2014年 11月 18日
日本初の海外オケ来日公演 シンフォニー・オブ・ジ・エア |
2014年11月18日(火)
1953年の夏、音楽評論家河上徹太郎は、
1か月半ほどイギリスとパリに旅行した。そこで念願の、本場のオーケストラ演奏を聴く機会を持った。エジンバラ芸術祭でのフルトヴェングラーとワルターが指揮するウィーン・フィルハーモニーの演奏会という願ってもない組み合わせであった。しかしその時の印象はこんなものだった。
失望とはいかないまでも、何か目が覚めるような、今まで想像も出来なかった驚異に接しられるかと思ってゐただけに、この期待は満足させられなかった。私は既に持ち合わせてゐたオーケストラの観念を、再認識し、厳正化するに止まった。つまり、私は既に日本でオーケストラの限界に思ったより近い所まで知ってゐたのであり、それが嬉しいより悲しかったのである。~
私の失望は先ず次のやうな形で現れた。エヂンバラの二百年経ったといふアッシャー・ホールの席につき、くすんだ巨大なパイプ・オルガンを背景に、頭の禿げた楽員たちが型通り楽器の調子を合せて待ってゐる所へ、才槌頭厳しく長身のフルトウェングラーが現れて指揮台に立った時、私の三十年の音楽遍歴の挙句辿りついた最上の瞬間が来たとの期待で、私の全精神は凝直した。処が巨匠の指揮棒が下ると共に、突如として鳴り出したのが英国国歌の、しかも想像以上しゃがれた和音の合奏である。この幻滅は、それから『エロイカ』以下の打って変った厳密を極めたアンサンブルを聞かされても、遂に一抹の物足りなさとなって終りまで続いたのであった。~
所が今度のシンフォニイ・オブ・ジ・エアは、同じく冒頭に奏する『君が代』からして違ってゐて、ティンパニの物凄いクレセンドの連打に喚び起されて全楽員の奏するユニソンのフォルテシモには、既にこの楽団の最高の音質と音量を見せてゐた。私はお蔭でわが国歌も満更ではないと見直した。それにつけても、百人もの一流人を海外から呼び寄せて、何といふ贅沢な敗戦国だらう。それに戦前にはこんなオーケストラを呼ぶなんて思ひもよらなかったのが、戦後には実現するといふのはどういふ訳だらう?~
シンフォニイ・オブ・ジ・エアの驚くべき演奏については、既に十分に諸家の讃辞が捧げられてゐるから、私は繰り返さない。その途方もなく大きな、ダイナミックな、しかも美しい音、例へば統制のとれた野球かラグビーのティームを見るような、音のやり取りやバック・アップの完全さ、私は初めてオーケストラも一つの「芸」であることを知った。そして、芸とは楽しく、健康なものだといふことも。<略>
(昭和30年6月「芸術新潮」掲載、河上徹太郎「シンフォニイ・オブ・ジ・エア」より)
1956年(昭和31年)にウィーン・フィルハーモニーとロサンゼルス・フィルハーモニーが、その翌年、1957年(昭和32年)にはヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルハーモニーが来日した。しかし実はそれよりも先の1955年(昭和30年)5月に、日本初の海外オーケストラの来日公演が繰りひろげられていた。そのオーケストラはシンフォニー・オブ・ジ・エアと呼び、元NBCトスカニーニ交響楽団であった。指揮者のワルター・ヘンドルとソーア・ジョンソンが、5月3日の日比谷公会堂での演奏会を皮きりに、併せて19公演を日本各地で行った。ちなみに日本初の海外交響楽団の来日演奏会の最初のプログラムは以下の通りであった。
5月3日:日比谷公会堂(指揮:ワルター・ヘンドル)
ベルリオーズ:ローマの謝肉祭
ガーシュウイン:パリのアメリカ人
Rシュトラウス:ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
ブラームス:交響曲第1番
東京・名古屋での公演の後、関西入りして、7日~9日は宝塚大劇場で3公演、10日には京都劇場で演奏会が行われた。全国各地で大好評になり、追加公演もいくつか持たれ、17日に三沢基地での慰問演奏会、23日には後楽園球場に17000人を集め、N響との共演でベートーヴェン交響曲第5番「運命」が演奏されたとある。
海外有名オーケストラの初来日記録
ウィーン・フィルハーモニーより先に来日していたオーケストラがあったのだ!
