2014年 12月 01日
「まだ修行中の身です」 |
2014年12月1日(月)
日本棋院が創立80周年記念事業の一環として囲碁の普及と発展に貢献した人物を顕彰するために囲碁殿堂というのを2004年に設立した。有識者や棋士らで構成する囲碁殿堂表彰委員会によって選考され、今年で11回を数える。
第1回(2004年)徳川家康、一世本因坊算砂、四世本因坊道策、本因坊秀策
第2回(2005年)十二世本因坊丈和
第3回(2006年)大倉喜七郎、十四世本因坊秀和
第4回(2007年)十八世本因坊秀甫
第5回(2008年)十七世・十九世本因坊秀栄、二十一世本因坊秀哉
第6回(2009年)瀬越憲作
第7回(2010年)木谷実
第8回(2011年)岩本薫
第9回(2012年)安井算哲、陳毅
第10回(2013年)喜多文子
第11回(2014年)橋本宇太郎
第1回は江戸時代の人物に限定されたが、徳川家康が筆頭に殿堂入りして箔がついた。
また本因坊秀策は”秀策のコスミ”で知られる「秀策流」を編み出したり、 井上因碩との一戦、劣勢を挽回して勝利した「耳赤の一局」で有名な人物。第2回以降もさすがに錚々たる顔ぶれが並ぶが、この中に本来なら名前が挙がっていたはずの人物がいる。
第2回と第3回に 日本棋院からノミネートされたが、「まだ修行中の身です」と言ってこれを辞退した中国福建省出身の呉清源(ごせいげん)である。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し「昭和の棋聖」とも称された。多くの現役棋士にも影響を与え、囲碁ファンにも人気が高かった。2012年の囲碁雑誌の企画「尊敬する棋士、好きな棋士」では第1位に選ばれるほどで、僕も好きで、昔囲碁に熱中している時にこの人の囲碁本を読んだものだ。その呉清源が昨日亡くなった、100歳であった。戦前の十番碁では実力通りの実績を残したが、戦後は不思議と大きなタイトルには恵まれなかった。
囲碁殿堂がいずれも故人に与えられたのに、呉清源は90歳を過ぎて指名されたが、”まだ修行中の身”という気持でいてこれを断った。彼のこういった謙虚さも人気があった理由のひとつだろう。
日本棋院が創立80周年記念事業の一環として囲碁の普及と発展に貢献した人物を顕彰するために囲碁殿堂というのを2004年に設立した。有識者や棋士らで構成する囲碁殿堂表彰委員会によって選考され、今年で11回を数える。
第1回(2004年)徳川家康、一世本因坊算砂、四世本因坊道策、本因坊秀策
第2回(2005年)十二世本因坊丈和
第3回(2006年)大倉喜七郎、十四世本因坊秀和
第4回(2007年)十八世本因坊秀甫
第5回(2008年)十七世・十九世本因坊秀栄、二十一世本因坊秀哉
第6回(2009年)瀬越憲作
第7回(2010年)木谷実
第8回(2011年)岩本薫
第9回(2012年)安井算哲、陳毅
第10回(2013年)喜多文子
第11回(2014年)橋本宇太郎
第1回は江戸時代の人物に限定されたが、徳川家康が筆頭に殿堂入りして箔がついた。
また本因坊秀策は”秀策のコスミ”で知られる「秀策流」を編み出したり、 井上因碩との一戦、劣勢を挽回して勝利した「耳赤の一局」で有名な人物。第2回以降もさすがに錚々たる顔ぶれが並ぶが、この中に本来なら名前が挙がっていたはずの人物がいる。
第2回と第3回に 日本棋院からノミネートされたが、「まだ修行中の身です」と言ってこれを辞退した中国福建省出身の呉清源(ごせいげん)である。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨し「昭和の棋聖」とも称された。多くの現役棋士にも影響を与え、囲碁ファンにも人気が高かった。2012年の囲碁雑誌の企画「尊敬する棋士、好きな棋士」では第1位に選ばれるほどで、僕も好きで、昔囲碁に熱中している時にこの人の囲碁本を読んだものだ。その呉清源が昨日亡くなった、100歳であった。戦前の十番碁では実力通りの実績を残したが、戦後は不思議と大きなタイトルには恵まれなかった。
囲碁殿堂がいずれも故人に与えられたのに、呉清源は90歳を過ぎて指名されたが、”まだ修行中の身”という気持でいてこれを断った。彼のこういった謙虚さも人気があった理由のひとつだろう。
by kirakuossan
| 2014-12-01 14:10
| 囲碁
|
Trackback