2015年 02月 08日
広重が生まれ、翌年ドラクロワが生まれた。 |
2015年2月8日(日)
ヨーロッパでロマン主義が盛期を迎えるころ、日本では浮世絵師が活躍した時期とだぶるのである。
18世紀末におきたフランスでの市民革命、その後ナポレオンが執政政府を樹立し独裁権を掌握しようとする前夜、1798年に画家ドラクロワはパリ郊外で生まれ、その前年に日本では広重が生まれている。ショパンと北斎は同じ1849年に亡くなっているし、翌年にはイギリスの代表的なロマン派詩人ワーズワースが世を去っている。また清長が亡くなった頃は、ちょうどロマン主義がピークにあったことは前に述べた通りである
六大浮世絵師で、最も先輩格は鈴木春信(1725~1770)である。美人画の浮世絵師として知られ、江戸随一の美人として一世を風靡した笠森お仙、水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘だったが、彼女をモデルとして描いた画が春信を世に出すきっかけとなった。
江戸谷中のお仙は、浅草寺の楊枝屋「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の「蔦屋」のおよしとともに江戸の三美人(明和三美人)ともてはやされた。春信は浮世絵版画における「錦絵」技法の大成者としても知られ、平賀源内の友人でもあった。いつも思うのだが、現代風のモダンな名前が江戸時代の浮世絵とミスマッチする。
鳥居清長(1752~1815)は、鳥居派四代目当主で、「江戸のヴィーナス」と称される八頭身でどっしりとした体つきの健康的な美人画様式を創り上げた。画を見るとどれもすらっとした女性ばかりで、当時の日本女性に実在したかどうかは疑問だが、憧れて描いたのかもしれない。外国人受けしそうな体型、今日世界的に高く評価されているのもよく頷けるところである。「女湯図」でもそうであったが、美人画の背景に、実際の江戸風景を写実的に描いたのは清長が最初であるとされる。「濱屋 川岸の涼み」も当時の風情が想像でき印象に残る。
喜多川歌麿(1753頃?~1806)は、繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した人でもある。世界的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。「ポッピンを吹く女」はあまりにも有名である。ぽっぴんとはぽぴんともいい、近世のガラス製玩具でフラスコのような形をしており、吹くと底がへこんだり出っ張ったりして音がでる。玩具としだけでなく、旧正月などで厄払いの願いをこめて吹くこともあったという。
葛飾北斎(1760~1849)、風景画や春画、奇想画にいたる多岐の浮世絵を描いた浮世絵師で、晩年になると肉筆画を多く残した。また油絵に対しても関心が強かったようだが、さすがにそれは果たせなかった。代表作の『富嶽三十六景』や『北斎漫画』は著名で、みなの知るところである。彼は長生きしたが、その間、なぜか93回もひっこしをしたとも言われる。
東洲斎写楽〈1763~1820年)のことは出自や経歴についてよく知られていない。能役者斎藤十郎兵衛とする説が有力であるが、わずか10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した”謎の絵師”と呼ばれる。
でも遺された145点余の画はどれも見る者を圧倒する。役者の大首絵は役者の特徴をよく捉えているといっても容姿の欠点までをも誇張して描くもので、それが写楽の絵の特色であったが、さすがに役者本人や贔屓する者からすれば面白いはずがなく、絵は売れなかったらしい。
歌川広重(1797~1858)の作品は、欧米では大胆な構図などとともに、「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、青色でも特に藍色の美しさで評価が高い。36歳の時に正式に浮世絵師として独立した。この年公用で東海道を上り、そこで描いた画を「東海道五十三次」として発表、風景画家としての名声を決定的なものとした。「ヒロシゲブルー」は、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちやアール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえた。広重の後半は、すでにヨーロッパではロマン主義が終焉をとげ、広重の画は次の時代のゴッホやモネなどの画家に影響を与えたことはよく知られるところである。以前はたしか、安藤広重と読んだものだが、安藤は本姓、広重は号であり両者を組み合わせるのは不自然で、今の呼び名を使うようになったようだ。