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ベートーヴェン:
交響曲第3番 変ホ長調 「英雄」 Op. 55
シンフォニー・オブ・ジ・エア
ブルーノ・ワルター(指揮)
(録音: 3 February 1957, Carnegie Hall, New York)
トスカニーニ追悼公演のライブ録音。ワルターと文通経験のある評論家宇野功芳が絶賛する演奏。「ワルターのライブの最高傑作であり、これを聴かずしてワルターを語ることは決してできない」
1953年の夏、音楽評論家河上徹太郎は、
1か月半ほどイギリスとパリに旅行した。そこで念願の、本場のオーケストラ演奏を聴く機会を持った。エジンバラ芸術祭でのフルトヴェングラーとワルターが指揮するウィーン・フィルハーモニーの演奏会という願ってもない組み合わせであった。しかしその時の印象はこんなものだった。
失望とはいかないまでも、何か目が覚めるような、今まで想像も出来なかった驚異に接しられるかと思ってゐただけに、この期待は満足させられなかった。私は既に持ち合わせてゐたオーケストラの観念を、再認識し、厳正化するに止まった。つまり、私は既に日本でオーケストラの限界に思ったより近い所まで知ってゐたのであり、それが嬉しいより悲しかったのである。~
私の失望は先ず次のやうな形で現れた。エヂンバラの二百年経ったといふアッシャー・ホールの席につき、くすんだ巨大なパイプ・オルガンを背景に、頭の禿げた楽員たちが型通り楽器の調子を合せて待ってゐる所へ、才槌頭厳しく長身のフルトウェングラーが現れて指揮台に立った時、私の三十年の音楽遍歴の挙句辿りついた最上の瞬間が来たとの期待で、私の全精神は凝直した。処が巨匠の指揮棒が下ると共に、突如として鳴り出したのが英国国歌の、しかも想像以上しゃがれた和音の合奏である。この幻滅は、それから『エロイカ』以下の打って変った厳密を極めたアンサンブルを聞かされても、遂に一抹の物足りなさとなって終りまで続いたのであった。~
所が今度のシンフォニイ・オブ・ジ・エアは、同じく冒頭に奏する『君が代』からして違ってゐて、ティンパニの物凄いクレセンドの連打に喚び起されて全楽員の奏するユニソンのフォルテシモには、既にこの楽団の最高の音質と音量を見せてゐた。私はお蔭でわが国歌も満更ではないと見直した。それにつけても、百人もの一流人を海外から呼び寄せて、何といふ贅沢な敗戦国だらう。それに戦前にはこんなオーケストラを呼ぶなんて思ひもよらなかったのが、戦後には実現するといふのはどういふ訳だらう?~
シンフォニイ・オブ・ジ・エアの驚くべき演奏については、既に十分に諸家の讃辞が捧げられてゐるから、私は繰り返さない。その途方もなく大きな、ダイナミックな、しかも美しい音、例へば統制のとれた野球かラグビーのティームを見るような、音のやり取りやバック・アップの完全さ、私は初めてオーケストラも一つの「芸」であることを知った。そして、芸とは楽しく、健康なものだといふことも。<略>
(昭和30年6月「芸術新潮」掲載、河上徹太郎「シンフォニイ・オブ・ジ・エア」より)
1956年(昭和31年)にウィーン・フィルハーモニーとロサンゼルス・フィルハーモニーが、その翌年、1957年(昭和32年)にはヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルハーモニーが来日した。しかし実はそれよりも先の1955年(昭和30年)5月に、日本初の海外オーケストラの来日公演が繰りひろげられていた。そのオーケストラはシンフォニー・オブ・ジ・エアと呼び、元NBCトスカニーニ交響楽団であった。指揮者のワルター・ヘンドルとソーア・ジョンソンが、5月3日の日比谷公会堂での演奏会を皮きりに、併せて19公演を日本各地で行った。ちなみに日本初の海外交響楽団の来日演奏会の最初のプログラムは以下の通りであった。
5月3日:日比谷公会堂(指揮:ワルター・ヘンドル)
ベルリオーズ:ローマの謝肉祭
ガーシュウイン:パリのアメリカ人
Rシュトラウス:ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
ブラームス:交響曲第1番
東京・名古屋での公演の後、関西入りして、7日~9日は宝塚大劇場で3公演、10日には京都劇場で演奏会が行われた。全国各地で大好評になり、追加公演もいくつか持たれ、17日に三沢基地での慰問演奏会、23日には後楽園球場に17000人を集め、N響との共演でベートーヴェン交響曲第5番「運命」が演奏されたとある。
海外有名オーケストラの初来日記録
ウィーン・フィルハーモニーより先に来日していたオーケストラがあったのだ!
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ベートーヴェン:
交響曲第3番 変ホ長調 「英雄」 Op. 55
シンフォニー・オブ・ジ・エア
ブルーノ・ワルター(指揮)
(録音: 3 February 1957, Carnegie Hall, New York)
トスカニーニ追悼公演のライブ録音。ワルターと文通経験のある評論家宇野功芳が絶賛する演奏。「ワルターのライブの最高傑作であり、これを聴かずしてワルターを語ることは決してできない」
by kirakuossan
| 2014-11-18 19:49
| クラシック
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