2015年 01月 06日
漱石の「元日」から思うこと |
2015年1月6日(火)
夏目漱石に『永日小品』という25の小品ばかりを集めた作品がある。そのいちばん最初に出て来るのが「元日」である。
元日
雑煮を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾むきがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やあと云った。
フロックは白い手巾を出して、用もない顔を拭いた。そうして、しきりに屠蘇を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突ついている。ところへ虚子が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付を着て、極めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。
雑煮を食って、フロックコートの若い男が訪れて・・・清々しい、どことなくひきしまった正月の空気を感じる文章で始まる。虚子とはもちろん高浜虚子である。謡っているうちに、鼓の話となり、虚子が最近鼓を習っているので皆に聞かそうと云うことになった。わざわざ車夫を走らせて鼓を取り寄せた。
鼓がくると、台所から七輪を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾いた。ちょっと好い音がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒を締めにかかった。紋服の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品が好い。今度はみんな感心して見ている。
虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱い込んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇に説明してくれた。自分にはとても呑み込めない。けれども合点の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承した。そこで羽衣の曲を謡い出した。春霞たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩れるから、萎靡因循のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓をかんと一つ打った。
そして皆から色んな批評を受けたが、虚子は微笑しながら自分の鼓に、自分の謡を合せて納めた。そして、まだ他に廻らなければならない所があるからと言って帰って行った。あとで虚子の鼓に合せた自分の掛け声が、どうだのこうだのと若い者に冷やかされた。
細君までいっしょになって夫を貶した末、高浜さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢の袖がぴらぴら見えたが、大変好い色だったと賞ている。フロックはたちまち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。
漱石が虚子の襦袢や袖の色を好まないと語った最後の一行の文章がやけに強烈に印象に残った。以前より僕は高浜虚子の生きざまを好まない。たしかに虚子は俳壇に君臨する存在であったかもしれないが、それは平たく言えば、何処となく世渡り上手な、要領の良さが、そうさせた風にみえる。政治家や官僚、会社社長などと親密となり、多くを虚子の弟子とした。そして有力なところへ自分の娘や孫を嫁がせたという。正岡子規が没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭したりするが、一方では、自分を育ててくれた師である子規をあえて過小評価することで、自らを大きく見せようとする”嫌らしさ”が随所に見え隠れし、鼻についてならない。僕の偏見かもしれないが・・・。
漱石や子規と、虚子、あまりにもの格の違いを感じるが、当の漱石の心の奥底はどんな思いだったのだろう。
初空や 大悪人虚子の 頭上に 虚子
虚子の新年の俳句である。この”ふてぶてしさ”が虚子らしいところである。
元日
雑煮を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾むきがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やあと云った。
フロックは白い手巾を出して、用もない顔を拭いた。そうして、しきりに屠蘇を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突ついている。ところへ虚子が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付を着て、極めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。
雑煮を食って、フロックコートの若い男が訪れて・・・清々しい、どことなくひきしまった正月の空気を感じる文章で始まる。虚子とはもちろん高浜虚子である。謡っているうちに、鼓の話となり、虚子が最近鼓を習っているので皆に聞かそうと云うことになった。わざわざ車夫を走らせて鼓を取り寄せた。
鼓がくると、台所から七輪を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾いた。ちょっと好い音がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒を締めにかかった。紋服の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品が好い。今度はみんな感心して見ている。
虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱い込んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇に説明してくれた。自分にはとても呑み込めない。けれども合点の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承した。そこで羽衣の曲を謡い出した。春霞たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩れるから、萎靡因循のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓をかんと一つ打った。
そして皆から色んな批評を受けたが、虚子は微笑しながら自分の鼓に、自分の謡を合せて納めた。そして、まだ他に廻らなければならない所があるからと言って帰って行った。あとで虚子の鼓に合せた自分の掛け声が、どうだのこうだのと若い者に冷やかされた。
細君までいっしょになって夫を貶した末、高浜さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢の袖がぴらぴら見えたが、大変好い色だったと賞ている。フロックはたちまち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。
漱石が虚子の襦袢や袖の色を好まないと語った最後の一行の文章がやけに強烈に印象に残った。以前より僕は高浜虚子の生きざまを好まない。たしかに虚子は俳壇に君臨する存在であったかもしれないが、それは平たく言えば、何処となく世渡り上手な、要領の良さが、そうさせた風にみえる。政治家や官僚、会社社長などと親密となり、多くを虚子の弟子とした。そして有力なところへ自分の娘や孫を嫁がせたという。正岡子規が没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭したりするが、一方では、自分を育ててくれた師である子規をあえて過小評価することで、自らを大きく見せようとする”嫌らしさ”が随所に見え隠れし、鼻についてならない。僕の偏見かもしれないが・・・。
漱石や子規と、虚子、あまりにもの格の違いを感じるが、当の漱石の心の奥底はどんな思いだったのだろう。
初空や 大悪人虚子の 頭上に 虚子
虚子の新年の俳句である。この”ふてぶてしさ”が虚子らしいところである。
by kirakuossan
| 2015-01-06 20:21
| 文芸
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