ヨーロッパでロマン主義が盛期を迎えるころ、日本では浮世絵師が活躍した時期とだぶるのである。
18世紀末におきたフランスでの市民革命、その後ナポレオンが執政政府を樹立し独裁権を掌握しようとする前夜、1798年に画家ドラクロワはパリ郊外で生まれ、その前年に日本では広重が生まれている。ショパンと北斎は同じ1849年に亡くなっているし、翌年にはイギリスの代表的なロマン派詩人ワーズワースが世を去っている。また清長が亡くなった頃は、ちょうどロマン主義がピークにあったことは前に述べた通りである
六大浮世絵師で、最も先輩格は鈴木春信(1725~1770)である。美人画の浮世絵師として知られ、江戸随一の美人として一世を風靡した笠森お仙、水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘だったが、彼女をモデルとして描いた画が春信を世に出すきっかけとなった。
江戸谷中のお仙は、浅草寺の楊枝屋「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の「蔦屋」のおよしとともに江戸の三美人(明和三美人)ともてはやされた。春信は浮世絵版画における「錦絵」技法の大成者としても知られ、平賀源内の友人でもあった。いつも思うのだが、現代風のモダンな名前が江戸時代の浮世絵とミスマッチする。
鳥居清長(1752~1815)は、鳥居派四代目当主で、「江戸のヴィーナス」と称される八頭身でどっしりとした体つきの健康的な美人画様式を創り上げた。画を見るとどれもすらっとした女性ばかりで、当時の日本女性に実在したかどうかは疑問だが、憧れて描いたのかもしれない。外国人受けしそうな体型、今日世界的に高く評価されているのもよく頷けるところである。「女湯図」でもそうであったが、美人画の背景に、実際の江戸風景を写実的に描いたのは清長が最初であるとされる。「濱屋 川岸の涼み」も当時の風情が想像でき印象に残る。
喜多川歌麿(1753頃?~1806)は、繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した人でもある。世界的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。「ポッピンを吹く女」はあまりにも有名である。ぽっぴんとはぽぴんともいい、近世のガラス製玩具でフラスコのような形をしており、吹くと底がへこんだり出っ張ったりして音がでる。玩具としだけでなく、旧正月などで厄払いの願いをこめて吹くこともあったという。
葛飾北斎(1760~1849)、風景画や春画、奇想画にいたる多岐の浮世絵を描いた浮世絵師で、晩年になると肉筆画を多く残した。また油絵に対しても関心が強かったようだが、さすがにそれは果たせなかった。代表作の『富嶽三十六景』や『北斎漫画』は著名で、みなの知るところである。彼は長生きしたが、その間、なぜか93回もひっこしをしたとも言われる。
東洲斎写楽〈1763~1820年)のことは出自や経歴についてよく知られていない。能役者斎藤十郎兵衛とする説が有力であるが、わずか10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した”謎の絵師”と呼ばれる。
でも遺された145点余の画はどれも見る者を圧倒する。役者の大首絵は役者の特徴をよく捉えているといっても容姿の欠点までをも誇張して描くもので、それが写楽の絵の特色であったが、さすがに役者本人や贔屓する者からすれば面白いはずがなく、絵は売れなかったらしい。
歌川広重(1797~1858)の作品は、欧米では大胆な構図などとともに、「ヒロシゲブルー」と呼ばれ、青色でも特に藍色の美しさで評価が高い。36歳の時に正式に浮世絵師として独立した。この年公用で東海道を上り、そこで描いた画を「東海道五十三次」として発表、風景画家としての名声を決定的なものとした。「ヒロシゲブルー」は、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちやアール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえた。広重の後半は、すでにヨーロッパではロマン主義が終焉をとげ、広重の画は次の時代のゴッホやモネなどの画家に影響を与えたことはよく知られるところである。以前はたしか、安藤広重と読んだものだが、安藤は本姓、広重は号であり両者を組み合わせるのは不自然で、今の呼び名を使うようになったようだ。
by kirakuossan
| 2015-02-08 09:00
| 美術
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