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁であった。しかし当時法印の位は太だ貴いもので、茝庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋のある茶碗に注ぎ、菓子は高坏に盛って出した。この器は大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限って用いたそうである。茝庭の後は安琢が嗣ついだ。
読んでいてふと思う、ほんの一例だが・・・
物事をより詳細に調べることを <掘り下げる>とか<突き詰める>という。また、隅々まで調べ尽くして明らかにすることを<全容を明らかにする>とか<徹底分析する>、少しはしたないが<丸裸にする>とかいう。でもこれらの意味合いをすべて含めて、すっきりと品よくいう言い方がある。in detail、すなわち、詳らかにする、つまびらかにする、である。審(つまび)らかにする、とも書く。
鴎外の文章表現は実に巧みである。現代に忘れ去られているような言葉や、言い回し方、あるいは事柄を呼び覚ましてくれる、読んでいてそんな楽しみがそこにはある。
普く(あまねく)、頗る(すこぶる)、美丈夫、年歯、念晴らし、井然、反駁、徒(いたずら)に、従学、相貌、文人墨客、自弁、傍輩、饗応、殊遇、巷説、股栗(こりつ・股慄)、遊印、愛惜、愛重、御新造、合口(相性のよいこと)、截然、騒擾、食客、規矩(きく)・・・いざとなると思い出せなかったり、なかなか上手く使いこなせないような表現が出てくるわ出てくるわ。。。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2015-03-30 11:10
| 文芸
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