2015年 02月 27日
川釣りと将棋に親しんだ作家 |
2015年2月27日(金)
井伏鱒二という人は昔から馴染みのある作家であるが、名前だけ知っていても作品は読んだことがない。中学か、高校かの国語の教科書にたしか「山椒魚」が出てきたのは覚えている。ほかに「駅前旅館」とか「本日休診」・・・前からとにかく気にはなっていた作家で、見るからに気の良さそうなおじさんというイメージがあって親近感を持ったものだ。
今回、「普門院の和尚さん」を読んだことで、俄然身近に近寄った思いがする。人となりを調べてみると、長寿であったこともあるが、随分と紆余曲折のある人生を歩んだ人だ。そしていつの時も持ち前の明るさと気楽さを発揮して人生を謳歌した人ではなかっただろうか。いくつかのエッセイを読んでもすぐさまそう感じとれるのである。
最初は画家を目指した。京都にいる橋本関雪を頼って弟子入りを乞うが、受けてもらえず文学の道へ進むこととなる。岩野泡鳴を慕い、佐藤春夫に師事、1929年31歳の時、「山椒魚」を発表、この頃より小林秀雄の雑誌の同人になったり、太宰治を知るようになる。また芥川賞作家で「第三の新人」の一人とされた庄野潤三は彼の弟子である。そんなことも知り、またアトリエ3階の物置から買っただけで読んでもない文庫本を見つけ引っ張り出してくる。
氏は大の釣好きで、よく山梨を訪れ、地元文人との交流の傍ら、専ら川釣りに精を出した。そういえば開高健との交わりのスナップを見たこともある。それにもうひとつ将棋が好きなようであった。将棋に関するエッセイもいくつかある。
私の棋力
私のうちと将棋の大山名人のうちは、二間半の道をはさんで筋向ひになってゐる。目と鼻の先である。私が縁側で将棋を指してゐて「待った」をすると、大山さんのうちに聞えるかもしれぬ。
先日、茨城県水海道の友人を訪ねたところ、雨のため外が駄目なので、友人が近所の将棋好きな人を呼んで対局さしてくれた。何よりもの待遇だと思った。初めのうちは私の旗色が悪かったが、傍から友人が私のことを「この人、大山名人の隣の家の人だ。門前の小僧何とかで、地力はあるんだ」と云った。すると勝負の雲行きが急に変って来た。相手が立てつづけに落手をして私の勝ちとなった。嘘のやうな話だが、まさかわざと負けてくれたのでもなかったらう。
私は大山さんと近所づきあひしてゐても、ふだんは将棋の話はしないやうに努めてゐる。
<略>
―いつか加藤治郎八段が私の棋力を査定してくれた。将棋連盟の九級と云っては点が甘く、十級と云ってはほんの少し辛いといったやうなところださうだ。
このような趣味の話は罪が無くてよろしい。それにしても九級そこそこでは、いくらご近所でも大山名人と将棋の話はさすがに気が引けてできないだろう。
井伏鱒二という人は昔から馴染みのある作家であるが、名前だけ知っていても作品は読んだことがない。中学か、高校かの国語の教科書にたしか「山椒魚」が出てきたのは覚えている。ほかに「駅前旅館」とか「本日休診」・・・前からとにかく気にはなっていた作家で、見るからに気の良さそうなおじさんというイメージがあって親近感を持ったものだ。
今回、「普門院の和尚さん」を読んだことで、俄然身近に近寄った思いがする。人となりを調べてみると、長寿であったこともあるが、随分と紆余曲折のある人生を歩んだ人だ。そしていつの時も持ち前の明るさと気楽さを発揮して人生を謳歌した人ではなかっただろうか。いくつかのエッセイを読んでもすぐさまそう感じとれるのである。
最初は画家を目指した。京都にいる橋本関雪を頼って弟子入りを乞うが、受けてもらえず文学の道へ進むこととなる。岩野泡鳴を慕い、佐藤春夫に師事、1929年31歳の時、「山椒魚」を発表、この頃より小林秀雄の雑誌の同人になったり、太宰治を知るようになる。また芥川賞作家で「第三の新人」の一人とされた庄野潤三は彼の弟子である。そんなことも知り、またアトリエ3階の物置から買っただけで読んでもない文庫本を見つけ引っ張り出してくる。
氏は大の釣好きで、よく山梨を訪れ、地元文人との交流の傍ら、専ら川釣りに精を出した。そういえば開高健との交わりのスナップを見たこともある。それにもうひとつ将棋が好きなようであった。将棋に関するエッセイもいくつかある。
私の棋力
私のうちと将棋の大山名人のうちは、二間半の道をはさんで筋向ひになってゐる。目と鼻の先である。私が縁側で将棋を指してゐて「待った」をすると、大山さんのうちに聞えるかもしれぬ。
先日、茨城県水海道の友人を訪ねたところ、雨のため外が駄目なので、友人が近所の将棋好きな人を呼んで対局さしてくれた。何よりもの待遇だと思った。初めのうちは私の旗色が悪かったが、傍から友人が私のことを「この人、大山名人の隣の家の人だ。門前の小僧何とかで、地力はあるんだ」と云った。すると勝負の雲行きが急に変って来た。相手が立てつづけに落手をして私の勝ちとなった。嘘のやうな話だが、まさかわざと負けてくれたのでもなかったらう。
私は大山さんと近所づきあひしてゐても、ふだんは将棋の話はしないやうに努めてゐる。
<略>
―いつか加藤治郎八段が私の棋力を査定してくれた。将棋連盟の九級と云っては点が甘く、十級と云ってはほんの少し辛いといったやうなところださうだ。
このような趣味の話は罪が無くてよろしい。それにしても九級そこそこでは、いくらご近所でも大山名人と将棋の話はさすがに気が引けてできないだろう。
by kirakuossan
| 2015-02-27 17:37
| 文芸
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